24 桜子1
あのとき、わたしの人生は変わった。
信号が変わったばかりの横断歩道に、赤い車がすごい勢いで走ってきて、運転手の女の人が携帯電話を片手に驚いた顔をしていた。凛は車の上を転がって、車の後ろにどさりと落ちて、ピクリとも動かない。
その光景はまるでスローモーションのように目に映ったけれど、わたしは何もできなかった。魔法でできることも何もなかった。元々、何かの役に立つようなものじゃないのだから。
でも、あんなに一生懸命頑張って覚えたのに、いざというときに何もできないだなんて、凄く理不尽なことのように思えた。
その後、起こったことはよく覚えていない。脇見運転をしていた女性はちゃんと逮捕されたけれど、だからといって凛が戻ってくるわけじゃない。
凛のお葬式も茫然としたまま過ぎてしまった。小学校、中学校の友達からは多分励ますようなことを言われたはずだけど、風のように通り過ぎていった。
わたしは無力だ。魔法が使えるというのに、何もできないだなんて。
そこで魔法の本の最後に書かれていた魔法のことを思い出した。魔法使いの最後の希望を。ほんの10秒間の小さな奇跡。
10秒あればきっと凛を助けることができる。何故なら、直前まで一緒にいたのがわたしなのだから。ほんの少し手を伸ばせば、凛の腕をつかむことはできたはず。
少しでも早く最後の魔法を覚えるために、わたしはすべてを魔法に捧げることに決めた。おばあちゃんに魔法の鍛錬の方法を聞いて、朝お風呂場でシャワーから冷水を浴びてみたり、コンロに火をつけて、その前で呪文を唱えたりしてみたけど、あんまりうまくいかなかった。
家の中で済んでしまうから厳しさが足りなかったのかもしれない。あと、コンロの火を点けっぱなしにしていたら、お母さんに怒られた。
ネットでいくら調べてみても、魔法使いの視点から見た魔法についての情報は少なくて、本当に大切なことはネットなんかに落ちてはいなかった。
仕方なしに中学校のときのように、高校でも魔法の本を読んで気休め程度に勉強していたら、同級生の女の子が声をかけてきた。
「何それ? 黒崎先輩の真似?」
「黒崎先輩? 誰?」
「知らないの? 一個上のモデルみたいに綺麗な先輩。ちょっとミステリアスな感じで、学校の3分の1くらいの男子が夢中になっているのよ? 噂じゃ魔法が使えるって話だけど。南雲さんはその真似をしてるんじゃないの?」
高校では中学のときのように、魔法使いを目指していることを明らかにしていなかったから、わたしが魔法使いの家系であることはあまり知られていなかった。
それに同じ学校に魔法使いを目指している人がいただなんて、初めてのことだった。
「黒崎先輩のことは初めて聞いたわ。ところで3分の1が夢中ってことは、残りの3分の2は何に夢中になっているの?」
彼女は肩をすくめた。
「さあ? 戦う前から諦めてるんじゃない?」
黒崎先輩が文芸部に所属していると知ったわたしは、早速入部届けを書いて、放課後に部室に持っていった。ドアを軽く叩くと、「どうぞ」という返事が聞こえた。
そこで待っていたのは、男の人が理想とするような清潔感のある女子高生の姿。化粧気はないのに肌も髪もよく出来た人形のように綺麗で、眼鏡をかけているから、一見地味に見えるけど、よく見れば綺麗な顔をしている。目立たないようで一際目を惹くのは、こういう人なのかもしれない。
理想の女子高生がわたしを見て、口を開いた。
「何か御用」
丁寧で優しい口調。完璧だと思った。
「入部したいんですけど」
「本に興味があるのかしら?」
「いえ、先輩に。黒崎先輩ですよね?」
そう告げると、理想の女子高生は怪訝な顔をした。
「わたし? 困るわね。ここは文芸部だから、本に興味がある人だけが入れるのよ?」
「本になら興味はあります」
わたしはカバンから黒革の魔法の本を取り出した。何度も何度も繰り返し読んだ本。わたしの一部と言ってもいいかもしれない。
黒崎先輩は一目見て、それが何であるか悟ったらしく、雰囲気を一変させた。
一切の軽さと優しさが消え失せて、重く暗い目でわたしを見据える。
「魔法使いがわたしに何の用かしら?」
「一緒に魔法の修行をしませんか?」
「はっ」
先輩は冷たく鼻で嗤った。さきほどまでとは別人のようだ。
「わかっているの? 魔法使いは基本的にライバル関係にあるのよ。将来は数少ないリソース──顧客を奪い合って生きていかなければならない。師弟関係ならいざ知らず、慣れ合うようなことなんかしないわ。一見群れているように見える魔法使いたちだって、実際は自分のことしか考えていないのよ。自分の修行方法なんて、簡単に教えたりしないわ」
「別にわたしは魔法使いとして生きていきたいわけじゃありません。ただ、最後の魔法を使いたいんです」
わたしは素直に自分の目的を話した。
「最後の魔法?」
先輩は眉間に深い皺を作った。
「あなた正気? あれを唱えたら最後、もう二度と魔法は使えなくなるわ。確かにわたしたち魔法使いは最後の魔法を使うことを目的としているけど、それは仮初のようなもので、あれを使わないで生きていくことのほうがよっぽど大事なことなのよ」
「わたしにはもっと大事なことがありますから」
黒崎先輩は険しい目つきで睨んできたけど、わたしは怯まずに続けた。
「誰かと一緒に魔法の練習をすることで、自分では気づかなかったことがわかるようになると思います。魔法を高めるにはひとりでは難しいのではないでしょうか? それに魔法使いは最終的には競い合うものではなく、ひとりで高みに到達するものです」
「……あなたの名前は?」
「南雲桜子です」
思案気な表情を浮かべた後、先輩は深いため息をついた。
「少し前に学校の近くの道路で車に跳ねられた子がいたわね。その子の友達の名前が同じ名前だったはずだけど……」
よく知っている。情報収集は魔法使いの基本だ。この学校に入っていながら黒崎先輩のことを知らなかったわたしは、やっぱり気が抜けていたのかもしれない。
「それがわたしです」
「最後の魔法であの事故を防ぎたいの?」
「はい」
「魔法が二度と使えなくなっても?」
「はい」
先輩は首を軽く横に振った。
「友達のために人生を捨てる気? 学生時代の友達なんて一時のものよ? 最後の魔法が使えるようになるには真面目に修行しても何十年とかかるわ。中には才能が無くて、一生かけても手が届かない人がいるくらいよ。そんな馬鹿なことは止めなさい」
先輩の重い雰囲気がまた軽くなっていって、その声にはわたしを案じているような気配が感じられた。
「人生を捨てる気はないです。きっと凛が生きていたほうが、わたしの人生は楽しいから。それに役に立たないと言われている魔法で、人の命が救えるんですよ? それって凄いことだと思いませんか?」
「……あなたは魔法使いに向いていないわ。魔法使いって、もっと利己的なものだもの。そんなんじゃ、わたしのライバルにはなれないわね」
また先輩は理想の女子高生の姿を纏った。
「じゃあ……」
「いいわ、入部を認めてあげましょう。どうせ、この部はわたし目当ての幽霊部員ばかりでまともに機能していないから、悪い魔法使いふたりで乗っ取ってしまいましょうか」
先輩は優等生みたいな顔に、人の悪い笑みを浮かべた。
「わたしのことは那月と呼びなさい。わたしもあなたのことを桜子と呼ぶから」
思えば那月先輩はわたしの二人目の師だったと思う。
先輩の修行はおばあちゃんのものとは違って、大分現代風にアレンジされていて、科学的な知識も取り入れたものだった。よくもひとりでここまで研究していると、わたしは感心したものだ。
「言っておくけど、本当に効果があるかどうかはわからないわ。完全に自己流だから。でも、今までの魔法使いたちの修行の目的を考えれば、とにかく魔法への集中力、没入感を増すことが大切なはずなの。それにはまず自分の心身を健康に保つことが一番重要。あとは魔法に説得力を持たせることね。自分だけじゃなくて他人にも。自分の魔法に自信を持つためには、結局人にどう見られているかということも大切になってくるから。それには魔法使いらしく振舞う必要があるのよ。人に『凄い魔法使いだ』と思われれば、自分も『凄い魔法使いだ』と思えるようになる。魔法はどこまで行っても精神的なもので、意識が大切になってくるから」
先輩が美を意識しているのも、一際自分を特別な存在に見せるための手段らしい。
わたしはあんまりそういうことに気をつけたことがなくて、とても参考になった。
それからわたしは小学生のように規則正しい生活を始めた。
最初に夜の8時に寝ようとしたときは、さすがに両親に驚かれたけど、そこから段々と無理のないような自分の生活スタイルを身に付けていった。
先輩からは口を酸っぱくして言われた。
「わたしの言うことを鵜のみにしないでね。自分でも色々試して。それで自分で納得できる方法が見つかったら、フィードバックして。わたしも参考にしたいから」
それでわたしも今までまったく興味のなかったファッションモデルの生活スタイルを、ネットとか雑誌とかで探して参考にして、色々試していったりした。時には部室でファッション誌を先輩とふたりで眺めて、モデルがアンケートに答えているこの食べ物が良さそうだとか言い合ったり、趣味にしているヨガやピラティスとかを試してみたりもした。もちろん、表では誰にも気取られないようにして。
肉はあまり口にしなくなり、野菜や果物を中心とした食生活に変わっていった。
「精進料理みたいなものよ。実際の効果はともかくとして、こういう食生活をしていること自体が自信に繋がると思うわ」
先輩は自虐的に笑っていたけど、確かに身体の調子は良くなっていったし、それにつられるように魔法も良くなっているような気がしてきた。そういう意識がさらに魔法に良い影響を及ぼして、わたしと先輩の魔法は段々と上達していった。
那月先輩が卒業した後は、ひとりで文芸部で修業を続けた。わたしは部長となり、大勢いる部員たちとも言葉を交わした。彼らと喋りながら、その様子を観察して、どういう風に話せば良いのか、相手がどう思っているのかを見極め、魔法使いとしてどう振舞えば良いのか参考にしたのだ。おかげで文芸部の部室はちょうど良い修行の場であり続けた。




