第3話「地下のアジト」
「……わかった。僕も、行くよ」
僕の言葉に、月読栞は静かに微笑んだ。
その笑みは、先ほどまでの寂しげなものではなく、どこか安堵と、かすかな希望を含んでいるように見えた。
僕の決断が、彼女にとってどれほどの意味を持つのか、その表情から痛いほど伝わってくる。
「ありがとうございます、影山灯さん。さあ、急ぎましょう」
栞は再び僕の手を取り、公園の東屋から立ち上がった。
雨はまだ降り続いていたが、先ほどよりも少し弱まっているように感じた。
それでも、冷たい雨粒が僕の頬を打ち、現実を突きつける。
僕たちは公園を抜け、裏通りを縫うように進んだ。
街の喧騒は雨に洗われて遠く、人気のない路地裏は、湿った空気と生ゴミの匂いが混じり合い、まるで世界から切り離されたかのような静けさに包まれていた。
栞は迷うことなく、複雑に入り組んだ路地や、薄暗いアーケード街を抜けていく。
その足取りは軽やかで、まるでこの街の影を知り尽くしているかのようだった。
僕の足元のカゲは、警戒するように時折揺らめき、僕の心臓はまだ落ち着かないまま、不規則なリズムを刻んでいた。
「影喰いは、あなたを追ってきます。彼らは執念深い」
栞は前を向きながら、淡々とした声で言った。
その言葉が、僕の心臓をまた小さく跳ねさせる。
僕の平穏な日常は、本当に終わってしまったんだ。
もう、あの古書店で静かに本を読んでいるだけの自分には戻れない。
その事実に、言いようのない喪失感と、わずかながらも新しい世界への好奇心が混じり合っていた。
「……アジトって、どこにあるんだ?」
僕は尋ねた。
カゲが足元で、不安そうに揺れているのが分かった。
僕の感情が揺れるたびに、カゲも共鳴している。
「もう少しです。彼らから身を隠すには、最適な場所です」
栞はそれ以上は語らなかった。
ただ、僕の手を引くその指先に、確かな力が宿っていた。
やがて、僕たちは古びたレンガ造りの建物の前にたどり着いた。
それは、かつて工場か倉庫だったような、無骨で寂れた建物だった。
ガラス窓は割れ、壁には蔦が絡まり、周囲には街灯もなく、闇に沈んでいる。
雨に濡れたレンガの色が、より一層黒く見えた。
「ここ……?」
僕は思わず呟いた。
こんな場所に、本当に隠れ家があるのだろうか。
栞は頷き、建物の脇にある、錆びついた鉄扉に手をかけた。
その扉は、長年開かれることのなかったかのように、重々しく見えた。
「ここが、私たちの隠れ家です」
扉は、ぎい、と鈍い金属音を立てて開いた。
その音は、まるで古い怪物が目覚めるかのようだった。
中から、湿った土と、微かな鉄の匂いがした。
地下へと続く薄暗い通路が、闇の奥へと伸びている。
冷たい空気が、僕の肌を撫でた。
「ここは、かつて使われていた地下鉄の廃駅を改造した場所です。影の残響が外部に漏れにくく、彼らにも発見されにくいように工夫されています」
栞はペンライトの光で、通路の先を照らす。
僕は、その奥に広がる闇に、わずかな恐怖を感じた。
しかし、もう引き返すことはできない。
僕の足元のカゲが、僕の決意を汲み取ったかのように、静かに僕の足に寄り添った。
通路をしばらく進むと、広い空間に出た。
そこは、まさに地下鉄の駅だった。
天井は高く、錆びついた鉄骨が剥き出しになっている。
使われなくなった線路が、闇の中にどこまでも伸びている。
その先は、崩落したように見えるが、その奥に微かな光が漏れているような描写がある。
もしかしたら、この先にも何かがあるのかもしれない。
そして、その空間には、いくつもの影が揺らめいていた。
人の影。
しかし、どれもが、僕のカゲのように、微かに自己主張をしているように見えた。
それぞれの影が、異なる色合いや濃淡を持ち、まるで生き物のように蠢いている。
「……みんな、影持ち、なのか?」
僕は呆然と呟いた。
こんなにも多くの「影持ち」が、この世界に存在していたなんて。
「ええ。ようこそ、私たちのコミュニティへ」
栞は微笑んだ。
その言葉と共に、空間の奥から、複数の人影が近づいてくる。
彼らは皆、僕と同じように、足元に「影」を従えていた。
その影の気配は、僕の「過剰な共感性」に、様々な感情の波となって押し寄せた。
警戒、好奇心、そして、かすかな期待。
「栞、無事だったか!」
最初に声をかけてきたのは、長身で鋭い目つきの女性だった。
ショートの黒髪が、彼女の冷静で、どこか攻撃的な雰囲気を際立たせている。
彼女の足元の影は、まるで鋭い刃のように、ぴんと張り詰めていた。
微かに、金属が擦れるような音が聞こえる気がした。
月影 凛、と栞が紹介した。
「そちらが、新しい……?」
凛の視線が、僕に向けられる。
その鋭い眼光に、僕は思わず目を伏せた。
人見知りの癖が、こんな状況でも出てしまう。
カゲが僕の足元で、わずかに身をすくめた。
凛の影から、僕の臆病さを見透かすような、冷たい感情が伝わってくる。
「影山灯さんです。彼も、私たちと同じ『影持ち』です」
栞の言葉に、凛は小さく頷いた。
その隣には、筋骨隆隆とした体格の男が立っていた。
顔には複数の傷跡があり、短く刈り込んだ髪と、常に不機嫌そうな表情を浮かべている。
彼の影は、まるで重い盾のように、どっしりと地面に張り付いていた。
その影からは、動かない岩のような、圧倒的な「重圧」が感じられた。
黒崎 亮だという。
「……強い共鳴を感じるな。だが、まだ制御できていないようだな」
亮が低い声で呟いた。
彼の影から、僕の影の「暴走」を警戒するような、しかしどこか諦めにも似た感情が伝わってくる。
僕の足元のカゲが、その言葉に反応して、わずかに収縮した。
まるで、自分の過去の暴走を指摘されたかのように。
さらに奥からは、明るい笑顔の女性が近づいてきた。
彼女の影は、優しく包み込むように揺らめいている。
その影からは、温かい、安心させるような感情の波が伝わってきた。
白石 結と名乗った彼女は、僕の手をそっと握った。
その手は、冷たい僕の手とは対照的に、温かかった。
「ようこそ! ここなら安心だよ。みんな、あなたの味方だから」
その温かい言葉と、彼女の影から伝わる穏やかな感情の波に、僕の心は少しだけ安堵した。
同時に、僕の「過剰な共感性」が、彼女の心の奥にある「影持ち同士の絆を何よりも大切にする」という強い思いを、鮮明に感じ取った。
彼女がかつて、影持ちであることへの偏見から孤立した経験があることを、僕の心が理解した。
ああ、この人は、本当に優しい人なんだ。
その時、僕の足元のカゲが、微かに「輪郭を歪ませる」ような反応を見せた。
それは、僕が栞の悲しみを感じ取った時と同じような、しかしもっと複雑な反応だった。
カゲは、僕の「共感性」に反応しているのだろうか?
「……君の影は、もしかしたら僕の影と似た性質を持っているのかもしれない。でも、何かを強く『抑え込んでいる』ように感じる」
僕の隣に、一人の青年が立っていた。
彼は眼鏡をかけていて、どこか知的な雰囲気を漂わせている。
彼の影は、まるで精密な機械のように、規則正しく揺らめいていた。
その影からは、分析的で、探求心に満ちた感情が伝わってくる。
和泉 春樹と名乗った。
彼は「共有の影」の持ち主だという。
「僕の影は、他者の影の感情を『共有』する能力がある。君の影から、とても大きな感情の波を感じるんだ。でも、それが何かに覆い隠されているような……まるで、君自身が、その力を無意識に『抑制』しているかのように」
春樹の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
僕の「過剰な共感性」を、こんなにも正確に言い当てられたのは初めてだった。
まるで、僕の心の奥底を見透かされているかのようだ。
カゲも、春樹の言葉に反応して、わずかに膨らんだ。
その膨らみは、僕の心の中で、何か隠されていたものが揺さぶられるような感覚と重なった。
「……僕の、感情が?」
「ええ。それは、君の影の力と深く関係しているはずだ。栞さんも、君の影の力を調べている。君のその『共感性』は、もしかしたら、君の影の真の能力の片鱗なのかもしれない」
春樹は、そう言って栞の方を見た。
栞は、静かに頷いている。
僕の「過剰な共感性」が、影の力と関係している。
それは、僕がずっと抱えてきた「弱点」だと思っていたものが、実は「力」である可能性を示唆しているのだろうか。
僕の心の中で、新しい扉が、ゆっくりと開かれようとしていた。
アジトの奥には、さらに多くの影持ちたちがいた。
それぞれが、異なる形や動きをする影を従えている。
ある者は、影を器用に操って小さな影絵を作っていたり、ある者は、影を伸ばして遠くのものを探っているようだった。
彼らは皆、僕と同じ「影持ち」であり、このアジトで、影喰いから身を隠し、共に生きているのだ。
アジトのメインホールは、巨大な書架が並び、失われた文献や影に関する資料が保管されているようだった。
古びた紙の匂いが、図書館のように鼻腔をくすぐる。
中央には大きなテーブルがあり、作戦会議や情報共有の場として使われているのだろう。
奥には、薬品のツンとくる匂いと、電子機器の微かな駆動音が混じり合う研究室が見えた。
無数のモニターが青白い光を放ち、その前で星野 光輝という名の、天才肌の青年が、影の力を応用した装置を開発しているらしい。
彼の影は、緻密で器用な動きをしていた。
訓練室と呼ばれる場所からは、影が高速で移動する際の微かな「ざわめき」や「擦れる音」が聞こえてくる。
影の残響が外部に漏れないように設計されているらしい。
そして、簡素なベッドが並ぶ居住スペースからは、使い慣れたシーツの匂いがした。
遠くから聞こえる仲間たちの話し声が、微かに響いてくるのが心地よかった。
冷たいコンクリートの壁には、かつての広告の跡が薄く残り、湿った空気が鼻腔をくすぐる。
遠くから聞こえるわずかな水の滴る音だけが、この場所の静寂を際立たせていた。
鷹野 隼人という、情報収集と監視を担当する青年が、セキュリティルームで無数のモニターに囲まれて作業している姿も垣間見えた。
僕は、この場所で、初めて「自分は一人じゃない」と感じることができた。
同時に、これまで避けてきた「人との関わり」の中に、こんなにも温かく、そして力強い場所があることに、胸が締め付けられるような思いがした。
「……灯、どうした?」
カゲが、僕の足元で心配そうに揺れた。
僕の複雑な感情を、カゲも感じ取っているのだろう。
「……なんでもない。ただ、少し、驚いただけだよ。……こんな場所が、あったなんて」
僕は、そう答えた。
外ではまだ雨が降っている。
でも、この地下のアジトの中は、不思議と温かかった。
僕は、この場所で、影持ちとして生きることを決めた。
そして、この新しい「日常」の中で、僕自身の影の力と、そして僕自身の「弱さ」と向き合っていくことになるだろう。
僕の足元のカゲが、僕の決意を感じ取ったかのように、静かに、しかし力強く脈動した。
その脈動は、僕の心臓の鼓動と完全に重なり合っていた。