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第1章 聖ジェファールズ豪華客船事件 第26話 天命

「逃げろ、逃げろ、どこまでも」


その声は愛しい存在に子守歌を囁くように、メロディーと重なって強く心に錨を下ろす。あたかも、弱弱しいこの命の全てを預けなさいと言われているような、あるいは四肢を投げ出して身を委ねたくなるような、そんな父性の伴った声。

わたしは震える声でなんとか旋律を紡ぎ、その声を必死に支える。


(ちゃんと歌わないと、、、イヤだ、、、わたしはああなりたくない!)


そう思えば思うほど、声は不安定になり、どんどんか細くなっていく。

それでもわたしが折れる訳にはいかない。

この手に握る弟の震えがいつか止まるまで。


「逃げろ、逃げろ、どこまでも」


リフレインするその優雅な声に反して、どこかで鳩を絞め殺したような男の子の叫び声がする。


「イヤァ!!!!」

「殺さないで殺さないで殺さないで」

「パパ!!ママ!!助けて!助けて!!」

「ア、、、、、、アッ、、、、、、」


何があっても、絶対に声を途切れさせてはいけない。

母音を引き延ばしたような、音程だけを取った歌を、わたしは歌い続ける。


「逃げ続ければいい、それが行軍と見分けがつかなくなるまで」


歌を歌うのは好きだった。

帝国を賛美するものでも、自然を敬うものでも。

ママが良く褒めてくれた。

わたしが歌えば、パパもママも、弟も、おじいちゃんも、みんなが笑顔になった。

叫び声は、休止符のように旋律に緩急をつける。

また1人、また1人と、命が簡単に潰されていく。


「ア___ッ、、、ああ!」


弟が、足元に転がってきた自分と同じくらいの年の子の頭部を見て声を漏らす。

その目は虚を見つめ、大きく見開かれている。

まるで椿の花がぽとりと地に落ちるように。

先ほどまで生きていたとは思えない、地を這うネズミのような皮膚の色と、鮮血の赤。

そこはこの豪華客船のダンスホールであると説明された、広く円形上の空間。

客船に乗ってからというもの、船員がいろいろな場所を案内してくれた。

これから始まる航海と楽しい記憶の予兆に、心が躍っている最中だった。

子供たちが輪になった中心に、その少年はいた。

恐ろしい夕暮れのような紫がかった髪に、紫の瞳。

このホールで踊っているのは彼ひとり。

その瞳が、ぎろりと自分たちの方に向いた。


「、、、いやっ、、、、、、、、、」


わたしは、愚かにも旋律を紡ぐのを止め、喉が詰まったような叫び声をあげてしまった。それでも弟の手は離さない。

だが、その少年は冷徹な指揮者のように、たった1人の奏者の綻びを見逃さなかった。


「おやぁ?汚らわしい不貞の民の子供よ、どうして俺の言うことが聞けない?」


赤々とした唇を光らせて、その年の近いような少年が近づいてくる。

そして開ききった瞳孔で弟の瞳を覗く。


「____人は神の前にすでにあった。だが、神は生まれなかった」


口伝使くでんし様が、月の終わりの掛罪会かけつみかいでジシュア様の旅路を伝えるように、厳かに響く。

少年が、弟の髪を無造作につかんで持ち上げ、わたしの手から離れる。


「い、いやだぁ!!、、、痛い、、、、死にたくない、、、お姉ちゃん!お姉ちゃん!!」


「イエゼ!!お願い!離して!!わたしが、わたしが悪いの!!」


少年は弟の叫び声も涙も見えていないように話し続けた。

わたしは少年の足元に縋り付きながら、言葉にもならない言葉で手を弟に伸ばす。

だが、そんな音楽を妨げる呻きは少年の耳に入らない。

むしろかき消すように、言葉を大きくする。


「六人の女が同時に懐胎したが、1人としてその腹から産声を聞かせる者はなかった。皆は不思議に思ったが、彼女らは口を揃えて言った。私の子供はそこに居ます、と。そして、己の子はこの世の神だと言った。六人の母は、自分がその神を生み、そしてその子が私を生んだのだと、周囲に言った。その子供はアンテと名付けられた。母は、デボラ・バーバラ・マノン・リュボフ・グレタ・シャルロタと呼ばれた。見えぬアンテはどこにでもいた。デボラが家の庭で遊んでいると言えば、シャルロタは木陰に隠れて寝ているとも言った。そして、アンテは何も食べず、それでも順調に成長していると母たちは主張した。アンテが生まれて10年が経った頃、リロの民が住まう島にこの世ならざる生物が押し寄せ、人間を食った。その時、今度は12人の女が同時に懐胎した。そして懐胎すると同時に、その内11人の母はひと月に1人ずつ子供を産んだ。それは11か月続いた。その121人の子供は1日が1年であるかのように尋常ならざる成長をし、異形の怪物を島から追い払った。残りの1人は12か月目に23人を生んだ。その最後の母はスズキヤと呼ばれた。スズキヤは魚のような尾の生えた巨竜から12日間逃げ回って、12日間犯された。スズキヤは子供を産んですぐに死んだ。そして23人の子供は散り散りになった。その子供たちは普通の子と同じように、それぞれ違う場所で育った。子供たちの名は、ジシュア・クミフラ・カチュウ・ジェファールズ・タボリ・シダサン・イチャギ・スキウド・リドネス・フォラリス・コンゼキ・ヤガン・カミバラトーナ・アルネンテン・エジクス・コヨグカンタ・サプレンダ・ヨネクク・イルツミ・テミナル・フギダイ・ムジャーナ・レシオネと呼ばれた」


わたしは膝を折って懇願したまま、その話を傾聴でもするように跪く。

目の前の存在は、確実に弟を殺すだろう。

弟の髪が、ぎちぎちと引きちぎられる音がするが、悲鳴はない。とうに気絶してしまったのか。

せめて、弟の死ぬところは見たくない。

わたしが先に、、、わたしが、、、。


「ジシュアなどという奸夫かんぷを崇めるユイザール人ども、お前らに我らハルム人の、そしてフォラリス様の、兄と大地に裏切られた者の苦難が分かるか?」


そこで初めて、その少年がフォラリス神聖国の人だということがわたしにも分かった。パパとママからは、その国の人たちとは関わってはいけないと言われていた。

我らの父であるジシュア様と、母であるシャセール様を殺したフォラリスを神としている、ユイザール人の仇敵。

そして、民族同化大戦で帝国の土地を奪っていった者たち。


「分からない、、、分からない、、、そんな昔の話!!」


わたしは震える膝でなんとか立って、少年の顔に拳を向けた。

だが、その拳が届くよりも前、少年は涎を垂らすように唸りながら、わたしの腹を蹴った。


「あっぐぅ、、、、、、、、、、、、、」


後方に吹き飛んで、ダンスホールの壁に背中を打ちつける。

目に光が飛び、一瞬自分がどこにいるか分からなくなる。


「我らが聖地、桎梏山脈の碑にはこう書かれている___


【雪解けが、穢れを雪ぎ、罪を露にする。我が兄の罪はここで朝霧となり、雨となり、また雪となる。我が子、ハルムの子孫はここでそれを見届けよ。二度と同じことが繰り返されぬように】


___お前らは、罪を引き継ぐとかいう意味の分からないことを言っている。罪は身から雪ぎ、納め、それが二度と己に戻らぬよう管理すべきものだ。そうして我らハルム人は兄殺しの罪から解放されている」


少年は、血に濡れた小さなナイフを僅かな光に照らす。

何人の子供たちがもう死んだのか、わたしには分からない。


「だが、お前らの理に沿うのであるならば、お前の身にも罪は引き継がれている。ジシュアが他の兄弟、姉妹たちを皆殺しにし、その子孫は我らハルム人を奴隷のように扱い、連邦制下でも人権など与えられず、そして帝国は我らの誇りであり民族結集の象徴でもあられたヌオラ様を殺した!!」


その怒りは、わたしには到底、分からないものだった。

その話のどれも、自分たちがまだ生まれていない時代の話だ。

それにも関わらず、この少年は心の底から怒りに支配されている。

わたしは痛む腹と背中に体を潰されそうになりながら、ゆっくりと立ち上がる。


「ああ、ああ、そうだ、そうしよう。可哀そうな同胞と同じ苦痛をお前に味合わせてやろうか?」


歌は、続いている。

他の子供たちが歌い継いでいる。

少年は、まるで地平線が歪んだかのような悪辣な笑みでこう言った。


「この弟をお前が殺したら、そうだな、お前だけは助けてやろう」


その言葉を裏付けるように、幾人もの子供を殺したそのナイフをこちらに滑らせる。

分かっている。

わたしを生かすつもりなんて全くないことなど。

どうせ死ぬなら、どうせ無残に殺されるなら、わたしは最後に夢を叶えたい。

間近に迫った死は恐怖を超えて、むしろ僅かな期限を生きることの方へ目が向いた。


「さぁ、その罪を、お前は誰に引き継ぐ?」


わたしはナイフを拾い、立ち上がる。

そして、少年が髪を引っ張って持ち上げている弟を見る。

ナイフは血に濡れて、手から滑りそうになる。

震える手で、その感触を確かにしようとしたときだった。

何か、、、これは、、、そう、、、波のようなものを感じる。

船が揺れている?

違う、、、これは、、、なんだろう、、、。

わたしがナイフに目を落としたのを少年が見たときだった。

彼は耳に手をあて、


「、、、、、、どうした、、、なに?こっちに向かってる?なぜ、、、、、、たどり着かせるな!まだ儀式は未完了だぞ、、、」


少年は困惑したように何かを話している。

だが、そんなことは考えの外だった。

波が、どんどん強くなる。

心地良いような、酩酊するような、不可思議な感覚。


___わたしの夢、、、わたしの夢、、、。

___いつかテレビジョンで見た映画。


『cLanczell』


生まれた島が戦禍で破壊される中、悲しみと怒り、絶望の最中でウーシアへの力に目覚めた少年たち。彼らは帝国の兵士となって、国に身を捧げることになる。そして、クランツェルで1人の天才と出会い、過酷な戦いの中、勝利を掴む。

子供たちはみな、その物語に夢中になった。

わたしも例外に漏れず、心を熱くした。

なぜ彼に惹かれたのか。


『絶望なんてものは、死ねば無限に手に入る。それなのに、お前に今、それが必要か?』


貴族の娘として不自由ない自分の生活。

幸福な毎日。

でも、それなのに、満たされない気持ちがしていたときに見たのだ。

薄く、引き延ばされた、味のしない絶望。

本当に輝くような、生と死を。


『命は道具だ。それも、己にとって最も都合の良い、な』


そうだ。

この命をどう使うか。

それはわたしに与えられた最大のお遊びだ。

今も、本当は、こんな境遇にわたしは感謝しているんじゃないだろうか。

弟が殺されそうになって、ひどく怖がって、怯えて、悲しい。

でも、、、それでも、、、。

興奮が、波に乗る。

分かる。

これが、ウーシアの波長___。



____駒が、少しだけ足りないの。



その声は、ひどくか弱い女性のようだった。



      ____私の味方でない世界なんかいらない。



か弱いのに、ひどく陰鬱な。



____あなたは私の味方になってくれるよね?

       ____ねぇ、あなたなら簡単にできるでしょう?

____私が傍にいてあげるんだから

     ____退屈だったんでしょう?

____弟を助けるって、素晴らしい大義じゃない

          ___役割があることは幸せでしょう?

___エチカのように、私を守って?

        ____あの人のことが見えなくて、つらいの



____さぁ、私の世界を邪魔する者を、ゼンブゼンブ




殺して。

※口伝使

ジシュア新派における牧師のような存在。ジシュア新派には聖典がなく、すべて口語でジシュア一行の偉業が口伝使を通して伝えられている。ジシュア派の宗教では基本的に文字の執筆は忌避されるべき行為とされ、それに類する行為は全て寡婦のみが行うことになっている。

近年、情報端末の普及により、端末への文字の入力作業の是非については、信者によって意見が分かれているところである。


※掛罪会

月末に行うべきとされるジシュア新派の宗教儀式。その月の自らの行いを皆に報告し、その罪を共有することが目的とされる。また、口伝使よりその報告に沿ったジシュア一行の言葉が与えられる。かつては村や地域単位で大々的に開催されていたが、最近では家族内で小規模に行うことが増えている。

会の起源としては、ジシュアたちがリロの島からユイセル大陸に到達後、各地に散った一行をジシュアが月に1人づつ順番に訪れて話を聞いていた、とされることによる。

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