第4話「新しい日常、迫る影」
湿った土の匂いと、遠くで響く水の滴る音。
それが、僕の新しい朝の始まりだった。
簡素なベッドで目を覚ますと、慣れない天井が視界に広がる。
昨夜、月読栞に連れられてたどり着いた、地下のアジト。
まるで、夢の続きを見ているかのような、まだ曖昧な感覚だった。
「おい、灯。いつまで寝てんだよ。腹減っただろ? ったく、のんびり屋にもほどがあるぜ」
足元のカゲが、僕を起こすように揺れた。
その声は、いつも通りの皮肉めいた調子で、それが少しだけ、僕を安心させた。
日常の延長にあるような、いつものカゲの存在が、この非日常の空間で唯一の拠り所だった。
僕は寝返りを打って、冷たいコンクリートの床に伸びるカゲを見つめた。
昨日までの不安と恐怖が、まだ体の奥に微かに残っている。
居住スペースは、いくつかの粗末なベッドと、共同で使う木製のテーブルが並んだ簡素なものだった。
壁は冷たいコンクリートが剥き出しで、ところどころに湿気が染み込んでいる。
遠くからは、話し声や、何かの機械が低く唸るような音が聞こえてくる。
まるで、巨大な生き物の胃の中にいるような、不思議な感覚だった。
この場所が、本当に安全なのだろうか。そんな疑問が、頭の片隅をよぎる。
僕は顔を洗い、共同キッチンへと向かった。
そこには、すでに数人の影持ちたちがいた。
温かい湯気と、香ばしいパンの匂いが漂っている。
白石結が、大きな鍋から温かいスープをよそってくれた。
彼女の影は、朝の光の中でも優しく揺らめき、まるで僕を包み込むかのように穏やかな感情の波を放っていた。
「おはよう、灯くん。よく眠れた? 昨日は大変だったものね」
彼女の笑顔は、まるで差し込む太陽の光のように温かかった。
その影も、優しく揺らめいている。
彼女の影から伝わる穏やかな感情の波に、僕の心は少しずつ解けていくようだった。
警戒心が、ゆっくりと薄れていく。
僕の「過剰な共感性」が、彼女の純粋な優しさを鮮明に捉え、僕の心の奥底に染み渡る。
「……はい、なんとか。ありがとうございます」
僕はぎこちなく答えた。
まだ、たくさんの人と話すのは苦手だ。
特に、初対面の人間と目を合わせるのは、僕にとって大きな壁だった。
でも、ここには、僕と同じ「影持ち」がいる。
彼らも、僕と同じように、影と共にある。
その事実が、僕の心を少しだけ軽くした。
この場所なら、もしかしたら、僕も「普通」でいられるのかもしれない。
スープは、温かくて美味しかった。
具材はシンプルだが、深い味わいがある。
冷え切った体に、じんわりと染み渡る温かさが、僕の緊張を和らげてくれた。
一口飲むごとに、体の内側から力が湧いてくるような気がした。
「灯くんの影、やっぱりすごいね。和泉くんも言ってたけど、すごく強い波動を感じるよ。まるで、底知れない力を秘めているみたい」
結が、僕の足元のカゲをちらりと見て言った。
その視線は、好奇心と、わずかな畏敬の念を含んでいた。
カゲは、その言葉に反応して、少し得意げに揺れた。
普段の僕が褒められるよりも、カゲ自身が認められることの方が、よほど嬉しいらしい。
「だろ? こいつは俺の相棒だからな。見た目はひょろひょろだが、中身は案外骨太なんだぜ、灯は」
カゲが、僕の言葉を遮るように言った。
結はくすくすと笑う。
その笑い声は、地下のアジトに明るい響きをもたらした。
「ふふ、仲良しだね。見ていて微笑ましいわ」
仲良し、か。
確かに、カゲは僕の唯一の話し相手だった。
僕がどんなに臆病で、人との関わりを避けても、カゲだけはずっと僕のそばにいてくれた。
でも、これからは、そうじゃない。
ここには、僕を理解しようとしてくれる人たちがいる。
その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
まるで、凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。
食後、僕は栞に連れられ、メインホールへと向かった。
そこには、昨日会った月影凛や黒崎亮、そして眼鏡の青年、和泉春樹もいた。
彼らは、大きな木製のテーブルを囲んで、古びた地図を広げている。
地図には、見慣れない記号や、手書きの文字が書き込まれていた。
まるで、古代の宝の地図のようだった。
「影山灯さん。今日から、あなたにも影持ちとしての基本的な訓練を受けてもらいます。あなたの影の力は非常に強い。それを制御できなければ、あなた自身を危険に晒すことになります」
栞が言った。
その声には、一切の私情を挟まない、厳しさと覚悟が感じられた。
彼女の瞳の奥には、僕には計り知れないほどの深い悲しみと決意が宿っている。
凛が、鋭い視線で僕を見る。
彼女の影は、まるで研ぎ澄まされた刃のように、静かに、しかし確かな存在感を放っていた。
「君の影は強力だが、制御できていなければただの足枷だ。ここでは、その力を正しく使う方法を学ぶ。甘えは許されない」
その言葉は、僕の心に直接突き刺さるようだった。
亮は黙って頷いている。
彼の影は、重厚な壁のように、僕の視界の端でどっしりと構えていた。
その影から伝わる感情は、無口ながらも、確かな「守護」の意思を感じさせた。
春樹は、僕に優しく微笑んだ。
彼の影は、穏やかな水面のように揺らめき、僕の緊張を少しだけ和らげてくれる。
「大丈夫だよ、灯くん。僕たちがサポートするから。焦らず、自分のペースでいいんだ」
その言葉に、僕は小さく頷いた。
彼らの存在が、僕の心に確かな支えを与えてくれる。
訓練室は、メインホールの奥にあった。
広々とした空間で、壁には影の残響が外部に漏れないように特殊な素材が使われているらしい。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
ここでは、影の形を精密に操るための「影絵の練習」や、共鳴の範囲を調整するための「精神統一の瞑想」などが行われるという。
床には、影の動きを視覚化するための微細な光のラインが埋め込まれており、まるで巨大なパズルのようだった。
「まずは、カゲの形を自由に操ってみて。簡単なもので構いません。例えば、球体や立方体、あるいは動物の形など」
栞が指示した。
僕は、自分の影を見下ろす。
いつもは僕の足元に張り付いているだけのカゲが、僕の意識に集中すると、わずかに揺らめき始める。
まるで、僕の命令を待っているかのように、期待に満ちた波動を放っている。
「もっとだ、灯! もっとイメージしろ! もっと強く、明確に! お前の頭の中にある形を、そのまま影に叩き込むんだ!」
カゲが僕の脳裏に直接語りかけてくる。
その声は、僕の集中力を高める。
僕は、集中した。
カゲが、僕の足元から、すうっと伸びて、細い線になった。
次に、それを丸くしようと試みる。
しかし、なかなかうまくいかない。
カゲは、僕のイメージとは違う、いびつな形に歪む。
まるで、僕の心の迷いをそのまま映し出しているかのようだ。
僕の額には、いつの間にか汗が滲んでいた。
「くそっ、なんでだよ! もっとできるはずだろ、灯! こんな簡単なこともできねぇのか!?」
カゲが苛立たしげに言った。
その感情が、僕の心にも伝わってくる。
僕の無力さに、カゲも焦りを感じているのが分かった。
「焦らないで、灯くん。影は、持ち主の精神状態に強く影響されます。心が乱れていると、影も安定しないものだよ。特に、君のように共感性が高いと、微細な感情の揺れが影に影響しやすいのかもしれない」
春樹が、僕の隣で優しく言った。
彼の影は、まるで水面のように穏やかに揺れている。
その影からは、僕の感情の波を鎮めるような、心地よい共鳴が伝わってきた。
「僕の『共有の影』で、君の精神状態を少し安定させようか? 君の共感性が高いからこそ、微細な感情の揺れが影に影響しやすいのかもしれない。僕の影が、君の影に触れることで、君の感情の波を穏やかにすることができるはずだ」
春樹が、僕の影にそっと手を伸ばした。
彼の影が、僕のカゲに触れる。
その瞬間、僕の心に、春樹の穏やかな感情が流れ込んできた。
まるで、温かい水に包まれるような感覚。
僕の心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
頭の中に渦巻いていた雑念が、すっと消えていく。
体の緊張が解け、呼吸が楽になる。
「……すごい」
僕は思わず呟いた。
カゲの輪郭も、少しだけ安定したように見えた。
その影から、僕の心が落ち着いたことへの、かすかな安堵が伝わってくる。
「さあ、もう一度。今度は、もっと明確にイメージしてください」
栞の声に促され、僕は再び集中した。
今度は、さっきよりもスムーズに、カゲは僕のイメージ通りに形を変えていく。
細い線から、完璧な丸。丸から、鋭い角を持つ四角。
そして、最後は、僕の好きな本の形に。
その影は、まるで本物の本のように、ページの一枚一枚までが精巧に表現されていた。
影の表面には、微細な光の粒子が瞬き、まるで生命が宿っているかのようだった。
「おお! やるじゃねぇか、灯! さすが俺の相棒だ! やればできるじゃねぇか!」
カゲが、嬉しそうに揺れた。
その喜びが、僕の心にも伝わり、僕も自然と笑みがこぼれた。
栞も、小さく頷いている。
「素晴らしいです、影山灯さん。順調な滑り出しですね。あなたの影は、やはり特別な可能性を秘めている。この調子で訓練を続ければ、きっと……」
訓練は、午前中いっぱい続いた。
僕は、カゲとの連携を深め、影の基本的な操作を少しずつ習得していった。
体は疲れたが、心は満たされていた。
これまで「弱点」だと思っていた影の力が、ここでは「能力」として認められる。
そして、僕と同じ力を持つ仲間たちが、僕を支えてくれる。
新しい日常が、確かに始まっていた。
このアジトの、冷たいコンクリートの壁に囲まれた空間が、僕にとっての「居場所」になりつつあった。
僕は、この場所で、少しずつ、自分自身を受け入れ始めているのを感じていた。
しかし、その「日常」は、長くは続かなかった。
午後の作戦会議で、鷹野隼人が、無数のモニターに囲まれたセキュリティルームから、深刻な顔で戻ってきた。
彼の影は、いつもよりもざわついているように見えた。
その影から、僕の「過剰な共感性」が、激しい「焦燥」と「警戒」の感情を鮮明に感じ取った。
まるで、冷たい氷が心臓を掴むような感覚だった。
「栞さん、緊急です。古書店周辺で、影喰いの動きを複数確認しました。彼らは、かなり大規模な部隊を動かしているようです。通常の偵察とは規模が違います」
隼人の言葉に、僕の心臓が凍り付いた。
古書店。
店主のじいさん。
僕の、大切な場所。
もし、僕がここにいることがバレたら、じいさんにまで危険が及ぶかもしれない。
その想像が、僕の胸を締め付けた。
胃の奥が、再びねじれるような感覚に襲われる。
「……何だって!?」
カゲが、怒りに震えるように脈動した。
その影は、まるで怒りで赤黒く燃え上がっているかのように見え、周囲の光を不規則に飲み込んだ。
カゲの激しい感情が、僕の心に直接流れ込んでくる。
「彼らは、灯さんの個人情報を探っているようです。客を装って、近隣の住民や、古書店の常連客にまで、しつこく聞き込みを行っています。彼らの目的は、あなたをこの街から追い出すか、あるいは……捕獲することでしょう」
隼人の言葉の続きは、聞きたくなかった。
僕の全身から血の気が引いた。
やはり、僕の日常は、もう「平穏」ではいられない。
僕が、ここにいることを知られたら、じいさんが……。
その恐怖が、僕の心を支配する。
頭の中が真っ白になり、呼吸が浅くなる。
「くそっ、あの野郎ども……! 灯、どうするんだ!? このまま黙って見てるのか!?」
カゲが、僕の足元で、まるで牙を剥くように形を変えた。
その輪郭は、怒りで赤黒く脈動し、周囲の光を不規則に飲み込んだ。
その影から伝わるカゲの激しい怒りが、僕の心をさらに揺さぶる。
僕の臆病な心が、戦うことへの恐怖に震える。
「落ち着いて、灯さん。あなたの感情が乱れると、影も暴走します。それでは、彼らの思う壺です。冷静に判断してください」
栞が、僕に冷静な声で言った。
その声は、僕の感情の波を鎮めようとしているかのようだった。
だが、僕の心は、激しく波立っていた。
守りたい。
大切なものを、守りたい。
古書店も、じいさんも、僕のわずかな日常も。
これまで避けてきた「争い」が、今、僕の目の前に、明確な形で現れた。
僕は、ぎゅっと拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
もう、逃げられない。
僕が、動かなければ――。
僕の足元のカゲが、僕の決意を感じ取ったかのように、静かに、しかし力強く脈動した。
その脈動は、僕の心臓の鼓動と完全に重なり合っていた。
僕の視線は、テーブルに広げられた街の地図、そして古書店の場所を指し示す印に釘付けになっていた。