第7話「撤退の残光」
「なんで……あったかいの……?」
闇野小春のか細い声が、夜の静寂に震えながら溶けていく。
彼女の瞳からこぼれ落ちた涙は、僕の影が放つ淡い光を反射して、夜闇に一瞬の虹を描いた。
あれほど攻撃的だった彼女の《捕食の影》は、今は主の心に寄り添うように、静かに、そして戸惑うように揺らめいているだけだった。
僕の心臓は、まだ激しく脈打っている。
自分の影から放たれる、穏やかで温かい光に、僕自身も戸惑っていた。
これは、本当に僕の力なのだろうか。
「灯、油断するな!そいつは泣き落としで隙を狙ってるかもしれねえぞ!」
カゲが僕の足元で、警戒を解かずに唸る。
「違うよ、カゲ。彼女は……」
僕にはわかった。小春の涙は、演技なんかじゃない。
それは、固く閉ざされた心の扉が、ほんの少しだけ開いたことで溢れ出た、本物の感情だった。
僕が彼女に何か言葉をかけようとした、その瞬間。
ぞくり、と背筋を悪寒が駆け上った。
さっきまでの戦闘の緊張とは質の違う、粘りつくような嫌な視線。
周囲の温度が数度下がり、空気が重くなる。
カゲが「チッ……!」と短く舌打ちし、僕の前に立ちはだかるように影を濃くした。
「小春、見苦しいですよ。任務中に何を遊んでいるのですか」
凛とした、しかし感情の温度を感じさせない声が、路地の闇から響いた。
ゆらり、と姿を現したのは、ショートの黒髪が特徴的な、鋭い目つきの女性。
彼女の足元に広がる影は、カゲのように明確な輪郭を持たず、まるで濃い霧のように周囲の闇に溶け込んでいる。
影喰いの幹部、影山黒江。
隼人さんのデータで見た顔だ。
「黒江……さん……」
小春が、怯えたように後ずさる。
僕の影の光から逃れるように、彼女は新しい脅威の元へと吸い寄せられていった。
「あなたの任務は、この影持ちの無力化と捕獲。涙を流して同情を乞うことではありません。それとも、この役立たずの影に絆されてしまったとでも?」
黒江は表情一つ変えずに言う。
彼女の影、《支配の影》が、音もなくその範囲を広げていくのが、僕の共感性を通して感じ取れた。
それは、小春の影のように直接的に力を奪うのではない。
知覚に干渉し、疑念や不安を増幅させる、もっと厄介な力だ。
「ちが……私、は……」
小春が何かを言おうとするが、言葉にならない。
黒江の影の影響で、彼女自身の思考さえも支配されかけているようだった。
「灯さん、退きます!彼女は危険すぎる!」
栞の切羽詰まった声が飛ぶ。
同時に、古書店の裏口から、亮さんに支えられたじいさんが姿を現したのが見えた。
凛が、じいさんの背後を固めている。
「じいさん!」
僕が叫ぶと、じいさんは僕を見て、驚いたように目を見開いた。
「灯……お前、一体……その影は……」
「話は後だ!行くぞ!」
亮さんがじいさんを促し、撤退を開始する。
「逃がしませんよ」
黒江の影が、僕たちの退路を塞ぐように、ゆらりと動く。
その影に触れた街灯の光が、奇妙に屈折し、僕たちの目に映る風景がぐにゃりと歪んだ。
仲間たちの姿が二重、三重に見え、方向感覚が狂わされる。
「くっ……!視界が……!なんて厄介な能力だ!」
凛が舌打ちするのが聞こえる。
「俺から離れるな!俺の影を辿れ!」
カゲが叫ぶ。
僕の足元の影が力強く脈動し、黒江の影がもたらす精神汚染から僕を守ろうとしてくれているのがわかった。
「灯くん、僕の影に集中して!現実の『音』だけを拾うんだ!亮さんの足音、凛さんの衣擦れの音!」
春樹の声が、混乱した僕の意識の道標となる。
僕は彼の言葉を信じ、目を閉じた。
仲間たちの立てる現実の音だけを頼りに、僕は歪んだ空間の中を駆け出した。
「あら、面白い。私の《支配の影》の中で、これほど正確に動けるとは。あなた、やはり興味深いですね」
黒江が、初めて感心したような声を漏らす。
僕たちが撤退する間際、僕は振り返って小春を見た。
彼女は、黒江の隣で、ただ呆然と僕の影が放っていた光の残滓を見つめていた。
その瞳には、もう敵意はなかった。
アジトに戻った僕たちは、重い沈黙に包まれていた。
じいさんは、栞から最低限の事情を聞き、今はアジトの医務室で休んでいる。幸い、怪我はなかった。
作戦会議室のテーブルを囲み、僕は自分の両手を見つめていた。
あの温かい光の感覚が、まだ残っているようだった。
「灯さん、今日のあなたの力……あれは一体?」
栞が、静かに口火を切った。彼女の瞳は、真剣そのものだ。
「僕にも……よくわからないんです。ただ、彼女が助けてほしがってるように見えて……僕が、そうしたいって思ったら、影が……」
「感傷に浸ってる場合じゃない。敵は敵だ。次も同じ手が通じると思うなよ。今回は運が良かっただけだ」
凛が、腕を組んで冷たく言い放つ。だが、その声には、僕を案じる響きが微かに混じっていた。
「そうかな?僕はそうは思わないけど」
春樹が、凛の言葉に反論するように、穏やかに口を開いた。
「灯くんの力は、相手の心を理解して、それを僕たちの力に変える可能性を秘めている。闇雲な攻撃より、よほど効果的かもしれない」
「優しさで敵が倒せるか?春樹。相手は影喰いだぞ。俺たちが相手にしているのは、そんな甘い連中じゃない」
凛が、春樹をまっすぐに見据える。
「だが、凛の言うことも一理ある」
今まで黙っていた亮さんが、重々しく口を開いた。
「あの黒江という幹部……彼女の能力は、我々の連携を根本から崩しかねない。幻覚と精神支配……極めて危険だ。今日の撤退は、春樹と灯の特殊な共感性がなければ、もっと困難だっただろう」
「ええ。影山黒江……彼女は間違いなく、今後の大きな脅威となるでしょう。ですが、収穫もありました。灯さん、あなたの力です」
栞は僕をまっすぐに見つめた。
「あなたの力は、まだ未知数です。けれど、それは私たちが影喰いに対抗するための、新しい『切り札』になるかもしれません。私たちは、それを育てていく必要があります」
「僕の力が……切り札……」
議論が続く中、僕の心は一つのことにとらわれいた。
敵であるはずの小春の、あの涙。
そして、僕の影が起こした、奇跡のような現象。
あれは、本当に僕の力だったのだろうか。
それとも、ただの偶然だったのだろうか。
その夜、僕は一人、自室のベッドで天井を見つめていた。
「……なあ、カゲ」
「なんだよ」
「今日のあれ、どう思う?僕、怖かったんだ。また暴走するんじゃないかって。でも、あの時は……」
カゲはしばらく黙っていたが、やがて、ぶっきらぼうに言った。
「……さあな。だが、お前が『そうしたい』って本気で願ったから、俺も応えた。それだけだ。お前がただ怖がってた時とは違う。お前は、あいつを『助けたい』って思った。そうだろ?」
「……うん」
「なら、それが答えだ。俺はお前の影だ。お前の心が決めることに、俺は従う。……まあ、たまには無茶もするがな」
カゲが、少しだけ照れくさそうに言う。
「ありがとう、カゲ。お前がいてくれたからだ」
「ふん。当たり前だ。俺がいなきゃ、お前はただの気弱な本屋の店員だからな」
憎まれ口を叩きながらも、僕とカゲの間には、温かい共鳴が流れる。
まだ謎は多い。影喰いの目的も、僕の力の正体も、何もわかっていない。
それでも、僕たちは確かに、最初の一歩を踏み出したのだ。
闇の中、僕はそっと目を閉じる。
僕の影は、未来への、かすかな光を灯し始めていた。