第5話「最初の任務、闇の予兆」
鷹野隼人の報告は、僕の心を激しく揺さぶった。
古書店が、じいさんが、影喰いの脅威に晒されている。
この地下のアジトに逃げ込んでも、大切な場所が狙われるのなら、意味がない。
僕の臆病な心は、まだ震えていたが、それ以上に「守りたい」という強い衝動が、胸の奥で燃え上がっていた。
「……僕も、行きます」
気づけば、声に出ていた。
作戦会議のテーブルを囲む、栞や凛、亮、春樹、そして隼人の視線が、一斉に僕に集まる。
その視線には、驚き、そしてわずかな戸惑いが混じっていた。
「灯さん……」
栞が、わずかに目を見開いた。
その瞳に、僕の決意が映っているのが分かった。
彼女の表情は、僕の予想に反して、どこか複雑な色を帯びていた。
「まだ、訓練を始めたばかりだ。実戦は危険すぎる。君の影は、まだ制御が不安定だぞ」
凛が、鋭い声で言った。
彼女の影は、僕の足元のカゲを警戒するように、ぴんと張り詰めている。
その影からは、僕の未熟さを指摘する、冷徹な感情が伝わってきた。
「分かってます。でも……僕のせいで、古書店が、じいさんが危険に晒されるのは嫌だ。僕が、動かなければ、きっと後悔する」
僕は、ぎゅっと拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
カゲが、僕の足元で力強く脈動する。
その脈動は、僕の決意を肯定しているようだった。
カゲの影からは、僕の覚悟への、かすかな喜びと、そして深い心配が伝わってくる。
「彼の共鳴は、影喰いを引き寄せる。彼が現場に赴くのは、リスクが高い。作戦に支障をきたす可能性もあります」
隼人が、冷静に分析した。
彼の影からは、慎重さと、わずかな懸念が伝わってくる。
しかし、その言葉の裏には、僕の影の持つ「強さ」への評価も含まれているように感じた。
「しかし、彼の共鳴が強いからこそ、影喰いの狙いも明確だ。彼を隠し続けるだけでは、いつか限界が来る。それに、灯くんの『共感性』は、時に敵の感情を読み解く鍵にもなり得る。危険と隣り合わせの力ですが……」
春樹が、静かに言った。
彼の影が、僕のカゲに触れるように揺らめき、僕の心を落ち着かせようとする。
春樹は、僕の「過剰な共感性」が、影の力と深く関係していることを理解してくれている。
僕の弱点が、同時に僕の「力」になり得ることを、彼は示唆してくれた。
その言葉に、僕の心は、わずかな希望を見出した。
栞は、しばらく黙って僕を見つめていた。
彼女の瞳は、僕の心の奥底を見透かすかのように、静かで深い。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。影山灯さん。あなたの決意、受け入れます。ただし、無茶は許しません。これは、あなたの訓練でもあります。春樹の言う通り、あなたの共鳴は諸刃の剣。最大限の注意を払ってください」
栞の言葉に、僕の胸に熱いものがこみ上げた。
僕の決意が、認められた。
この場所で、僕は初めて、自分の存在意義を見つけられたような気がした。
「作戦を立てましょう。隼人、古書店周辺の影喰いの配置と、彼らが使用している装置の情報を詳しく。亮、凛、あなたたちは灯さんの護衛を。春樹は、灯さんの精神状態のサポートを最優先で」
栞が指示を出すと、隼人はすぐにセキュリティルームへと戻っていった。
作戦は、古書店周辺の影喰いの偵察と、もし可能であれば、彼らの活動を一時的に妨害することに決まった。
僕と栞、そして凛と亮、春樹が同行することになった。
白石結は、アジトで待機し、僕たちの精神状態を遠隔でサポートしてくれるという。
彼女の影から、僕たちの安全を願う、温かい感情が伝わってきた。
夜が更け、雨が止んだ頃、僕たちはアジトの隠し通路から地上へと出た。
湿った夜の空気と、街の微かな喧騒が、僕の肌を包む。
アスファルトの匂い、遠くの車のライト、そして雨上がりの土の匂い。
アジトの入り口は、影野擬態の「模倣の影」によって、周囲の風景に溶け込むように完璧に隠されている。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように。
古書店までは、アジトから徒歩で三十分ほどの距離だった。
僕たちは、街の影に紛れるように、慎重に進んだ。
栞は先頭を歩き、凛が後方を警戒する。
亮は、僕たちの側面を固めるように、その重厚な影を静かに従えている。
春樹は、僕の隣を歩き、時折僕の影に触れて、僕の精神状態を安定させてくれた。
彼の影から伝わる穏やかな共鳴が、僕の心のざわつきを抑え込んでくれる。
古書店に近づくにつれて、僕の「過剰な共感性」が、再び警鐘を鳴らし始めた。
不快な感情の波が、徐々に強くなっていく。
警戒、苛立ち、そして……明確な「捕食」の意思。
胃の奥がねじれ、頭痛がガンガンと響く。
まるで、僕の頭の中に、彼らの声が直接響いているかのようだった。
「……いる。たくさん」
僕は絞り出すように言った。
カゲが、僕の足元で警戒するように脈動する。
その輪郭は、僕の感情の波に呼応して、わずかに歪んでいた。
「ええ。隼人の報告通りですね。かなりの数が展開されています。この街の影が、彼らの存在で重く感じられます」
栞が低い声で言った。
僕たちは、古書店から一本離れた路地の影に身を潜めた。
そこから、古書店の様子がうかがえる。
店の周囲には、黒いレインコートを羽織った男たちが、複数人立っていた。
彼らの手には、あの不快な高周波を発するハンドヘルドデバイスが握られている。
デバイスから放たれる微弱な光が、闇の中で不気味に瞬いていた。
「あれは……下級メンバーのようです。しかし、その奥に、より強い影の気配を感じます。まるで、獲物を狙う獣のような……」
亮が、低い声で呟いた。
彼の影が、警戒するようにわずかに膨らむ。
その影からは、僕の心を落ち着かせるような、しかし同時に強い緊張感が伝わってきた。
「幹部クラスが来ている可能性が高い。気をつけろ。下手に動けば、こちらが餌食になる」
凛が、静かに言った。
彼女の影は、すでに鋭い刃のように、ぴんと張り詰めている。
その影からは、戦闘への高揚と、わずかな殺気が伝わってきた。
僕の心は、恐怖と、そしてわずかな興奮で揺れ動いていた。
「……あそこに、じいさんが」
僕は、古書店の二階の窓を見上げた。
微かに、明かりが漏れている。
じいさんは、まだ店にいるのだろうか。
その光景に、僕の心臓が強く締め付けられた。
彼の無防備な存在が、僕の心をさらに強く突き動かす。
「僕が、彼らの注意を引きます。僕の共鳴が強いから、きっと僕に気づくはずだ。その隙に、栞さんと亮さんで、じいさんの安全を確保してください」
僕は言った。
栞が、僕を見た。その瞳には、僕の覚悟に対する、複雑な感情が揺れていた。
「何を言うのですか、灯さん。危険すぎます。あなたの影は、まだ完全に制御できていない。もし暴走すれば……」
「僕の影が、彼らを引き寄せる。それが、僕の『力』なんだ。それに……」
僕は、足元のカゲを見下ろした。
カゲは、僕の決意を感じ取ったかのように、力強く脈動している。
その影からは、僕を信じる、揺るぎない感情が伝わってくる。
「僕が、ここで逃げたら、きっと後悔する。もう、大切なものを失いたくないんだ。僕には、守りたいものがある」
僕の言葉に、栞はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
その頷きは、僕の決意を尊重してくれた証だった。
「……分かりました。ですが、無茶はしないでください。春樹、灯さんのサポートを頼みます。亮、凛、万が一の時は、灯さんを最優先で守って」
「任せてください」
春樹が、僕の肩を叩いた。
彼の影から、確かな信頼と、穏やかな感情が伝わってくる。
亮と凛も、無言で頷いた。
僕は、路地の影から、ゆっくりと足を踏み出した。
古書店の方向へ。
一歩踏み出すごとに、影喰いの男たちの感情が、より鮮明に、より強く流れ込んでくる。
その感情は、まるで僕を飲み込もうとする濁流のようだった。
胃の奥がねじれ、頭痛が激しさを増す。
全身の毛穴が開き、冷たい汗が背中を伝う。
「うっ……」
僕は思わず呻いた。
カゲが、僕の足元で大きく揺れる。
その輪郭は、僕の苦痛に呼応して、不規則に歪んでいた。
「灯、大丈夫か!? 無理するな! まだ引き返せるぞ!」
カゲの声が、僕の脳裏に響く。
その声は、僕を奮い立たせようとしていたが、同時に僕の身を案じる、深い心配も含まれていた。
僕の視線が、古書店の二階の窓に釘付けになる。
その時だった。
古書店の角から、一人の少女が、ゆらりと現れた。
身長143cmの小柄な体躯。お尻まで届く超ロングの茶髪が、夜風に微かに揺れる。
見た目は可愛らしいが、その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。
彼女の足元の影は、まるで牙を剥く獣のように、鋭く脈動している。
その影から、僕の「過剰な共感性」が、強烈な「支配欲」と「攻撃性」を感じ取った。
そして、その奥に隠された、深い「孤独」と「悲しみ」。
それは、僕の心を激しく揺さぶる。
僕の心が、彼女の過去の傷を、まるで自分のことのように感じてしまう。
「……見つけたわ、強い影持ち。あなたね、私たちの邪魔をするのは。まさか、こんな場所に隠れていたなんて」
闇野 小春。
影喰いの幹部の一人。
彼女の言葉は、まるで僕の心を嘲笑うかのようだった。
僕の体が、一瞬硬直した。
小春の影が、すうっと僕の影にまとわりつく。
その瞬間、僕の「気力」や「集中力」が、まるで吸い取られるかのように急速に失われていく。
急激な疲労感と無気力感に襲われ、思考が鈍くなる。
足元のカゲが、その影響を受けて、わずかに収縮した。
まるで、影自身が力を奪われているかのように。
「捕食の影……!」
栞が低い声で呟いた。
凛が、すぐに小春に向かって影を伸ばすが、小春の影はそれを容易く弾き返した。
凛の影が、不快そうに揺らめく。
「へぇ、なかなかやるじゃない。でも、あなたたちの影なんて、私にかかればただの餌よ。無駄な抵抗は、やめておきなさい」
小春は、嘲るように笑った。
僕の意識が、遠のいていく。
このままでは、動けない。
体が鉛のように重く、まぶたが落ちそうだ。
「灯! しっかりしろ! 負けるな! こんなところで倒れてたまるか!」
カゲの声が、僕の脳裏に響く。
その声は、僕を奮い立たせようとしていた。
カゲの影が、僕の足元で、必死に脈動し、僕の意識を繋ぎ止めようとしている。
「灯くん! 僕の影を感じて! 君の感情の波を安定させるんだ! 僕の共鳴を受け取って!」
春樹の声が、僕の意識の片隅に届く。
彼の影が、僕のカゲに触れ、穏やかな共鳴を送り込んでくる。
その共鳴が、小春の影から放たれる不快な波動を、わずかに打ち消してくれるようだった。
僕の心に、春樹の確かな支えが伝わってくる。
僕は、必死に春樹の影の共鳴に意識を集中させた。
そして、カゲの言葉を思い出す。
「お前が隠れてるだけじゃ、何も守れねぇんだ」。
守りたい。
じいさんを。古書店を。
この、僕がようやく見つけた、大切な場所を。
その一心で、僕は、小春の影から放たれる精神攻撃に耐えた。
僕の足元のカゲが、僕の強い意志に呼応するように、再び脈動を始めた。
その輪郭が、わずかに膨らむ。
僕の体から、再び力が湧いてくるのを感じた。
「……っ、まだ、だ。まだ、終わってない!」
僕は、絞り出すように言った。
小春の顔から、笑みが消えた。
彼女の瞳に、わずかな驚きが浮かぶ。
「あら、しぶといわね。でも、無駄よ。あなたに、私を止められるはずがない」
彼女の影が、さらに強く僕にまとわりつく。
しかし、僕は、もう倒れない。
僕の影が、僕の体を支えるように、力強く地面に張り付いていた。
僕の心臓の鼓動が、カゲの脈動と重なり合い、力強く響き渡る。
これが、僕の最初の任務。
そして、影喰いとの、本格的な戦いの始まりだった。
闇の中で、僕の影が、静かに、しかし確かな光を放ち始めていた。