人間
その日の放課後、小野田はいつもの空き教室に足を運んだ。
「お疲れ! どうだった? あーしたちの復讐っ!」
最初に彼女に声をかけたのは、絵里だった。しかし小野田は、浮かばない顔つきでうつむいている。
「あの裏アカ……ディープフェイクだよね? 相良があんなこと、するわけないもん」
そう呟いた彼女は、すり切れたような眼差しをしていた。そこで嬉々とした感情を見せてくるのが、藤谷潤也という男である。
「ははは! やりすぎ……とでも言いたいのか?」
「うん。流石にやりすぎだよ。ディープフェイクの件も、校内放送の件もね」
「命があるだけ生ぬるいだろ。俺の夢は復讐代行で自殺者を出すことなんだから」
ここに来て、彼の最悪な夢が明言された。小野田は絶句し、その場で立ちすくむばかりだ。爪先から頭頂にかけて、彼女の全身が震えあがる。その様相を前に、潤也は更に嗜虐的な高揚感を覚える。
そこにもう一人、男子生徒が姿を現した。
「潤也を人間だと思わない方がいい」
――氷室師走の登場だ。宏太と絵里は身構えていたが、潤也一人だけは余裕綽々としている。
「俺が人間じゃないって? 違うね。人類はローマ時代、殺し合いを見ることを娯楽にしていたんだ。今ではワイドショ―で芸能人の破滅を追って喜んでいる。人間のエンタメってのは、他人事に収まる破滅なんだよ」
「違う! 人間は、そんな穢れた輩ばかりではない!」
「なぁ、師走。リズムゼロって知ってるか? ある芸術家が言ったんだ――六時間、自分に何をしても良いってな。その結果どうなったと思う? それはもう暴行のオンパレードよ。人間ってのは、案外そういうもんだ」
少なくとも、彼の人間への解像度は低くはないだろう。ただ偏りが見られるだけだ。緊迫した空気が立ち込める中、絵里はスマートフォンを眺めながら感心している。彼女が見ているのは、インターネット百科事典のリズムゼロの項目だ。絵里が新たな知識に興奮している傍らで、師走と潤也は会話を続ける。
「リズムゼロ……マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンスだな。確かにあのパフォーマンスは人間の醜さを象徴していたが、彼女を保護しようと動いた人間もいた。だからボクは、人間の善性を信じたい」
「だけど、善性は脆かった。大義名分を与えられた人間は、容易く暴徒に変わるんだよ」
「それでも、その場で用意されていた拳銃は最後まで使われなかった。リズムゼロでマリーナが亡くならなかったことは、人間の善性を象徴し得ると思わないか?」
意外にも、師走はリズムゼロのことをよく知っていた。潤也はにやにやと笑いながら、彼に問う。
「そもそも、俺がなぜ復讐代行をできると思う?」
「それは、キミが怪物だから」
「そうじゃない。お前はコウノトリが赤子を運んでくるという話を聞いて、腑に落ちたことがあるのか? 幼少期のお前が知りたかったことは、赤子がどのようにこの世に発生するかだ。そうだろう?」
――まるで話が見えてこない。師走だけでなく、宏太も困惑した。数瞬の沈黙が訪れ、カラスの鳴き声だけがその場にこだました。そして数秒ほどの静寂を破るのは、潤也である。
「俺が復讐代行をできるのは、復讐を要される案件が発生するからなんだよ」
「なっ……!」
「誰かが痛い目を見てからじゃないと、復讐は成り立たないだろ? 復讐という概念が成立し得る時点で、人間は醜い生き物なんだよ」
その言説には、一定の筋が通っていた。なまじ矛盾が感じ取れないだけに、師走は反論の言葉を紡げなかった。
「……もういい。これ以上は、水掛け論になるだけだ」
そう言い残した師走は、潤也たちに背を向けた。歩き去る彼の後ろ姿を眺めつつ、潤也は呟く。
「アイツ、この学校の何を見て、人間の善性なんか信用できるんだろうな」




