第1章 聖ジェファールズ豪華客船事件 挿話1-3-1 モチャ・ファズの日常
私の好きな人は、私が殺した。
だから、私は誰も好きになんてならない。
「なぁ、私は紅茶が嫌いだって言わなかったか?」
「言った。だから?」
「お前、何年生まれだよ」
「62年の二十歳」
「私は60年だ。年長者の趣味に合わせろよ」
「階級はこっちが上だから」
ユト・クーニアが優雅にカップを傾けながら、にやりと笑う。
こいつはいつもそうだ。
年下のくせに敬語は使わないし、根底から私のことを舐めている。
付き合いとしてはもう6年になるが、時よりこうして休養日が重なれば彼女の方からお茶に誘ってくる。
「なんで久方ぶりの休みをお前と過ごさないといけないんだ」
「最近、私たちすれ違い気味じゃない?だから」
「気色悪いんだよ、お前」
第三騎兵師団は、おそらく全師団の中で一番激務だ。
なぜか後天的な適合者の発生が多いのと、帝都から遠いこともあり、情勢が安定しない。それに経済的にも最低だ。
だからこうして二人の休養が重なることは非常に珍しかった。
「お前、落ち込んでたんじゃないのかよ」
ユミトルドの件から、クーニア上級大尉の様子がおかしいという噂は入っていた。
だから、今日も少し身構えていたのだが。
「落ち込んでるに決まってんでしょ。あと、エチカを殺したくてしかたない」
「少佐に昇進したらしいな、少尉から少佐って、前代未聞じゃないか?余程皇帝のお気に入りらしい。ケツ振っといた方がいいぞ、お前。下級とはいえ、皇帝側近の貴族の養子だし、師団長、もしくはそれ以上行くぞ。ただの叩き上げとは違う。結婚でもすれば玉の輿だ」
「最悪よ、そんなの。私はね、たくさんのわんちゃんと一緒に暮らすのが夢なの。男なんていらない」
「だと思ったよ」
紅茶を飲みながら、ユトはしばらく世間話をした。
少尉から少佐の昇進は、クランツェルとユミトルドの合わせ技っていう体裁なんだ、とか、スポンサー契約を求める企業からの連絡がうるさいとか、任務だけで手一杯なのに事務処理までさせるなとか、引っ越しの準備をする時間もないとか、そういう通常の話。
いつもより饒舌なのは明白だった。
それが彼女の異常なのか、それとも何かこの後に重大な事項でも言おうとしている、その暖機運転なのか。
「ねぇファズ、あなたエチカとは知り合いなんだよね?」
「ん?あぁ、セクロンの馬鹿が迷惑をかけたことがあってな。なぜか私が謝罪に行かされたときにな」
「あぁ、飴玉下賜事件か」
「確か、エチカはあの時、12とか13歳だったんだじゃないか?気味の悪い奴だと思ったよ」
なんでエチカの話なんか、と思ったが。おおよそ予測はついた。
やっぱりさっきの雑談は目的あってのことだった。
「なぁ、私は行かないぞ、あいつの部隊には」
皇帝直隷第二十一班。
ユトはそこに配属になることになったらしい。
第三騎兵師団からは、ユト、クラン、セクロンの三人に白羽の矢が立った。
軍隊内はいいとして、世間に対し身分を偽るため女性の適合者でなくてはならない。
条件はそれぐらいだと聞いたが、他の隊員の情報も聞いて、私は唖然とした。
エチカ・ミーニア少佐を室長。
ユト・クーニア上級大尉を副室長として、
第一騎兵師団はイサラ・ザクトーフ大尉。
第二騎兵師団はルラ・コースフェルト大尉
第四騎兵師団はオニタス・ルールラ中尉
近衛師団も、フランシャルン・パピノスペイパード大尉を出した。
確かに、エチカとユトはテミナル出身ということが扱いづらい要素となっている。
イサラ・ザクトーフも戦闘以外の性格的要素に問題があるらしいし、オニタスもそうだ。フランシャルンも別な意味で浮いている。
寄せ集め、そういう体裁は一応取っている。
___だとしても、だ。
帝国戦記の編纂という業務にしては、あまりにも血生臭い戦闘力。
各師団の将校は明らかに裏があるその部隊に気が付いているはずだ。
将校だけではない。皆がおかしいと理解している。
いくら部隊の最高階級が少佐だとして格が低くても、実力はそこから乖離している。それに、これらの中心人物の下に付く者も、将来を嘱望されつつ、何かしら瑕疵があるもの。
第三騎兵師団のクランとセクロンもそうだ。
特にセクロンは、ルラ・コースフェルト以来の天才、第一騎兵師団長イコル・マギュラス以来の戦力になりうる、と喧伝されている。
師団に及ぶ戦力といっても過言ではない。
「先回りしないでよ」
「私には責任があんだよ」
「優秀なスカウトとして、ね」
そうだ。
この第三騎兵師団には、私が軍に誘って入隊した者が多い。
そいつらは姉貴だの姉御だの、そういって自分のことを慕ってくれている。
「だから無理だ。それにお前から聞いた面々からして、私なんて必要ないだろう。師団対抗戦とかあったら、ぎりぎり第四ぐらいには勝てそうじゃねぇか」
「だから、でしょ」
ユトは目線で紅茶のお替りをウェイターに頼んでから、こちらをじっと見る。
「だからって何だよ」
「この新設部隊には、《《簡単に死ぬ者は1人もいない》》」
エチカの部隊に入ることを嫌がっていた彼女だが、なぜか誇らしげにそう言った。
「_____そうだろう、な」
「ファズ、あなたもう限界よ。このままいくと毎日誰かの墓参りで、任務どころじゃなくなる」
それに対しては返す言葉もない。
ノラン、カズルの後も、キュイゼル・フリンスのせいで大勢の部下が死んだ。
それでも、1人1人の顔は鮮明に思い出せる。
彼らが何を望んで軍に入ったか、どう己の人生を進めていたか。
「なぁ、ユト。私は、もう分からないんだ。なんのために生きるのか。どうあがいても、終わりはみんな一緒だ。濃密に過ごそうが、軽薄に過ごそうが、結末は変わらない。帝国もどうでも良い。人生に中身なんてねぇんじゃねぇかって、最近思う」
「だから他人の仇討ちを肩代わりするんだ」
「そうだ。必死に過去を搔き消そうと強くなることだけを考えていたときは良かったよ。でもな、1年前に覚醒して、分かったようになった。私たちは、誰かの掌の上だ、意味なんてない」
「あなた、まさか民主神聖同盟に入ったりなんかしないよね?」
「馬鹿か。仮にそっちに行ったって同じことだ。空っぽなんだ、私は今」
紅茶は嫌いだ。
香りは高いのに、飲めば水っぽい、風味だけ。
それが人生のように思える。
見掛け倒しの、意味とか、生きがいとか、目的とか。
でも、それらは何の実態もない。
価値があるように装った香りばかりで、飲めば実がない。
そんな虚しい行為が、この人生というものの全てに感じる。
「やっぱり、ファズ。来るべきだ。あなたがそんなエチカみたいな難しいこと言うなんて、イカれてる。新部隊にぴったりじゃない」
ユトが自分の頭に指を差して、そう笑顔で言った。
▲▽
私は夜、眠るときにベッドを使わない。
それはあまりにも柔らかいから。
だから床にそのまま横になる。
「ちっ、今日もかよ、、、」
覚醒してからというもの、何か頭にノイズのようなものが奔る。
それはまどろみに落ちる間際に、一番大きくなる。
ウーシアの波長が、毛羽立つように、ちりりと感じる。
そういう日の夜は、思い出しくもない過去が、鮮明に、ありありと夢になる。
まるで自分が何者か、そうやって過去を思い出さなければ崩れてしまうとでもいうような防衛本能。
「あぁ、、、最悪だ、、、ユトのせいだ、、、ったく、、、」
私は夢を再生する。
いや、いずれたどり着く、いくらでも変化するものが夢だとするならば、これはなんだろう。
揺らぐことのない、確定した過去の夢想。
それは亡霊のように、実体はないのに、確かにここにある私の心を蝕む。
▲▽
「もうそろそろ1人で寝たらどうだい?」
朝、目覚めれば皺枯れた声が耳元からする。
自分の頭の下には、骨と皮だけになった、固く細い腕。
「ばあちゃん、、、腕、痺れた?」
「それはいいのさ、ただね、ばあちゃんもいつかは還るのさ、なのにいつまでもこれじゃぁね、、、」
「ばぁちゃんはまだ死なないよ!」
「ばぁちゃんは死ぬよ、モチャ」
「そんなひどいこと言わないでっ!!」
その時、横に寝るばぁちゃんは、ひどく複雑な表情を顔の皺の中に浮かべていた。
私は弱かった。その時、私は5歳だった。
ばぁちゃんが死ぬなら、私も当然一緒に死ぬんだと、そう本気で思っていた。
私はその頃、帝国最東に位置するパミドール州の北、ダカドレン州に住んでいた。
レガロ帝国はユイザール系レガーリャ人の国家。
レガーリャ人とは、仰嵐山脈のさらに東、始祖領諸国をルーツに持つユイザールと、帝国の北、真善海の向こうのリロの民との混血の子孫だ。
私は違う。
____ユイザール系モータリア人。
いわゆるモータリア民族と言われる少数民族だ。
夏は仰嵐山脈の高地で狩猟採集を主にしつつ、冬は低地に移動する、いわば季節移動型の牧畜をする民族。
ジシュアやリドネスといったリロの民を拒否し、仰嵐山脈でひっそりと暮らしていた民族だったが、私の生まれる1年前の民族同化大戦で、レガロ帝国と一体になった。もともと両者の関係は帝政開始以来微妙なものであったが、今や完全にモータリア民族は存在しないことになっている。
私の父も、同化作戦の中で帝国に殺された。
母は私が4歳の時に自死した。
『こうしてあなたを抱いていると、どうしても可愛いと思ってしまう。そう思う自分の心が、許せないの、、、母としての自分が、憎たらしくて、惨めで、、、』
その言葉だけは鮮明に覚えている。
今ならば分かる。
民族同化大戦では、少数民族は根絶やしか、己のルーツを否定して同化するか、そのどちらかしか選択肢がなかったらしい。ルーツが代を追うごとに複雑化して、国家としての一体感、求心力を失うことを、各国が根底で懸念していた。そして、それ以上の問題はウーシアだった。この力があれば、これまで差別を受けていた少数民族も、大国の脛を蹴るぐらいはできる。モータリア民族も、何故か通常の発生率に比べ適合者の排出量は多く、常に帝国が監視していた。
その恐れが、世界大戦という潮流を生み出した。
そんな中で、母は1人の女として死ぬことを選んだ。
母として生きることは、その自分の中の女がどうにも許さなかったらしい。
私と接していると、どんどんと母の部分が強くなっていく。
その女の部分が消え去る瀬戸際が、私が4歳の頃だった。
「ほら、今日も学校だろう?」
「学校、行きたくない。みんなの目が怖いの、、、私は、、悪い奴の娘だから」
「いいかい。モチャ。その美しい顔は、モチャのものだ。悪い奴のものではないんだよ。だから大丈夫なんだ」
「大丈夫じゃない!!私は、、、私は、、、ばぁちゃんと二人でいい!他の人なんて誰もいらないっ!」
「モチャ。1人だけでは、優しい人になることはできないんだよ。ばあちゃんに優しくしてくれるように、お友達にも優しくしてあげなさい。ばあちゃんは、優しいモチャが好きだ」
そんな言い合いは毎日のようにあった。
モータリア民族に対して帝国が行った同化作戦は、族長一族の抹殺と、移動の禁止、農場への従事、ジシュア新派への強制改宗、子どもに対する教化のための学校設立だった。
「うぇぇ!野良猫が来た!きったねぇ!」
「また餌もらいに来たぞ」
「殺せ殺せ!!」
私が登校時間ぎりぎりに学校に着くと、男の子たちが私の髪を引っ張り、腹やら頭を蹴る。
私は小さい拳を強く握るが、ばぁちゃんの言葉を思い出す。
___優しいモチャが好きだ
そして、ばぁちゃんがくれた、鹿の角で出来た髪飾りに触れる。
「ごめんなさい、、、ごめんなさい、、、っ!!」
蹲りながら、ただ帝国軍の教官が来るのをひたすらに待つ。
その数分が1日よりも長く感じる。
「おい!席につけ!!」
教官の声に、男の子たちはびくりと体を震わせる。
彼らにとっては教官は恐怖の対象であったが、私には救いだった。
___野良猫。
それが私のあだ名だった。
モータリア人にはない、レガーリャ人の特徴。
小さい顎、細く高い鼻、つり上がって大きな目。
外国の人間には判別つかないほどの微々たる違いだが、モータリア人には分かる。
それは不明の父から色濃く受け継いだ、簒奪者の血が成形したもの。
微妙な違いというのは、時に大きな違いよりも目につくものだ。
言語の発音もそう。
レガーリャ人が使用する言語と、モータリア人のそれはほとんど変わらない。
一部単語によっては変わるものもあるが、
「違う!!そうじゃない!!何度言えばわかる!?お前も帝国の逆賊として殺されたいか!?」
教官が厳しく叱り、立って文章を読む級友の頬を叩く。級友はがたりと椅子とともに転げるが、すぐに立ちあがりまた読む。そしてまた叩かれる。
帝国臣民としての、正しく、美しい発音。
それを学校では徹底的に教育される。
当時は帝国内でも、上流階級が使う発音と、一般臣民の発音の違いすら許さない雰囲気があったらしいと、後になって知った。享楽放送では、子ども向け、大人向け、それぞれ上流階級の使う正しい発音というものが啓蒙されていた。ならば、他民族の「方言」など、なおのこと許されない。
私も祖母が身近にいたことから、強い訛りに苦戦していた。
だが、
「家できちんと練習してくるように」
私に対する叱責はそれだけだった。
その時の周囲の殺意に近い目。
なぜ、こいつは殴られないのか。
そういう非難を孕んだ視線に、私は足元から崩れ落ちそうになる。
だけど、悪いのが彼らの方だとは全く思えなかった。
彼らの父を母を、親族を殺し、生活を奪った奴らの仲間。
それが私だ。
私だってそんな奴がいたら、彼らと同じような態度をしていただろう。
私のせいで、母は死んだ。
私が生まれなければ、何も問題がなかった。
それに、血だけじゃない。
自分には、彼らに言い返す度胸もない。
頭も良くなければ、見た目も。寂しがり屋で、泣き虫。
だから、父の件がなくても、私は皆を不快にさせていたのかもしれない。
全部、全部、全部、この汚れて弱い、自分のせいだった。
▲▽
「モチャ・ファズ。君は来年になったら、パミドール州のテストンの学校に行きなさい」
学校が終わった後、教官に呼び出された私はそう言われた。
「な、、、なんでですか?」
「このままここにいたら、君は下種な下等民族たちに殺されてしまう」
「ち、、、違います!あれは、私が、、、私が、、、どんくさくて、ぶさいくだから、だから、、、悪いのは私です!」
「ふぅ、、、半分とはいえ、君にはレガーリャ人の血が流れている。同志をこのままにしておくわけにはいかない」
「でも、ばぁちゃんは、、、ばぁちゃんと一緒に行けますか?」
その私の言葉に、教官は興味がなさそうに軽く頭を振って、
「行くのは君だけだ、当たり前だろう」
そう言った。
▲▽
私はその日、家にまっすぐ帰らなかった。
教官の言葉が決定事項であることは、5歳の私にも分かった。
もうどうしようもない。
私は1人で、見知らぬ地に行き、知らない人の中に入っていかなければならない。。
それは、ここで級友たちの暴力を受けることより嫌だった。
___人が、いないところに行きたかった。
そうすれば、私の存在を不快に思う人もいない。
殴ったり、蹴ったりする人も。
そして、そういう人に怒りを覚える自分にも会わなくていい。
優しくない自分、大好きなばぁちゃんが望まない、醜い自分が出てこなくて済む。
そのばぁちゃんもいなければ、別れの悲しみもない。
母を殺してしまった自分の罪も、知らない。
自分の心にある感情、全てを捨て去りたかった。
何も考えないためには、誰もいないところに行かないといけない。
「はぁ、、、はぁ、、、」
私たち民族は、山から強制的に降ろされ、麓に定住させられた。
その山に、私は1人で登る。
以前モータリア民族が住んでいた区域への山道、その入り口はばぁちゃんに教えてもらっていた。
たまに麓に降りるために使っていたらしい山道も、5年も経てばただの狐狸の道。
すぐに分からなくなる。
「怖い、、、怖いよ、、、ばぁちゃん、、、ママ、、、」
どれくらいの時間が経っただろう。
私はすぐに遭難した。
空はすでに暗くなり、山は人に暗く、厳しい面を見せ始める。
鳥の声、葉がこすれ合う音が、小さく醜い私を笑う。
「助けて、、、助けて、、、」
1人になりたかったのに、いざそうなれば、助けを求める。
本当にどうしようもない自分。
そんな私を見かねたのか、聞いたことのない幼い少女の声が響く。
目の前には、1頭の鹿がいた。
それが、口を開かずにこちらに話しかけている。
『ねぇ、おネェちゃん。抱きしめるのと、縛り上げるのは同じだよ。抱きしめると、心が動かなくなる。縛り上げると、身体が動かなくなる。それだけの違い。だからね、触らないようにしよう。その代わり、しっかり相手のことを見るんだよ。全ては外に発散するの。いつも私たちは外にいて、そうして見るだけなんだ。それで十分なんだよ?』
「ひっ、、、いや、、、来ないで!!」
だが、その鹿はそこから一歩も動かなかった。
私は震える脚をなんとか回して、行く先も分からず駆けだした。
▲▽
不思議なことに、無暗やたらに走っていたのに、いつの間にか入山した場所にそのまま出ていた。
5歳児の徒歩、それもすぐに迷ったから、そんなに山の深くには入っていなかったらしい。
私は先ほどの鹿の存在を、恐れゆえの夢だと思い込んで、家路につく。
「ばぁちゃん、、、ごめんなさい、、、、、、ばぁちゃん?」
今が何時か分からなかった。
それでも、帝国に与えられたそのあばら屋では、いつもばぁちゃんが電気をつけて待っていた。
以前の暮らしでは電気なんてなかったため、ばぁちゃんはよく、
「これじゃぁ、起きる時間も、寝る時間も分からなくなって嫌だね」
と、電気を嫌っていた。
でも、私が暗いのを怖がったから。母が死んでいたのは、夜だった。それを見つけたのは私だった。
だから、私が寝るまで待って、それからこっそり消してくれていた。
でも、今は真っ暗だった。
「ばぁ、、、ちゃん、、、?」
私が電気のスイッチを付けたときだった。
食卓のテーブルに突っ伏すように、ばぁちゃんが眠っていた。
そして、その背中からは血が流れ、床に血だまりを作っていた。
「いやぁああああああああああああああああああああああああああ!!ばぁちゃん!!ばぁちゃんっ!!!!!!!!!!!!」
▲▽
ばぁちゃんはよく、外に出て空を見ていた。
それは、仰嵐山脈で生活していたときの習慣だろう。
もうすぐ雨が降るとか、雪が降るとか、その予言はいつも当たった。
「どうやったら、ばぁちゃんみたいに天気が分かるの?」
と、私が聞くと、
「毎日お空を見て、歳を取れば分かるよ」
と、言った。
「えぇ、、、今できるようになりたい」
「それは難しい話だね」
「私、、、何も、、、できないから、、、」
私はばぁちゃんの、固い太ももの骨に頭を乗せて見上げる。
「でもな、若いときはな、空を見ちゃいかん」
「なんで?」
「どうしようもない、と思ってしまうからね。お空は遠いし、月も手に納まらん。雲は風に流れるだけで、雨は空に戻らん。どうしようもないことばかりだ」
「だって、でも、どうしようもないことばっかりだよ。ここも」
「すまんなぁ、小さいのにそんなことを思わせてしまって。でもな、、、」
ばぁちゃんは自分の膝の上、私の長い髪をくしゃくしゃと揉んで、
「そんな硬い頭じゃいかんよ。どうしようもないなんてことは、歳を取ってから思うことだ。頭は柔らかく。いいか、木で土を掘ることはできない、でも、若い芽は固い地面を割って空に向かうだろ?若いうちは、なんでもできる。どうしようもないことも、どうにかなる。そういう力があるんだ。柔らかく、柔らかく、だ」
ばぁちゃんはそうやって揉み解すように、私の頭を撫でた。
そして、髪につけた鹿の角の髪飾りに触れる。
「一度固くなったら、削るのも大変だ。だから、柔らかく、柔らかく、だ」
私はその髪飾りが、ばぁちゃんの固い骨がくれる安心感に似て、好きだった。
いつか、自分が大人になって、どうしようもなく硬くなってしまったとしても、ばぁちゃんのようになれるなら、それもいいと思った。
「なんでも、、、できる、、、なんでも」
次の日だった。
いつものように、登校してすぐの私を袋叩きにする級友たち。
「汚ったねぇ」
「なんでこいつ血だらけなんだよ」
「学校に来る前にも殴られたんじゃねぇ?」
私は降る痛みのなか、拳を握る。
___優しいモチャが好きだ
その言葉に、握った拳が一瞬緩む。
いや、そもそも怒りが湧いてこない。
だって、もう私は1人だ。
大切な人なんて1人もいない。
ばぁちゃんはもう腕枕をしてくれない。
1人なんだから、何も感じない。
レガーリャも、モータリアもない。
誰かを憎むことも、他人と比べて自分が汚いとも、思わない。
優しくなる必要もなければ、優しくなることもできない。
この世界には、私だけ。
だから大事なものなんて、1つもない。
「どけて____」
私はそう言って、男の子たちを押しのけて立つ。
その時、大事だった鹿の髪飾りが地面に落ちる。
____大事、、、だったもの。
私はそれを自分の足で踏みつけた。
何かをとりわけ大切だと思うのは、大切じゃないものがこの世にたくさんあるから。
大切な人がいるのは、大切じゃない人がいるから。
でも、ここには私が1人。
大切なものも、大切じゃないものも、ない。
少し力を加えれば、ばきり、と音を鳴らして、それは簡単に砕けた。
硬いはずなのに、いとも簡単に___壊れた。
ばぁちゃんも。
それなら、どうしようもなく固まったこの世界も、簡単にばきりと割れるはずだった。
____世界に亀裂が入る。
『いつも私たちは外にいて、そうして見るだけなんだ。それで十分なんだよ?』
確かにそうだ。
突然反抗して立ち上がり、髪飾りを踏みつけた私に、彼らは怯えている。
私には、怯えなんてものはもうない。
なんだ、本当に見るだけだ。
それだけで、彼らの考えていることが分かる。
「__________しっ!!」
私は駆けた。
ウーシアの波長を感じて。
▲▽
「これは、、、」
教官が、まるでタイミングを見計らったように、全てが終わった教室の惨状を確認して言う。
私はその表情をじっと見た。
____あぁ、それは喜びだ。
「モチャ・ファズ。これは君が?」
「はい」
「これまでの復讐か?」
「いえ、私はこれらを嫌っていません。ただ、邪魔だっただけです」
「そうか。良い発音だ」
そうして私はレガロ帝国陸軍に入隊することになった。




