第1章 聖ジェファールズ豪華客船事件 第29話 戦場
プールの水面が、それこそウーシアの輝きのように青く、透明に発光する。
かの月が海に落ちたような、圧倒的な光量。
怒涛となったウーシアの波長に、
「クヘルス二等兵!構えろ!」
エチカが叫ぶ。
その瞬間に津波となったそれが二人を影にして襲った。
弾け飛ぶような衝撃に耐えることができず、エチカは前後不覚になって壁に叩きつけられる。
それは純粋な第二反発、そしてアイリスが体感したというそれ。
エチカは血の混ざった唾を吐き出し、軋む膝を何とか伸ばす。
骨か内臓か、どこかが壊れているが、戦闘に支障はまだ感じない程度だった。
「何が出るんだ」
エチカの言葉が契機となったように、白くうねる水面から女がゆっくりと浮上する。
「ああ、これはそういう悲劇なのかね、あまり好みではないなぁ」
クヘルスが瞼を落として呟く。
エチカもまた、それに首肯せざるを得ない。
水が滴る女の顔は、焼け爛れたように皮膚が溶け、瞳も白濁している。
そして先ほどの膨大なウーシアの波長は引き潮に攫われたようにまるで感じない。
まるで湖の亡者。
___亡霊。
エチカは鉄槍を構えるが、クヘルスが近くに転移してきてそれを手で制する。
「誰も無色な人生を歩めないのは、不幸としか言いようがないですな。復讐だの、誇りだの、責任だの、何かと理由を付けて争いたがるのは、そりゃぁ幸福なぞ、人の身に余るというもの」
クヘルスは腰を低くして鉄槍を構える。
事前に聞いていたクヘルスの戦闘技術として、二本の鉄剣の使用というものがあった。だが、今、彼がその手に持っているのは鉄槍だ。
低く、低く、関節の柔軟な豹のような力のこもった姿勢で。
「エチカ少佐、兵士の命がどこにあるか知っていますかね?」
それは乗船前、クヘルスがクーニアに問うた言葉だ。
『自分のここか?それとも上官の頭の中か?それとも皇帝の掌か?
あるいはこの大地か?』
命がどこにあるか。
そんなことは考えたことがなかった。
いつも、この命と人の命、壊すか救うか、その二択ばかりだった。
「あの時は、知らないから恐れているなんて言いましたがね、本当は私の命の居場所なんて、はなから私はよく知っているんですよ」
その答えと、彼が今、エチカを押しのけて後方ではなく前線に出ようとしていることは、何か繋がりがあるのだろうと思った。
「エチカ少佐、私は常々、死んだら海葬が良いと思っていたのですよ、まさに絶好絶好」
「帝国では認められていませんよ」
「死んだ後のことすら自由にならないのかい、全く、嫌になっちまうね。寝返ってしまおうかしら」
クヘルスが一段と腰を低くし、もうほとんど地面と一体になったとき、その姿が瞬時に消えた。
「隙ぐらい作らせてもらいますよ。野辺送りは任せました、少佐」
▲▽
齢を重ねると、人生そのものが殆ど走馬灯のようだ。
記憶は連続したものではなく、飛び石を渡るように、点綴する。
そうであるからこそ、今、自分が思い返しているのは、死に瀕して見る走馬灯と言うより、走馬灯になった己の記憶が、死を呼び寄せていると言ってもいいのかもしれない。集中しているとも言えるだろう。
亡霊からはウーシアの波を感じない。
それはすなわち、闇の中で戦うようなもの。
早速手痛い手刀を肩にくらい、水面を跳ねる。
いつの間に近づいて来たのか、それすら分からない。
かろうじて首への直撃を避けれただけでも幸甚だ。
鉄槍の転移を試みるが、酒を求めて震える手と同じように、戦慄くだけ。
第一反発。
その震えは、まさに青春以来の初々しい体験だ。
気持ち良いようにも、不気味に恐ろしいようにも、体が自分のものでないような感覚。
『兵士さんなんて、止めてくださいませ』
亡霊の姿を追うにも手がかりがない。
気づいたときには、体に殴打の衝撃が来る。
瞬間の受け身を取ることくらいしかできない。
すでに左腕は先ほどの肩への攻撃で動かない。
だが、適合者の戦闘において、腕などそれほど重要ではないのだ。
とにかく動き続ける、それが最適解であると理解し、転移を繰り返す。
連続転移なんて離れ業はついぞ習得できなかったが、ウーシアの促成度には自負がある。躱せる。
亡霊の出現と、こちらの転移の成立が同時に起こらなければそれで良い。
だがそれは、2つの数字の倍数がどこかで重なるように、いずれ訪れる。
『どうか、そんなことは他所の人に任せてください。あなた様は私の傍にいてくださればいいのです』
甘い言葉は老体にはちと厳しい。
すぐにでも体を横たえたくなる欲求に駆られてしまう。
徐々に、亡霊がこちらの転移の感覚を掴み始める。
それは動物的な嗅覚で。
だが、それはこちらも同様。
「戦場に身を置くことこそ、愛する人を繋ぎとめる術だと、うら若い少女にはまだ分からないだろうねぇ!!」
狙ったタイミングは同時。
だが、亡霊の手刀は空振りとなる。
身体をほとんど二つに折るように、膝に頭を付けるようにして、亡霊の視界から消える。
そして、腕を振り切った亡霊のがら空きになった背中に、鉄槍を思い切り、今度は体を反対に反らすように振り被って、刺す。
「____ウ___ウァ_____ギ_____」
悲鳴とも捉えられる亡霊の耳障りな音。
「勤続四十余年、怠惰に過ごしてきたとはいえ、それはそれで価値があるだろう?」
再度、体を深く折りたたむ。
「まだ、ウーシア兵器は扱えないみたいだねぇ。それも時間の問題かな」
亡霊の傷からは血が流れ続けているが、動きが、攻撃が、止まるような素振りはない。
願ったり叶ったりだ。
なぜなら、それでこそ、それだけが、私があの人からの愛を感じられる術なのだから。




