09 黒崎那月2
コートを脱ぎ、マフラーを椅子の背もたれにかけると、わたしもバッグの中から魔法の本を取り出した。こういった本は各々の魔法使いの家に伝わっていて、内容はどれも似たようなものだと聞いている。家庭に代々伝わる料理のレシピみたいなものかもしれない。
「じゃあ、始めるわね」
わたしが告げると、桜子は魔法の本を静かに閉じて、
「はい」
と姿勢を正した。
始めるのは呪文の詠唱。歌を歌うようなものなので、意外と場所が限られるのだけれど、この時間の部室なら問題はない。
呼吸を整えて、ゆっくりと静かに自然な音のように呪文を唱える。川のせせらぎの音のように、風に揺れる葉の音のように、けれど次第にはっきりとした言葉にしていく。呪文は純度の高いものでないと効果を発揮しない。
この場合の純度という概念は説明が難しいけれど、雑念の無いクリアな思考、と言えばいいだろうか。それ以外のことを何も考えず、ただ起こす奇跡のことに没頭するというか……。もちろん、唱えている間のわたしは集中している。そのようにずっと鍛錬を積み重ねてきたのだから。
5分近く経過したところで、チリチリと心が熱を帯びる。身体ではなく心。ここではないどこか。それは決して不快なものではない。
そのときが来たのだ。
わたしはそっと人差し指を立てた。その先端に青白い火が灯る。
この瞬間が心地良い。魔法は紛れもない奇跡だ。もちろん、現代において火を点けること自体は容易である。しかし、それを何の道具も使わずに達成することはできない。
人体から発火に繋がるようなエネルギーは生じないはずなのだ。
科学が魔法を解き明かしたというけれど、「どの程度のことができるのか」ということがわかっただけであって、根本的な原理は一切わかっていない。科学的には不可能な現象だからだ。
役に立つ、立たないではない。魔法は魔法であるだけで素晴らしい。これは魔法使い以外の人間にはわからないことだろう。魔法を具現化させて、ちょっとした幸福感に包まれているわたしに、桜子がそっと声をかけた。
「那月先輩、綺麗な火でした」
「ありがとう、桜子さん。何か気付いたことは?」
「呪文の繋ぎが大分自然になってきています。ただその分、インパクトに欠けるかもしれないので、もっと身振り手振りを入れて、視線を惹きつける工夫をした方が良いかと」
わたしたちはこの部室でお互いの魔法を見せ合っていた。魔法使いとしての研鑽を積むために。
これは桜子が文芸部に入ってきたときに言い出したことだ。「一緒に魔法の修行をしませんか?」と。
最初わたしは難色を示した。魔法は「秘すれば花」だ。秘密があることで、魔法は魔法足りえているところがある。科学によって、その表層が暴かれた今でも変わらない。例え魔法使い同士でも、お互いの手の内を明かすようなことはしない。
しかし、桜子は押してきた。「誰かと一緒に魔法の練習をすることで、自分では気づかなかったことがわかるようになると思います。魔法を高めるにはひとりでは難しいのではないでしょうか? それに魔法使いは最終的には競い合うものではなく、高みへと到達するものです」と。
それでわたしは納得したのだ。ああ、この子は魔法で身を立てようとしているのではなく、目的を定めて魔法を使おうとしているのだと。
ならば、誰かと研鑽を積むことに躊躇いはないだろう。わたしは──まだ目的を定めてはいない。それが幸か不幸かはわからないけれども。ただ、目的を定めた桜子が眩しく映った。魔法使いは本来そうあるべきだからだ。
もうひとつ、わたしも桜子も、親に魔法使いを目指すことを快く思われていないことも共通していた。昭和の時代は魔法使いはそこまで悪いものと思われていなかったのだけれど、平成になって魔法使いが絡んでいた新興宗教がテロ事件を起こし、その影響で魔法が悪いものと見做された時期があったからだ。
だから、わたしたちの親世代は魔法使いの血を受け継いでいても、魔法使いを目指さなかった人が多い。わたしや桜子の親もそうだ。今はまた少し落ち着いてきていて、魔法に対する偏見は薄れつつある。
わたしは桜子の指摘を素直に受け入れた。なるほど、呪文が綺麗になりさえすれば良いわけではないのだと。多分、自分ひとりではそんなことには気付かなかっただろう。
「ありがとう。じゃあ次はあなたの番ね」
わたしがそう告げると、桜子がすっと立ち上がって息を吸った。その何気ない仕草さえ計算されたもので、まるで神事のような趣を感じさせる。
そして詠唱される呪文はやや歌唱曲に近い旋律だ。わたしの呪文がヒーリングミュージック的だとすると、彼女のものは情感的なのだ。どちらが良いか悪いかではない。
ただ、普段の彼女からは想像できないような感情に訴えかけてくるものがある。これはわたしには真似できないものだ。それでも勉強にはなる。歌い方だけではなく、歌っているときの身体の動かし方とか、表情の作り方とか、人の呪文の詠唱には学ぶべきところが多い。
桜子は掌の上に桜色の火を浮かべた。火をどんな色にするのかも演出のひとつ。術者のセンスが問われる。もちろん、火以外にも水とか風とか出せるのだけれど、意外と火が一番後始末に困らない。部屋に設置されたスプリンクラーが反応しないかぎりは。
桜子が息をふっと吹くと、桜色の火が花びらが散るように綺麗に消えた。完璧な演出と言えるだろう。
「どうでしたか?」
桜子がわたしをまっすぐに見た。「もっと上を目指したい」とその目が貪欲に訴えかけてくる。
「小学校からずっと続けているだけあって、呪文は完璧。多少、歌い方は古いけれどアレンジを加えれば問題ないわ。後は身体の動かし方よね。ずっと帰宅部だったんでしょう? 運動神経は悪くないのかもしれないけど、もう少し身体を動かしてキレをつけたほうがいいわ。そのほうが見栄えがするもの」
「身体を動かすというのは、那月先輩がやっているように走り込みを?」
「それは基本よ。アイドルのダンスとかが参考になるかもね。ネットに動画がいくらでも転がっているわ」
今は何でもネットで見られる時代だ。最新の流行を簡単に取り入れられる。
「ダンスですか? 呪文に集中できなくなるかもしれません。それに魔法の本質とはちょっとかけ離れているような」
桜子が珍しく不安げな表情を見せた。ダンスがNGなのは、魔法にとってイメージが重要だからだろう。彼女の中では「ちょっと……」となっているのだ。
「激しく踊る必要はないわ。あくまでもわたしの意見だし、とりあえず見るだけ見ればいいんじゃない。どうせ見たことないでしょ?」
「はい……」
自信無さげだ。魔法一筋で、普通の女の子が興味を持つようなこととは無縁だったのだろう。生真面目なのが良いところでも悪いところでもある。
「一流の魔法使いは魔法を使わなくても、相手に魔法使いと思わせなければならないのよ。そのためには色んなことを吸収していかなければならないわ。知識も必要。桜子も将来そうなるのでしょう? あなたの祖母のように」
「──そうですね」
桜子の祖母はある意味有名な魔法使いだった。自分の最後の魔法をテレビに映させたのだから。魔法使いならその気持ちはよくわかると思う。
わたしはできれば最後の魔法は使いたくないけれど、桜子は祖母と同じ道を目指していた。