第6話「共鳴する感情」
「あら、まだ耐えるの? しぶといわね、この役立たず!」
闇野小春の甲高い声が、ガラスの破片のように僕の頭に突き刺さる。
彼女の《捕食の影》は、先ほど感じた一方的な力の吸収とは質が違う。
今度はまるで、冷たい泥が心の中にじわじわと流れ込んでくるように、僕の精神そのものを汚染しようとしていた。
思考が鈍り、視界の端から黒いインクが滲んでいく。
雨上がりのアスファルトの匂いが不意に強くなり、頭痛と吐き気がこみ上げてきた。
手足の指先が痺れ、立っている感覚さえ曖昧になってくる。
脳裏に、教室の隅で膝を抱えていた幼い頃の自分が、嘲笑に晒されている幻影がちらついた。
「おい、灯!聞こえるか!そいつの感情に付き合うな!お前の感情で押し返せ!お前が『守りたい』って思う気持ちは、そんなもんなのかよ!」
脳内にカゲの叱咤が響く。
そうだ、あの時……僕は覚悟を決めたはずだ。
だが、僕の「過剰な共感性」は、小春の強烈な「支配欲」の奥にある、深い「孤独」と「悲しみ」まで感じ取ってしまう。
信頼していた仲間に背中を向けられ、突き放された時の、心臓が凍るような絶望的な冷たさ。
それが僕自身の過去の痛みを抉り、膝が折れそうになる。
「う……ぅ……」
情けない声が漏れた。
「灯くん!僕の共鳴を使って、彼女の感情の『核』だけを感じ取るんだ!周りのノイズは僕が遮断する!」
和泉春樹の具体的な指示が、混濁した意識に光を灯す。
彼の《共感の影》が僕のカゲにそっと触れ、乱れた共鳴の濁流の中から、澄んだ湧き水のような彼女の本当の感情だけを拾い上げるように僕を導く。
春樹の影から伝わる穏やかな共鳴が、荒れ狂う僕の心の波を、少しずつ、しかし確実に鎮めていく。
「ちっ、助かるぜ、春樹!灯、聞こえたな?あいつの悲鳴だけを聞け!お前ならできるはずだ!」
カゲが僕を鼓舞する。その声には、焦りだけでなく、僕への信頼が滲んでいた。
「うん……!」
春樹の確かなサポートが、僕の意識を現実へと引き戻す。
そうだ、守るんだ。じいさんを。古書店を。この、僕がようやく見つけた、大切な場所を。
「……っ、まだ、だ。まだ、終わらせない!」
絞り出した僕の声に、小春の顔から笑みが消えた。
「なによ……。まだ口答えする気?」
彼女の眉がぴくりと動き、その影が不快そうに揺らめく。
その時、栞の冷静な声が、僕の耳に届いた。
「灯さん、聞こえる?今から突入します。あと1分、彼女を引きつけて!」
「了解!」
僕は心の中で叫んだ。
「亮さん、凛さん、行きます!ターゲットは古書店の裏口!」
栞の合図と共に、仲間たちが一斉に動く。その連携は、まるで一つの生き物のようだった。
「雑魚は私が引き受ける。亮は栞さんを援護して」
月影凛が短く応じ、彼女の影が漆黒の刃と化す。
《影刃の影》が闇を切り裂き、キィン、と金属的な高周波音を響かせた。
それは物理的な音ではない。影を持つ者にしか聞こえない、魂を削るような不協和音だ。
「くそっ、何だこいつら!?」
「影が……壁みたいに硬いぞ!うわっ!」
下級メンバーの悲鳴が上がる。
彼らの影が、凛の刃に触れるたびに、まるで凍ったガラスのようにひび割れ、その衝撃で本体がよろめく。
「凛、深追いはするな。じいさんの安全確保が最優先だ」
黒崎亮の《障壁の影》が、まるで黒い鏡面のような壁となって敵の退路を断ちながら、的確に指示を出す。
彼の影の壁は、ただの障壁ではない。触れた者の影の力を吸収し、その勢いを殺ぐ性質を持っている。
「分かってる。さっさとじいさんを助けてやって」
凛はそう言い放つと、影の刃で敵の影を次々を弾き飛ばしていく。
その動きは、冷徹で、無駄がなく、夜の闇に舞う黒い蝶のように美しいとさえ思った。
僕の目の前では、小春が仲間たちの鮮やかな連携に苛立ちを隠せないでいた。
「なんなのよ、あいつら……。それにあなたも!なんで私の力に耐えられるの!?さっさと私の餌になりなさいよ!」
彼女の心の叫びが、僕の脳裏に直接響いてくる。
『裏切られたくない』『誰も信じたくない』。
それは、僕自身の過去の孤独と、どこか重なる部分があった。だからこそ、無視できなかった。
「……あなたも、苦しいんだね」
僕は、無意識のうちに口にしていた。
「な……何よ、それ……」
小春の瞳が、大きく見開かれる。彼女の肩が、わずかに震えた。
「知ったような口を利かないで!あんたなんかに私の何がわかるっていうのよ!」
「わかるよ……。だって、僕も同じだったから。独りで、誰も信じられなくて……」
「はっ、笑わせないで!あんたみたいな弱虫と一緒にしないでくれる!?私は強い!だからここにいるの!あんたみたいに、仲間に守られてないと何もできない役立たずとは違う!」
彼女は唾を吐き捨てるように言った。
その言葉は鋭いナイフのようだったが、僕にはそれが彼女自身を守るための必死の鎧のように見えた。
「おい、灯、余計なこと言うな!こいつは敵だぞ!挑発に乗るな!」
カゲが僕の足元で警告するが、僕は言葉を続けた。
僕の視線は、彼女の瞳の奥にある、怯えた少女の影を見つめていた。
「強いとか、弱いとか、そういうことじゃない。あなたはただ……寂しいだけなんだ。周りに人がいても、誰も本当の自分をわかってくれない……そんな気持ち、僕にもわかるから」
「……っ!」
小春の言葉が詰まる。彼女の影の脈動が、一瞬、不規則に乱れた。
「な……なにを……知った風な口を……。黙れ!黙れ黙れ黙れ!あんたなんかに、私の気持ちがわかってたまるもんですか!」
彼女は動揺を隠すように叫び、影が再び激しく脈動する。
だが、その攻撃は先ほどまでの冷徹さを欠き、ただ感情的に荒れ狂っているだけだった。
僕の心は、もう揺らがなかった。
春樹のおかげで、彼女の感情の濁流の中から、その源泉にある純粋な「痛み」だけを感じ取ることができたからだ。
そして、小春の心の奥底にある「悲しみ」を理解したことで、僕の中に、新たな感情が芽生え始めていた。
それは、恐怖だけではない。「理解したい」という、共感の感情。そして、「救いたい」という、かすかな願い。
僕の足元のカゲが、その感情に呼応するように、静かに、しかし確かな光を放ち始めた。
闇の中で、僕の影が、ゆっくりと、その輪郭を広げていく。
それは、小春の《捕食の影》とは異なる、温かく、そして包み込むような光だった。
太陽のような熱さではなく、月光のような静かで優しい光。
僕の影は、小春の影の攻撃を吸収し、それを「浄化」するかのように、淡い光を放ち始める。
光に触れた小春の影から、黒い煤のようなものが剥がれ落ちていく。
まるで、墨汁が清らかな水に溶けていくように。
僕の影は、彼女の攻撃的な感情をただ消すのではなく、穏やかな悲しみの色へと「変換」しているようだった。
「な……に、これ……」
小春の声が震える。
彼女は信じられないものを見るように、僕の影と自分の影を交互に見つめた。
「なんで……私の力が……。なんで、攻撃してこないの……?こんなの、ありえない……!」
僕の影が放つ光は、小春の影の暗闇を、少しずつ侵食していく。
まるで、凍りついた心を、温かい光が溶かしていくかのように。
小春の体が、微かに震え、固く握りしめられていた彼女の拳が、ゆっくりと開かれていく。
そして、その瞳から、こらえきれなかった一筋の涙がこぼれ落ちた。
「なんで……あったかいの……?」
そのか細い声は、僕にしか聞こえなかったかもしれない。
僕の最初の任務は、まだ始まったばかりだ。
そして、この戦いは、影喰いとの物理的な衝突だけでなく、影を持つ者たちの心の奥底に触れる、深い物語の予兆をはらんでいた。
闇の中、僕の影は、未来への、かすかな光を灯し始めていた。