第1話「カゲしか話し相手がいない」
古びた本の匂いが染みついた空気の中、僕はページをめくる指先に意識を集中させていた。
外では雨が降っている。ぽつ、ぽつ、と、窓ガラスに打ちつける音が、時間の流れを緩やかに刻んでいた。
この古書店には、時間が流れていないような錯覚を覚える。店主のじいさんが棚の奥でうたた寝している今、ここに動いているのは僕と、そして――
「また同じとこ読んでんのか、灯?」
耳元で、くぐもった声がした。僕はため息をつきながら、ページから目を離す。
「うるさいよ、カゲ。……静かにしててくれない?」
返事はない。ただ、足元の床に落ちた“影”が、すうっと揺れた気がした。
影山灯――これが僕の名前だ。
一応、18歳。大学には通っていない。バイトしながら暮らしている、ただの人間。
でも……僕には、“もうひとり”がいる。
カゲ。
僕の影に宿る、“もうひとつの意思”。
……いきなりこんなことを言われても、普通は信じないだろう。僕だって最初は夢かと思った。でも、現にカゲは、こうしてずっと僕に話しかけてくる。
「そんな言い方すんなよ、こちとらお前の退屈な人生を何年も見てきてんだぜ? たまには会話でもしなきゃ、俺が腐っちまうっての」
床に伸びる影が、まるで口をきくように、微かに揺れる。
人から見れば、ただの光と物体の関係でしかない“影”が、僕には生きているように見える。
「……じゃあ聞くけどさ、どうしてお前は、僕にしか見えないんだ? 他の人にも、見えたことないだろ?」
「それを俺に聞く? 俺が知ってたら、とっくに答えてるさ」
カゲはときどき、自分でもわからないことがあると言う。
それも不思議な話だけど……僕も、全部が分かってるわけじゃない。
物心ついた頃から、カゲは僕のそばにいた。
最初は、ただの“想像上の友達”だと片付けられた。でも、違った。
成長するにつれ、カゲはどんどん“僕とは違う人格”を持ち始めた。
皮肉屋で、少しお節介で、でも――どこか、僕のことを誰よりも理解してくれてる。
……皮肉な話だよね。
僕の人生で、いちばん信頼できるのが、自分の影なんてさ。
ページを閉じて、僕は静かに椅子から立ち上がった。
もうすぐ閉店の時間だ。今日も客は数人だけ。静かな雨の音と、埃っぽい匂いだけが、この古書店を満たしている。
「なあ、灯。いつまでこのままでいるつもりなんだ?」
また、カゲが話しかけてくる。
「“このまま”って?」
「毎日、本を読み漁って、誰とも話さず、影とだけ会話して……そのうち、お前、本当に誰にも見えなくなるぞ」
「……それが、どうしたの?」
僕の声は思ったよりも冷たかった。
カゲが黙る。
僕には、他人と関わるのが難しい。
人の感情が、異常に強く伝わってくる。
街を歩いているだけで、すれ違った人の怒り、悲しみ、苛立ちが一気に流れ込んでくることがある。
だから、僕はなるべく人と関わらないようにしてる。
誰かと話すことが、怖いんだ。
でも、カゲだけは……。
「……まあ、いいさ。今日も“アレ”は持ってるんだろ?」
アレ。
僕はポケットに手を入れ、小さな布製のお守りを取り出した。
これは、亡くなった祖母がくれたものだ。
小さな布の中に、何か硬いものが入ってる気がする。開けたことはない。
ただ、これだけは、どんな日でも持ち歩いてる。
「うん。……今日も、無事だよ」
ぽそりとつぶやくと、カゲがくすくすと笑う。
「それ、お前の命綱だもんな」
「……かもね」
照明の蛍光灯が、じりっと唸った。
雨の音が、少しだけ強くなる。
そして――
「……いらっしゃいませ」
僕は、反射的に口にした。
入り口のベルは鳴っていない。
けれど……扉が、確かに“開いた気がした”。
「……誰もいねぇじゃん。気のせいか?」
カゲが言う。
でも、僕は気づいていた。
気配が、ある。
それは、僕の背中をひやりと撫でるような、微かな寒気。
まるで――自分以外の影が、すぐそばにあるような……。
その気配は、確かに“影”のものだった。
けれど、それは人の背中に寄り添う影とは違う――まるで意志を持って、こちらをじっと見つめているような、そんな感覚だった。
「……誰かいるの?」
僕はそっと声をかける。
カウンター越しの空間には誰もいない。
けれど、確実に“何か”がこの店に入り込んでいる。
足元のカゲが、ゆらりと揺れる。
その揺れ方が、いつもとは違って見えた。
「……来たな、“同類”ってやつか」
「えっ……?」
僕の言葉にカゲは反応しない。ただ、床に落ちた僕の影が、静かに輪郭を濃くしていくのが見えた。
そして――
「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」
静かな、けれど芯のある声が、書棚の間から聞こえた。
そこに立っていたのは、長い黒髪を後ろで束ねた女性だった。
年齢は、たぶん僕とそう変わらない。
けれど、その佇まいには、場違いなほどの落ち着きと……冷たさすら感じた。
そして彼女の足元――
そこに伸びた影は、まるで“息をひそめる獣”のように、微動だにせず床に張り付いていた。
「……君、影が……」
「見えるのね。ふふ、やっぱり。噂通りの人」
僕の言葉に、彼女は小さく微笑んだ。
その笑みがどこか痛々しくて、僕はなぜか胸の奥がざわついた。
「……なあ、灯。こいつ、ただの客じゃねぇぞ」
カゲが低い声で言った。
わかってる。こんなに“影の気配”を濃く感じたのは初めてだった。
「君の名前、聞いてもいい?」
「月読 栞。私は――“影持ち”よ」
その言葉に、背筋が震えた。
影持ち……?
「……“僕と同じ”ってことか?」
「似ている。でも、少し違う。あなたの影は……特別ね。とても強い波動を感じるわ」
栞の視線が、僕の足元に向けられる。
そこにいるカゲは、じっと黙っていた。まるで相手の出方を探っているかのように。
「何者なんだ、君……」
そう問う僕に、栞はまっすぐな目で答えた。
「“影喰い(シャドウ・イーター)”を知ってる?」
その言葉は、鋭い刃のように僕の胸に突き刺さった。
「……何それ」
「影を持つ者たちを狙い、その影を“奪う”組織よ。彼らは今、強い影持ちを探してる。あなたのような」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
誰かが……僕のカゲを狙っている?
「冗談じゃねぇ……」
カゲの声が、怒りをはらんでいた。
珍しい。こんなに苛立ちを見せるのは。
「僕の影を、奪う……?」
「あなたがまだ知らないだけ。影には“意思”がある。……それを力として利用しようとする者がいるのよ」
僕は、自分の足元を見下ろす。
カゲがこちらを見上げているような気がした。
「灯、君はまだ知らないんだ。影ってのが、ただの黒い模様じゃねぇってことを」
「……知ってたつもりだった」
ずっと一緒にいた。カゲは僕にとって“もう一人の僕”だった。
でも、その力を……誰かが奪おうとしてる?
「なぜ……僕のところに来たんだ?」
僕の問いに、栞はほんの少しだけためらってから、言った。
「あなたに“頼みたいこと”があるの。……でもその前に、見せて欲しい。あなたと、あなたの影の本当の姿を」
その瞬間、栞の影が――動いた。
それは音もなく、だが確実に、僕の足元に向かって広がってくる。
まるで、僕とカゲに“触れよう”とするように。
「やめろ……!」
とっさに声が出た。
その時だった。
足元のカゲが、ぐわりと大きく形を変えた。
いつもの“人の形”ではない。
まるで、何か巨大な生き物のように、黒く脈動しながら栞の影をはじき返す。
「触るんじゃねえッ!!」
カゲの声が、僕の中に直接響いた。
強い怒りと、何か別の感情――
それは、恐怖に似たものだった。
「……ごめんなさい。確かめたかったの。……あなたの影が、どれほど“特別”なのかを」
栞の影は、すっと後退し、また静寂を取り戻した。
だが、僕の心臓の鼓動は、まだ収まらなかった。
「なあ、灯……これで分かったろ」
「……何が?」
「君の影は、ただの相棒じゃねぇ。“力”なんだよ。――そして、それを狙ってる奴が、本当にいるってことだ」
僕はゆっくりと、栞を見る。
彼女はどこか寂しげな目で、ただ黙ってこちらを見返していた。
「……これから、どうすればいい?」
「選ぶのは、あなた自身。でも、もう――」
その時、古書店の外で、雷が鳴った。
遅れて、建物全体が震えるような音が響く。
その直後だった。
店の照明が、ぷつん、と音を立てて消えた。
暗闇。
そして――
僕の影だけが、ゆっくりと赤く脈動していた。