23 祖母2
幸せな結婚生活だった。あの人はいつもむっつりしていたから、そうは見えなかったかもしれないけど、わたしにとっては本当に良いご縁だった。
子供は3人出来て、父はやっぱり真ん中の長女を魔法使いにしようとした。もう時代が時代だったから、わたしのときみたいに水行や山籠りのようなことはさせなかったけど、それでも厳しい修行だったと思う。朝早く起きて、ずっと呪文を唱えさせたりしていたんだから。
それで高校を卒業して、さあ魔法使いにしようという段になって、あの事件が起きたのよ。魔法使いが絡んだ新興宗教によるテロ事件。あれで一気に世間の風向きが険しくなって、とても魔法使いになるだなんて言えるような状況ではなくなったわ。
娘も嫌がったし、さすがにあの人も難色を示した。ただ意外なことに、父もすんなり娘が魔法使いにならないことを認めてくれたの。
「魔法の長い歴史の中で、このようなことは何度でもあった。そして何度も魔法は復活を遂げている。今は雌伏のときなのだ」
って、わかったようなことを言ってね。
わたしはね、正直言って、もう魔法は時代遅れだと考えていたから、そんなことはないんじゃないかって思ったわ。わたしの代で魔法使いは終わりだと確信していた。別に魔法を続けていかなければ死ぬってわけでもないしね。
ただ、わたしはそれしか生きる方法を知らなかったから、何年か休業した後、また始めたわ。魔法を前面に出すのは難しいから、今度は完全に占いってことにしてね。魔法使いを諦めた娘は普通に大学を卒業して、良い人と結婚して、魔法に関係ない人生を送ったわ。
孫ができて、父も母も亡くなって、世間的にも緩やかに魔法は無くなっていくと思っていた。わたしも孫を楽しませるように、ちょっと魔法を使ってみせたりするようになっていったわ。孫もとても喜んでくれてね。
父が生きていたら、「そんなことに魔法を使うな!」って怒られていたでしょうけど。でもね、「もう廃れゆくものだから良いじゃない」って、わたしは考えていたのよ。もう魔法の時代は終わるってね。
孫の桜子は、
「魔法使いになりたい!」
って言ってくれたけど、わたしは止めたの。
「大変だから止めておきなさい。そんなに良いものじゃないわよ」
娘も……桜子の母親も止めたわ。桜子はムッとしていたけどね。
でも魔法にしかできないことなんて、そんなに無いから、わざわざ魔法使いになんかなるものじゃないとわたしは考えたの。
凪のような平穏な日々が過ぎていった。わたしの人生はこのまま穏やかに終わっていくのかと思っていたわ。
ところがある日、あの人が癌だってわかったの。しかもステージが進んでいて、見つかったときは手遅れだった。あの人は黙ってそれを受け入れたわ。
「もう十分生きた」ってね。
でも、わたしたちはまだ60半ばで、まだまだ先はあると思っていたのよ。それにわたしはもう少し一緒にいたかった。融通が利かないし不器用な人だけど、それでもわたしはあの人が好きだった。
そして、わたしにはできることがひとつだけあった。魔法を始めてから50年以上経っていたから、『最後の魔法』を使うことができるようになっていた。
最後の魔法。それは自分の意識を過去に戻すことができる魔法。
魔法はイメージがすべてだから、確定していない未来に触れることはできないけど、既に経験した過去になら触れることができるのよ。でも時間旅行なんて大それたことはできないわ。魔法はあくまでも自分の内側に在るものだから、自分の今の精神を過去の精神と同調させることができる程度。それもたったの10秒。必要となる魔力は膨大なもので、その高みには簡単に到達することはできない。
本当はね、そんなものにあまり興味はなかったの。ただ、お仕事は続けていたから、鍛錬は欠かさなかっただけで、そんなものを使おうと思ったことなんかなかった。
わたしは『最後の魔法』を使うための準備を進めたわ。あの人の看病と並行してね。
結局、あの人は癌が見つかってすぐに亡くなった。でも、わたしは涙を見せなかったの。これで終わりじゃないと知っていたから。
それでお葬式が終わった後くらいに、『最後の魔法』を使う用意ができたの。ただ、ちょっとだけ決心が必要だったわ。ほんのちょっとの決心が。
『最後の魔法』はね、それを唱えてしまうと、もう二度と魔法が使えなくなってしまうのよ。もう二度とね。魔法使いではなくなってしまうの。わたしはそれでも良いと思っていたんだけど、実際にそうなる瞬間が近づいてきたら、やっぱりちょっと怖気づいてしまった。だから、数少ない魔法使いの友達に相談したの。
「最後の魔法を使おうと思っている」って。
そしたら、
「せっかくだからテレビで撮ってもらおう」
とその友達は言ったわ。昔よくテレビに出ていた人だから、知り合いがテレビ局にいたのね。
「最後の魔法を唱えるんだから、その姿を撮ってもらいましょうよ。あなただって、自分が魔法を使っている姿を後で見たいでしょう?」って。
悪くない考えだと思ったわ。もう二度と魔法が使えなくなるなんて、やっぱり寂しいもの。テレビで撮影してもらって、その姿を後で何度もビデオで見返すことができるとしたら、それは素敵なことだと思えたわ。
だから、テレビ番組に出て、最後にいっぱい魔法を披露することにしたのよ。
火、水、風、氷、雷……使える魔法は全部使ったわ。
ありきたりな魔法だから、あんまり面白い番組にはならなかったかもしれないけど、「年寄りの最後の我儘だと思って我慢してね」って心の中で謝りながらね。最後の花道ってやつよ。
それで最後の魔法を唱えるときがきたわ。
黒い魔法の本の最後に書かれた呪文。父はこの魔法を使うことなく亡くなった。最後まで魔法使いであり続けたことが父の誇りだったわ。それも魔法使いとしてのひとつの生き方なのよ。
でも、わたしは使う道を選んだ。
ゆっくりと愛おしむように呪文を唱えたわ。だって最後ですもの。
呪文を唱えている間は、いつも心の中で温かいものを感じるのだけれど、この魔法だけは違った。まるで地獄の業火のような熱を感じさせたわ。
その熱はね、身体を焼き尽くすものではないの。いつも魔法を唱えるときに使っている大事な何かを焼いていたのよ。もう後戻りはできないことをわたしは知ったわ。わかっていたけど涙がこぼれた。ずっと、わたしと一緒にあったものですもの。悲しくないわけがないわ。
だけど、その犠牲を無駄にするわけにはいかないから、わたしは想像した。いつもは火や水を想像するのだけれど、この魔法は自分の記憶の中にある景色を想像するの。そうすると、わたしの意識だけがその景色の時間へと戻っていくのよ。
まるで走馬灯のようにね。
たどり着いたのは、あの人の癌が発症したと思われる頃の桜子の家。
みんなでお昼ご飯を食べ終わった後の、くつろいでいた時間帯。
その瞬間の意識と同化したわたしは、あの人に向かって叫んだわ。
「今すぐ病院に行って! あなたは癌だから!」
みんなの前で叫んだのは、あの人は頑固だからわたしひとりが言ったところで、大人しく従うはずがないと思ったから。たった10秒の魔法の奇跡を無駄にはできないわ。……いえ、10秒もあったのかもわからない。それよりも早く、わたしの中の大切なものが燃え尽きようとしているのを感じた。
そして、意識が元の時間に戻ったの。
魔法を唱える前と同じテレビ局のスタジオ。一瞬、何も変わっていないんじゃないかと思って背筋が凍り付いたけど、観覧席にいたあの人の姿を見て、最後の呪文が成功したことを知ったわ。
良かった、本当に良かった。わたしが魔法使いで本当に良かったわ。
たった10秒なんかじゃ世界は変えられないかもしれない。それでも、わたしの魔法は奇跡を起こした。それで十分よ。例えもう二度と魔法が唱えられなくても。もうそれで十分。
番組はやっぱりあまりいい出来じゃなかったけど、ちゃんとテレビで放送されて、わたしはビデオで繰り返しそれを見たわ。最後のわたしの晴れ姿を。
あの人が呆れてしまうくらいにね。
あの人のために失ったものがあって、それを懐かしんでいるだけなんだけど。でもそんなことは言えないじゃない。恥ずかしいわよ。
「あなたのために頑張った」だなんて。あれは墓場まで持っていく秘密よ。
それに、わたしが魔法を使えなくなったことは、桜子以外には誰にも言ってないからね。魔法を使えなくても、何とかお仕事は続けていけるのよ。最後の魔法を使った後も生きていけるように、魔法使いは魔法使いらしく生きていけるようにずっと準備をしているのだから。
意外だったのは、家族からも呆れられたあの番組で、桜子が魔法使いになる決心をしたことよ。わたしの姿がカッコ良かったって言って。これも魔法使いの血なのかもしれないわね。父の言った通りだったわ。
桜子は小学校に入ると、そこでできた友達の影響で本当に魔法の勉強を始めたの。あの意地っ張りで、だけど自分に自信が持てなかった子が。どこまで続くかわからないから、わたしは文字の読み方を教えて、持っていた魔法の本をあげたの。もう、わたしには必要のないものだったから。
あの子はあげた本を学校にまで持ち込んで、熱心に勉強していたわ。
おかげで中学生になって、桜子は初めての魔法を成功させることができたの。なかなか早かったわ。でも、あの子はそれで満足したようにも見えた。だから、そのまま魔法使いは止めて、普通に生きていくかもしれないと思ったわ。
でも……桜子が高校生になったとき、あの痛ましい事故が起きた。
あの本を熱心に読んでいたから、最後の魔法の存在は知っていたでしょうね。
桜子はわたしから最後の魔法について詳しく聞いて、それで魔法使いになる決意をしたわ。
それは辛い道なのよ。だって魔法を使うために魔法が使えなくなるのだから。
わたしは言ったわ。
「もし、最後の魔法に成功しても、そのとき、あなたと彼女はもう友達ではなくなっているかもしれないのよ? だって、その後の人生のことなんて誰にもわからないし、若い頃の友情がずっと続くことの方が珍しいのだから」
桜子は微笑んだわ。
「別に良いのよ、それでも。だって、わたしがそうしたいだけなんだから。わたしが最後の魔法を使えるようになるには、どんなに頑張っても10年以上かかるでしょう? 10年よ。わたしはその間、凛がどんな人生を送るのか想像して、幸せに過ごすことができるの。高校ではきっと部活動を楽しんだんだろうな、とか。大学では彼氏を作ったんだろうな、とかね。それって凄いことじゃない? だって、本当はいなくなってしまったことを悲しむはずなのに、希望をもって生きていけるんだから。それだけでわたしは十分報われると思うわ」
あの子の顔には何の迷いも無かった。
「ところでおばあちゃん、凛が生きていたことになったときは、それまでの時間はどうなってしまうの? みんなは凛が生きていたことを当たり前だと思うんでしょう? おばあちゃんのときはどうだったの?」
「最後の魔法は術者に影響を及ぼさないわ。戻ってきたのはおじいちゃんが生きている世界で、元の世界とは別なの。わたしひとりが異世界の人間のようなものよ。みんなは当たり前のようにおじいちゃんが生きていることを受け入れていて、わたしだけが死んでから最後の魔法を使うまでの間の思い出がないの。それはね、結構寂しいことよ。もちろん、おじいちゃんが生きているのだから、わたしには何の文句もなかったけれど。桜子はそれでも最後の魔法を使うの? 魔法が成功しても、その間の凛ちゃんとの思い出はないのよ? 人のために魔法を使ったのに、あなたへの報いはそれほど多くはないかもしれないよ?」
言うだけ野暮だった。あの子の強い意志を持った目がわたしを見ていた。
ああ、本当の魔法使いというのは桜子みたいな人間のことを指すのだろうと、わたしは思ったわ。




