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第2話「日常の終焉」

 雷鳴が轟き、古書店の照明がぷつん、と音を立てて消えた。

 世界から色が奪われたかのような漆黒の闇が、一瞬で僕たちの周囲を飲み込む。


 窓ガラスに打ちつける雨の音は、まるで世界の終わりを告げるかのように、耳元で激しさを増した。

 湿った埃の匂いが、暗闇の中でより一層濃く感じられる。


「っ……!」


 僕は思わず息を呑んだ。

 慣れない暗闇と、突然の雷鳴に、心臓が大きく、不規則に跳ね上がる。


 足元のカゲは、先ほどまで赤く脈動していた輪郭をさらに濃く、そして不穏に揺らめかせ、まるで僕の動揺を映し出しているようだった。


「落ち着いて、影山灯さん」


 月読栞の声が、暗闇の静寂を切り裂いて響いた。

 彼女の声は驚くほど冷静で、その落ち着きが、かえって僕の激しい動揺を際立たせる。


 栞の足元の影が、すうっと伸びて、僕の影の近くで静かに揺れた。

 それは、僕を落ち着かせようとしているかのように、あるいは、僕の影の異常な活性化を測っているかのように見えた。


「この停電は……」


 僕は震える声で尋ねた。


「おそらく、彼らの仕業でしょう。影の残響を意図的に増幅させたか、あるいは、より直接的な干渉を試みたか……」


 栞はそう言いながら、小さな革製のポーチから何かを取り出した。

 カチリ、という金属音が暗闇に響き、細い光が闇を切り裂く。


 掌に乗るほどの小さなペンライトだった。

 その光は弱々しいが、暗闇に慣れ始めた僕の目には、十分すぎるほどだった。

 栞の顔が、その光に照らされて、わずかに険しく見える。


「外に、まだいるのか?」


 カゲが低い声で尋ねた。

 僕の足元の影が、警戒するようにわずかに膨らむ。

 その輪郭は、まるで全身の毛を逆立てた獣のようだった。


「ええ。先ほどよりも、数が増えたようです。それに……」


 栞の声は淡々としていたが、彼女の視線が、店の入り口の方へと向けられた。

 僕は、背筋を這い上がるような悪寒を感じていた。


 それはただの寒気ではない。

 街を歩いている時に感じる、あの不快な感情の波が、今、古書店の外から、まるで津波のように押し寄せてくる。


 怒り、焦燥、そして――明確な、僕に向けられた敵意。


 胃の奥がひどくねじれて、吐き気がこみ上げる。

 頭痛がガンガンと響き、視界が歪む。

 まるで、彼らの感情が、僕の脳に直接叩きつけられているかのようだった。


「うっ……」


 僕は思わず呻いた。

 膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。


「灯、大丈夫か!?」


 カゲが僕の足元で大きく揺れた。

 その声は、僕の脳裏に直接響き、痛みを増幅させるようだった。


「……気持ち悪い……」


 僕は、言葉を絞り出すのがやっとだった。

 栞が素早く僕の腕を掴み、その細い体で僕を支える。

 彼女の指先が、ひんやりと冷たかった。


「彼らは、あなたの影を狙っています。その強い『共鳴』が、彼らの目的を達成するために必要なのでしょう。この感情の波は、あなたを捕らえようとする彼らの『意思』そのものです」


 栞の言葉が、耳の奥で遠く響く。

 僕は、自分がまるで獲物になったかのような感覚に陥っていた。

 全身の毛穴が開き、冷たい汗が背中を伝う。


「……逃げないと」


 僕は絞り出すように言った。

 栞は頷く。


「このままでは、店主のおじいさんにも危険が及びます。裏口から出ましょう。私が道案内します」


 栞はペンライトの光で、店の奥にある裏口を指し示した。

 僕は半ば引きずられるようにして、栞についていく。


 店主のじいさんは、まだ棚の奥でうたた寝している。

 こんな状況だというのに、彼の平穏な寝息だけが、この異常な空間で唯一の「日常」を保っていた。

 その無防備な姿が、僕の心に重くのしかかった。


 裏口の扉を開けると、雨音がさらに大きくなった。

 冷たい雨粒が顔に打ちつけ、意識を覚醒させる。


 古書店の裏手は、細い路地になっていた。

 生ゴミの匂いと、湿った土の匂いが混じり合う。

 足元は水たまりでぬかるんでいた。


「あっちです」


 栞が指差す方へ、僕は必死に足を動かす。

 路地の奥から、複数の足音が近づいてくるのが分かった。


 同時に、あの不快な高周波の音が、耳鳴りのように響き始める。

 それは、僕の影を直接刺激するような、不快な振動だった。


「くそっ、もう来たのか!?」


 カゲが唸った。

 路地の先に、人影が見えた。


 黒いレインコートを羽織った男たちが、こちらに向かってくる。

 彼らの手には、小型のハンドヘルドデバイスが握られていた。

 そこから、あの不快な音が発せられている。


「影持ちを感知する装置……!」


 栞が低い声で呟いた。

 僕の足元のカゲが、その音に反応して、わずかに収縮する。


 まるで、体が締め付けられるような感覚だった。

 全身の力が、抜けていくような錯覚に陥る。


「灯、走って!」


 栞が僕の背中を押した。

 僕は必死に足を動かす。

 しかし、男たちは速い。あっという間に距離を詰められる。


「止まれ、影持ち!」


 男の一人が叫んだ。

 その声が、僕の頭の中に直接響く。


 彼らの感情が、怒涛のように流れ込んでくる。

「捕獲する」「排除する」「危険な存在」――そんな言葉が、頭の中で渦を巻く。

 足がもつれそうになる。


 その時、栞の影が、すうっと広がり、男たちの足元を覆った。

 物理的な干渉はない。


 だが、男たちの動きが、一瞬だけ止まった。

 まるで、影が彼らの視界を遮ったかのように、彼らは戸惑った様子を見せた。


「……幻惑か」


 カゲが呟いた。

 その声には、わずかな驚きが混じっていた。


「沈黙の影は、直接的な攻撃はできません。しかし、彼らの視覚を一時的に欺くことは可能です。影の濃淡と光の屈折をわずかに操作することで、彼らの脳に誤った情報を送り込む。まるでそこに壁があるかのように、あるいは、私たちが消えたかのように見せる……」


 栞がそう言いながら、僕の手を引いて、さらに路地の奥へと急ぐ。

 男たちはすぐに体勢を立て直し、再び追ってくる。


 僕たちは、雨の中をひたすら走った。

 水たまりを跳ね飛ばし、息を切らしながら、ただ前へ。


 どれくらい走っただろうか。

 肺が焼けるように熱く、足は鉛のように重い。


 ようやく人気のない公園の片隅にある、古びた東屋にたどり着いた。

 息を切らし、僕はその場でへたり込んだ。

 雨音だけが、耳に響く。


「……もう、大丈夫です」


 栞が息を整えながら言った。

 ペンライトの光が、僕の顔を照らす。


 僕は、まだ心臓がバクバクと鳴っているのを感じていた。

 全身が震え、冷たい雨に濡れた体は、芯から冷え切っていた。


「影喰い……って、本当にいるんだ」


 僕は震える声で呟いた。

 現実感が、まだ薄い。

 栞は静かに頷く。


「ええ。彼らは、影を持つ者たちを狙っています。あなたの影は、特に強力な『共鳴』を持つ。だから、彼らはあなたを狙うでしょう」


「僕の影を……奪うって、どういうことなんだ?」


 僕は足元のカゲを見下ろした。

 カゲは、先ほどまでの興奮が嘘のように、静かに僕の足元に張り付いている。

 しかし、その輪郭は、まだわずかに揺らめいていた。


「彼らは、影からエネルギーを抽出する技術を持っています。それを、彼らの目的のために利用しようとしている。影の力を『汚れたもの』『危険なもの』と見なし、それを排除し、純粋なエネルギーとして利用することで『人類の進化』を促そうとしている、と彼らは主張しています」


 栞の言葉は、まるでSF小説のようだった。

 影からエネルギーを抽出?

 人類の進化?

 僕には、全く理解できなかった。理解したくなかった。


「……そんなこと、できるのか?」


「残念ながら。私の故郷のコミュニティも、彼らの手によって壊滅させられました。家族も、影を強制的に抽出された……」


 栞の声が、一瞬だけ震えた。

 ペンライトの光が、彼女の顔の影を深くする。


 その瞳の奥に、深い悲しみが宿っているのが見えた。

 その悲しみが、僕の心に直接流れ込んでくる。

 胸が締め付けられるような、痛いほどの感覚。

 まるで、僕自身の悲しみであるかのように、全身が震えた。


「っ……ごめんなさい」


 僕は思わず謝っていた。

 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。

 ただ、彼女の悲しみが、僕の心をあまりにも強く揺さぶったからだ。


 栞は、少し驚いたように僕を見た。


「なぜ、あなたが謝るのですか?」


「……僕、人の感情が、強く伝わってくるんだ。今、栞さんの悲しみが……まるで、自分のことのように……」


 僕は言葉を濁した。

 人には理解されないこの「弱点」を、どう説明すればいいのか分からなかった。


 栞は、僕の言葉を聞いて、小さく目を見開いた。

 そして、ふっと、寂しげに微笑んだ。


「……なるほど。あなたの『共感性』は、噂以上ですね。それは、あなたの影の力と関係があるのかもしれません。周囲の感情エネルギーを過剰に吸収する性質……」


「……僕の影の力?」


「ええ。ですが、今はそれよりも、あなたの身の安全が最優先です。影喰いは、あなたを諦めないでしょう。彼らは、あなたの大切なものも、容赦なく奪っていくでしょう」


 栞はそう言って、僕に手を差し伸べた。

 その手は、冷たい雨に濡れていたが、どこか力強く感じられた。


「私と一緒に来てください。影持ちが身を寄せ合う隠れ家があります。そこなら、安全です」


 僕は、差し出された手を見つめた。

 行く?

 知らない人たちの隠れ家に?

 争いに巻き込まれるのは、嫌だ。

 僕はただ、静かに暮らしたいだけなんだ。

 本を読み、カゲと会話する、あの平穏な日常を。


「……嫌だ。僕は、争いなんてしたくない。ただ、静かに……」


 僕は首を振った。

 栞の手が、ゆっくりと下ろされる。


「……そうですか。ですが、このままでは、あなたの日常は、もう続きません。古書店の店主のおじいさん、あなたの数少ない友人、そして……あなた自身の平穏な生活圏。彼らは、それを容赦なく脅かしてくるでしょう。このままでは、全てが壊されてしまう」


 栞の言葉が、僕の心に重く響いた。

 大切なもの……。

 古書店でのアルバイト。

 店主のじいさん。

 そして、僕の数少ない平穏な日々。


 もし、影喰いが、僕の日常にまで手を出してきたら?

 じいさんに、何かあったら?


 その想像が、僕の心を強く揺さぶった。

 胃の奥が、再びねじれるような感覚に襲われる。


 僕は、ただの臆病者だ。

 争いを避け、人との関わりを避けて生きてきた。

 でも、このままでは、本当に全てを失ってしまうかもしれない。


「……なあ、灯」


 カゲが、僕の足元で、静かに語りかけてきた。

 その声は、いつになく真剣だった。


「お前、本当に誰にも見えなくなるぞ。……お前の『平穏』ってやつも、俺たちごと、闇に消えちまうぞ。お前が隠れてるだけじゃ、何も守れねぇんだ」


 カゲの言葉が、僕の胸に突き刺さる。

 誰にも見えなくなる。

 それは、僕が最も恐れていることだった。


 人との関わりを避けてきたけれど、それでも、僕は「存在」していたかった。

 僕の影が、僕自身の存在証明だった。


 僕は、ゆっくりと顔を上げた。

 雨はまだ降り続いている。

 遠くで、再び雷が鳴った。


 僕は、栞を見た。

 彼女は、ただ静かに、僕の答えを待っていた。

 その瞳には、僕と同じような、しかしもっと深い覚悟が宿っているように見えた。


 このままでは、何も変わらない。

 いや、変わらないどころか、全てが壊されてしまう。


 僕が、動かなければ――。


 僕は、自分の震える指先を、ぎゅっと握りしめた。

 足元のカゲが、僕の決意を感じ取ったかのように、わずかに脈動する。

 その脈動は、僕の心臓の鼓動と完全に重なり合っていた。


 そして、僕は、静かに、しかしはっきりと、口を開いた。


「……わかった。僕も、行くよ」

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