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第8話「古書店の店主と新たな波紋」

 翌朝、僕が目を覚ました時、アジトの空気は昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 自室の簡素なベッドの上で、僕はぼんやりとコンクリートの天井を見つめる。

 昨夜の出来事が、まるで遠い昔のことのようにも、ついさっきのことのようにも感じられた。

 闇野小春の涙、影山黒江の底知れない影、そして僕自身の影が放った、あの温かい光……。


「……起きてんのか、灯」


 足元から、カゲの気だるげな声がした。いつもより、少しだけ低いトーンだ。


「……うん。カゲ、お前も」


「まあな。お前がうなされてる間、見張りくらいはしてやる」


 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、その声には確かな優しさが滲んでいる。

 昨夜の戦いで、僕とカゲの間の共鳴は、また少し形を変えた気がした。

 ただの持ち主と影という関係ではなく、もっと深く、互いの魂が結びついたような、そんな感覚。


 僕はゆっくりと体を起こし、着替えて部屋を出た。

 共有スペースへと続く廊下は、ひんやりとした空気に満ちている。

 すれ違う仲間たちが、僕に気づくと、わずかに視線を向ける。

 その視線には、好奇心、警戒、そしてほんの少しの期待が混じり合っているように感じられた。

 昨夜の僕の力は、このアジトの仲間たちにとっても、未知のものなのだ。


 共有スペースのキッチンでは、春樹さんがコーヒーを淹れていた。


「おはよう、灯くん。よく眠れたかい?」


「春樹さん……。はい、なんとか」


「そっか。昨日は、本当にお疲れ様。君のおかげで、おじいさんも無事だった」


 春樹さんはそう言って、僕に温かいマグカップを手渡してくれた。

 その湯気の向こうで、彼の影が穏やかに揺らめいている。

 彼の優しさが、強張っていた僕の心を少しだけ解きほぐしてくれた。


「あの……じいさんは?」


「医務室で、栞さんと話しているよ。灯くんのことも、待っていると思う」


「……わかりました」


 僕は、覚悟を決めた。

 いつまでも、じいさんに嘘をつき続けるわけにはいかない。

 僕が何に巻き込まれ、何と戦っているのか。その全てを話すことはできなくても、僕自身の口から、伝えなければならないことがある。


 医務室のドアをノックすると、「どうぞ」という栞さんの静かな声が聞こえた。

 中に入ると、ベッドに腰掛けたじいさんと、その隣に立つ栞さんの姿があった。

 じいさんの顔には、いつものような穏やかさはなく、深い戸惑いと心配の色が浮かんでいた。


「灯……」


 じいさんが、僕の名前を呼ぶ。その声は、かすかに震えていた。


「じいさん、昨日は……ごめん。怖い思いをさせて」


「いや……わしは大丈夫だ。それより、お前こそ……。一体、何がどうなっているんだ?あの黒い影は……お前の……」


 じいさんの視線が、僕の足元にいるカゲに向けられる。

 カゲは、じいさんの視線を受けて、少しだけ身を縮こませた。

 まるで、自分がじいさんを怖がらせている元凶だと、自覚しているかのように。


 僕は、栞さんと視線を交わした。彼女は、静かに頷き、僕に話すように促してくれた。


「じいさん。信じられないかもしれないけど、聞いてほしい。僕には……僕と同じように、特別な『影』を持つ仲間がいるんだ」


 僕は、ゆっくりと話し始めた。

 "影持ち(シャドウ・ウォーカー)"と呼ばれる僕たちのこと。

 僕たちの影が、それぞれ独立した意思を持っていること。

 そして、僕たちを狙う「影喰い(シャドウ・イーター)」という組織が存在すること。


 じいさんは、黙って僕の話を聞いていた。

 その表情は、驚きと混乱に満ちていたが、僕の言葉を否定しようとはしなかった。


「……そうか。お前が、時々遠い目をしていた理由が、ようやくわかった気がする」


 じいさんは、深くため息をつくと、ぽつりと言った。


「わしには、お前さんの言う『影』とやらは見えん。だがな、灯。お前が、わしの知らない世界で、たった一人で苦しんでいたことは、痛いほどわかる。気づいてやれんで、すまんかったな」


「じいさん……」


「わしにできることは、何もないかもしれん。だがな、ここがお前の帰る場所であることだけは、忘れるな。そして、あの古書店も、わしも、いつだってお前の味方だ」


 じいさんの温かい言葉に、僕の目頭が熱くなる。

 僕が守りたかったものは、この温かさだったのだと、改めて実感した。


「ありがとうございます……」


 僕がそう言うと、じいさんはふと、何かを思い出したように顔を上げた。


「……灯。お前が『影』の話をしたから、思い出したことがある」


「思い出したこと?」


「ああ。あの古書店を、わしに譲ってくれた先代……わしの師匠なんだがな。その人が、昔、奇妙なことを言っていたのを思い出したんだ。『あの店には、光と影の物語が眠っている。いつか、その物語を読み解く者が現れるだろう』とな」


「光と影の物語……?」


「うむ。当時は、ただの文学的な表現だと思って、気にも留めていなかったんだが……。もしかしたら、何か関係があるのかもしれん」


 じいさんの言葉に、僕と栞さんは顔を見合わせた。

 単なる偶然とは思えなかった。


「おじいさん、その方について、もう少し詳しく教えていただけますか?」


 栞さんが、身を乗り出して尋ねる。


「ううむ、もう何十年も前の話だからな……。師匠は、風変わりな人でな。古今東西の奇書や稀覯本を集めるのが趣味で、特に、文字のない『絵本』や、未解読の『古文書』に目がない人だった。わしがこの店を継いだ時には、ほとんどの蔵書は散逸してしまっていたんだが……一冊だけ、師匠が『これだけは手放すな』と言って、わしに託した、不思議な本がある」


「不思議な本……?」


「ああ。わしが若い頃、師匠が一度だけ見せてくれたことがある。黒い革装で、銀の錠前がかかった、分厚い古書じゃった。師匠は『これだけは手放すな』と言って、わしの目の前でその本を開かずの金庫にしまい、そのまま店を譲ってくれたんじゃ。じゃから、わしも中身は見たことがない」


 僕の脳裏に、電流が走った。

 古びた、奇妙な挿絵があるだけの、誰も読まないような本……。

 その言葉が、僕の記憶の片隅にあった、古書店の一冊の本のイメージと鮮やかに結びついた。

 まさか、あの本のことだろうか。


「じいさん、その本、見せてもらうことってできる……?」


 僕の必死の問いに、じいさんは少し驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。


 ◇


 じいさんとの話の後、僕は作戦会議室に戻った。

 僕からじいさんの話を聞いた仲間たちは、皆、驚きと興奮を隠せないでいた。


「鍵のかかった古書……。間違いありません。それが、私たちが探していた『失われた古代の文献』、あるいは、その場所に繋がる重要な手がかりである可能性が極めて高いです」


 栞さんが、確信に満ちた声で言う。


「だが、どうやってその鍵を開けるんだ?物理的に破壊するのは、中の本を傷つけるリスクがある」


 亮さんの冷静な指摘に、皆が考え込む。


「俺の影で、鍵の構造を探れないか?《索敵のスキャン・シャドウ》なら、内部の構造をある程度把握できるかもしれん」


 セキュリティルームからオンラインで参加している隼人さんが、モニター越しに提案する。


「それだ!隼人、頼めるか?」


「やってみよう。だが、そのためには、一度アジトにその本を持ち帰る必要があるな」


「古書店は、まだ影喰いに監視されている可能性がある。危険じゃないか?」


 凛の懸念ももっともだ。


「そこで、僕の出番ってわけだね」


 春樹さんが、にこやかに言った。

「僕の《共感のエンパシー・シャドウ》と、灯くんの力を合わせれば、監視している影喰いの感情を読み取り、彼らの警戒が薄れる瞬間を狙うことができるかもしれない」


「僕と、春樹さんの力で……」


「ああ。君の力は、ただ相手の感情を『浄化』するだけじゃない。共鳴を増幅させ、より深く、広く、相手の心を探ることもできるはずだ。僕がその補助をする」


 僕の力が、また新しい可能性を見せ始めている。

 仲間たちとの連携の中で、僕の役割が、少しずつ明確になっていくのを感じた。


「決まりですね」


 栞さんが、テーブルに手をついて宣言した。

「次の作戦は、『失われた古代の文献』の回収。隼人は、古書店周辺の監視状況をリアルタイムで報告。亮と凛は、周囲の警戒と護衛。そして、春樹と灯さんで、潜入のタイミングを探ります」


 新たなミッションが決まり、アジトの空気が再び引き締まる。

 僕の心にも、恐怖と同時に、確かな使命感が湧き上がっていた。


 ◇


 作戦決行までの数日間、僕は自分の力をより深く理解するため、訓練に時間を費した。

 今日の訓練相手は、亮さんだった。


 アジトの地下にある訓練室は、だだっ広いコンクリートの空間だ。

 壁には、影の能力が外部に漏れないように、特殊な素材が使われているらしい。


「いいか、灯。お前の力は、攻撃には向いていない。だが、防御と攪乱においては、誰にも真似できない可能性がある」


 亮さんは、僕の向かいに立ち、静かに言った。

 彼の背後では、《障壁のバリア・シャドウ》が、まるで黒い盾のように、静かにその存在を主張している。


「防御……ですか?」


「そうだ。お前の影が放つ光……あれは、相手の攻撃的な感情、つまり『敵意』に反応して、それを中和する性質があるように見えた。ならば、俺の影の『壁』と、お前の影の『光』を組み合わせれば、鉄壁の防御が生まれるはずだ」


「亮さんの壁と、僕の光……」


「やってみよう。俺が、お前に向かって、敵意を込めた影を放つ。お前は、それを全力で受け止め、光で包み込んでみろ。カゲと協力して、お前の『守りたい』という感情を、最大限に増幅させるんだ」


「……はい!」


「おいおい、手加減してくれよな、亮さん。こいつはまだ、ひよっこなんだぜ」


 カゲが、僕の足元で軽口を叩く。


「案ずるな。殺しはしない」


 亮さんが、わずかに口の端を上げて笑った。


 深呼吸をして、僕は意識を集中させる。

 じいさんの顔、古書店の温かい雰囲気、そして、アジトの仲間たちの顔。

 僕が守りたいものを、一つ一つ、心に思い浮かべる。


「行くぞ!」


 亮さんの声と共に、彼の影が、鋭い槍のように僕に向かって伸びてきた。

 物理的な質量はない。だが、その影からは、肌を突き刺すような、純粋な敵意の共鳴が放たれる。

 頭が割れるように痛い。


「灯!怖がるな!受け止めろ!」


 カゲが叫ぶ。


 僕は、恐怖を押し殺し、両手を前に突き出した。

 心の中で、ただ一つ、「守る!」と叫ぶ。

 その瞬間、僕の足元のカゲが、僕の感情に呼応するように、眩い光を放った。


 温かい光が、僕の全身を包み込む。

 亮さんの影の槍が、その光の壁に触れた瞬間、キィン、という甲高い音と共に、その勢いが急速に弱まっていく。

 敵意の共鳴が、光に吸収され、浄化されていくのがわかった。


「……すごいな」


 亮さんが、感心したように呟いた。

「これほどの防御力とは……。これなら、影喰いの幹部クラスの精神攻撃にも、ある程度耐えられるかもしれん」


「はあ……はあ……」


 僕は、その場に膝をつきそうになる。全身の力が抜けていくようだ。


「だが、燃費が悪いな。まだ、力のコントロールができていない証拠だ」


 亮さんが、僕に近づいてきて、肩を貸してくれた。


「すみません……」


「謝るな。これが、お前の現在地だ。だが、可能性は無限にある。自信を持て」


 亮さんの無骨な手から、不器用な優しさが伝わってくる。

 僕は、この人のように強くなりたいと、心から思った。


 ◇


 訓練を終え、自室に戻った僕は、ベッドに倒れ込むように横になった。

 疲労困憊だったが、心は不思議と満たされていた。


 じいさんの言葉、仲間たちの期待、そして、僕自身の力の新たな可能性。

 全てが、僕の中で、一つの大きな希望の光となって輝き始めている。


 僕は、ポケットから、いつも持ち歩いている「古いお守り」を取り出した。

 亡くなった祖母からもらった、古びた布製のお守り。

 中には、何か硬いものが入っている。


 何の気なしに、僕はそのお守りに、今日の訓練で感じた光の力を、そっと流し込んでみた。


 その瞬間。


 お守りが、淡い光を放った。

 そして、僕の脳裏に、直接、誰かの声が響いた。


 ――ようやく、目覚めの時が来たのですね。我が血を引く者よ――


「え……?」


 声は、穏やかで、どこか懐かしい響きを持っていた。女性の声だ。


 ――その力は、世界を照らす光にも、全てを飲み込む闇にもなる。心せよ。お前の道は、まだ始まったばかりなのだから――


 声と共に、お守りの中の硬いものが、僕の影と共鳴するように、温かい脈動を始めた。

 それは、シャドウストーン……?いや、それ以上に、生命的な、温かい何かだった。


 光と声は、すぐに消えた。

 手の中には、いつもと同じ、古びたお守りがあるだけだ。


「……今の、は……」


 僕は、呆然と呟いた。


「おい、灯、どうした!?」


 カゲが、僕の異変に気づいて叫ぶ。


 僕の心臓は、これまでにないほど激しく高鳴っていた。


 じいさんの師匠が残した、鍵のかかった古書。

 そして、祖母が僕に託した、謎のお守り。


 僕の知らないところで、巨大な物語の歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、回り始めていた。

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