第一話 希望への逃避行
はじめましての方、
そして前作『きらめく星の瞬きに』をお読みくださった皆さま、お久しぶりです。
OKUTOです。
本日から、新作中編ドラマ『冷たい肌』を公開します。
舞台は1920年、大正の日本。逃避行の末に辿り着いたのは、森の奥の古びた洋館──そこから始まる、男女の物語です。
本日は、第1話と第2話を同時公開しています。
まずはこの第1話で、二人が洋館へ辿り着くまでをお楽しみください。
そして、続く第2話で館の扉の向こうへ──。
愛と狂気、その境界線を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
全8話、毎日更新でお届けします。
気軽に読める中編として、楽しんでいただければ幸いです。
一九二〇年 三月──
第一次世界大戦の終戦から数年。日本の景気は、決して明るいものではなかった。工業化の波に押され、農業は停滞。米価は高騰し、輸出の減少が物価を押し上げる。民衆の不満は各地で暴動となって噴き上がった。
その裏で、一部の資本家は戦時中に巨額の富を得て新しい事業を拡大。
富める者はますます富み、貧しい者はより貧しくなる──格差は広がるばかりだった。
その嵐の中で生まれも立場も違う二人が、ただ一つの想いを胸に逃げ出した。
周囲から引き裂かれようとした日々への、ささやかな反乱。
それは、たった二人だけの戦いだった。
* * *
人気のない路地裏を駆ける足音──。
ガス灯の淡い光が石畳を照らし、湿った夜気が頬をかすめる。遠くでは活動写真館の明かりがぼんやり瞬き、大正の街は夜の帳に沈んでいた。
「……はぁ、はぁ……ここまで逃げれば、もう追いつけないだろう」
山高帽を押さえる男の横で、和洋折衷のモダンな服装の女が、細い肩を震わせていた。
「……タロウさん、わたし、怖いわ」
「大丈夫さ、ハナコさん。僕がついてるよ」
握り返した手は、氷のように冷たい。
田舎の寒村で鍛えた腕は、頼り甲斐があり、どこか都会慣れしない真面目さを帯びている。
一方のハナコは、名家の娘らしい白磁の肌に、まだ幼さを残した瞳を持っていた。
その瞳が、今は怯えと信頼の色を揺らしている。
背後から、怒号と大勢の足音が、静まり返った街を切り裂く。
眩しいライトが闇を探り、コンクリート塀に二人の影を長く引き伸ばしていく。
ほの暗い路地裏に吸い込まれるように、二人の影は闇の中へ溶けていった。
やっと腰を下ろしたのは、苔むした石造りのトンネル。
奥には光を拒む漆黒の闇が手招きしているようだ。足を踏み入れれば、二度と帰れない──そんな危うさが潜んでいた。
ひび割れた壁を伝い、ぽたり、ぽたりと水が落ちる。その音は、長い孤独を憂うように、静かに寂しさを反響させていた。
「このトンネルも……存在を認めてもらえていないのね……」
「そんなことはないさ。戦時中、多くの命を守ったトンネルさ」
「……でも、やがて忘れられていくんだわ。わたしたちも同じように」
タロウは彼女の肩を抱き、力強く答えた。
「誰が認めなくても、僕たちは幸せになれる」
その言葉が、ハナコの胸の奥に小さな火を灯した。
(タロウさんとなら……きっと……)
ふと、遠くから明かりの群れが揺れた。
「……来たか。ハナコさん、行こう!」
汗ばんだ手を握り合い、終わりの見えない闇の中を、光を求め再び駆け出した。
* * *
どれほど走ったのか、二人は息を切らしながら暗い森の中をただ彷徨っていた。
「……あっ!」
ハナコが木の根に足を取られ、身体が前のめりになる。
すかさずタロウがその手を強く握り、引き寄せた。影の中で視線が合い、
言葉を交わさずに”大丈夫か”と告げる。
その瞳の奥の温もりに、ハナコの呼吸は少しだけ落ち着き、頬に微笑が戻る。
次の瞬間には、二人はまた並んで夜を駆け抜けていた。
けれど、このままではいずれ力尽きてしまう──。
焦りが胸に忍び寄ったとき、霧の向こうで何かが光を返した。
木々の影を抜けた瞬間、視界がひらける。
白いベールのような霧の中、怪しくも艶やかにそびえ立つ、古びた洋館が姿を現した。
月明かりがしだいに屋根の稜線をくっきりと浮かび上がらせ、窓には暖かな明かりがもれていた。
その光は、迷い込んだ者を包み込むようでいて、底知れぬ静けさを湛えていた。
「……あれは……」
「行こう、ハナコさん。あそこなら、もう誰にも見つからない」
固く手を取り合い、二人は闇の中で差し伸べられた救いに導かれるように──
いや、呼び寄せられるように、その洋館へ姿を消していった。
第1話をお読みくださり、ありがとうございます。
まだ物語は始まったばかりですが、この洋館が二人にとって救いになるのか、それとも──。
この続きは同時公開中の第2話から、すぐにお読みいただけます。
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※この作品は第9回 アース・スターノベル大賞応募作品です。