第二話 常磐邸
ご訪問いただき、ありがとうございます。
第1話と同時公開の第2話です。
ついに館の中へ足を踏み入れた二人。
不思議な静けさと豪奢な空間の中で、束の間の安らぎが訪れます──。
二人の微笑ましいやり取りを、どうぞ見守ってください。
ギィィ──
錆びついた金具が軋み、湿った森に不快なほど長く反響する。
それは闇に潜む見えない何かを呼び寄せる合図のようで、背中の産毛がそっと逆立ち、思わず息を呑んだ。
ゆっくりと押し開けた扉の先には──
鮮血を思わせる赤い絨毯が、真っすぐ奥へと延びていた。
「まぁ……なんて素敵」
ハナコの吐息が、ひっそりとした館内に溶けていく。
「……すみません、どなたか……」
呼びかけに応じる声はなく、タロウの声だけが木霊した。
和と洋が入り混じるハイカラな内装。柱には和彫りの意匠、壁には西洋の絵画、
そして──大きな振り子時計。
剥がれかけた壁紙の隙間から、古い木の匂いと湿った空気が滲み出している。
「もしかすると留守かもしれない。少し休ませてもらおう」
そう言って、タロウはためらいなく泥だらけの靴で館内へ足を踏み入れた。
ハナコは一瞬だけ立ち止まったが、離れないよう彼の後を寄り添うようについていく。
コツ、コツ、コツ──
二人の足音が、広い館内で波紋のように反響する。
「……たくさんの肖像画があるのね」
その言葉にタロウは目を向ける。
少しの罪悪感と緊張がそう思わせているのか、肖像画の目がこちらを睨んでいるように感じた。
まるで侵入者を拒むような──そんな声が聞こえてきそうだ。
「……あら、この額の下に銘板が」
ハナコが立ち止まり、小さな文字を指でなぞる。
《常磐 寅次郎──常磐機巧舎 創業者》
「……常磐機巧舎?どこかで聞いたような……」
タロウは気にも止めず、歩みを進めた。
──グゥゥゥ。
それは、唐突だった。
緊張という名の風船に小さな穴が空くような──
不意に気の抜けた音が響き、タロウは振り返った。
タロウの袖をつまみ、上目遣いでこちらを見るハナコ。
「ぷっ……あはははは!」
ハナコの恥じらう顔に、こらえきれず笑い出すタロウ。
顔を真っ赤にし涙目になった彼女が、子供のように頬をふくらませる。
「……そんなに笑うなんて、ひどいわ」
「すまない、君がそんな顔をするもんだからつい、ふふふ…」
一瞬、ふっと心が軽くなる、穏やかな時間。
今日一日何も食事をしていないことに気づいたタロウは、
館内の調理場を探しに足を早めるのだった。
* * *
調理場には、整然と並べられた西洋食器。
戸棚には珍しい外国の缶詰、冷蔵庫には材料がぎっしり詰まっている。
「……すごい」
二人は顔を見合わせ、ごくりと唾を飲む。
この不況の最中、こんなにもたくさんの食料があることに二人は驚き、
疑問が脳裏をかすめたが、すぐさま食欲の虜になっていた。
タロウは豪快に缶詰を開け、ためらいもなく食べ始めた。
ハナコはお皿に移し、丁寧に口へ運ぶ。その仕草は育ちの良さを物語っていた。
金属と磁器の擦れる音が、静かな空間に優しく滲んでいく。
言葉はなくとも、視線が何度も重なり、互いの温もりを確かめ合う。
彼女の穏やかな眼差しが、タロウを包む。
頼れる彼が、まるで少年のように食べる姿が愛おしい。
ようやく満腹と安堵に満たされる二人。
「……勝手に食べてしまったけれど、大丈夫かしら」
「理由を話せば、わかってくれるさ。それに、ここの主人はきっと大金持ちだろう」
あっけらかんと笑うタロウに、ハナコもつられて微笑む。
その笑顔の裏に、彼もまた少しの不安を隠していた。
「……それにしても、主人はいつ帰ってくるのだろう」
時間が過ぎても人の気配はない。
けれど森での野宿は危険だ。二人は泊まらせてもらうことにした。
* * *
広間から伸びる大階段を上り、
二人は二階の寝室に案内されるように辿り着いた。
古びたレースのカーテンが月明かりを透かし、淡い影を落としている。
「……ここで休みましょう」
ハナコは小さく呟き、ベッドに腰を下ろした。
タロウがその肩に手を添える。
触れた指先に、かすかな冷たさが走った。
周囲に拒まれ、逃げ込んだ古びた洋館。
非現実の静けさの中で、二人の鼓動は確かに早まっていった──。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
穏やかな空気の中に、わずかに漂う違和感。
この洋館は、本当に二人に安らぎを与えてくれる場所なのか──。
ちなみに、洋館内の描写は個人的にお気に入りの場面です。
どうぞ次回も、この洋館でお会いしましょう。
次回【第三話 月影の契り】は、【8月12日(火)18時頃】に投稿予定です。
よろしければ、続きも覗きに来てくださいね。
※この作品は、第9回アース・スターノベル大賞応募作品です。