第1章 聖ジェファールズ豪華客船事件 第16話 絶望
意識の断絶は、恐怖だけを引きずって連れてきた。
豪奢なシャンデリア、夥しいほどの華やかな人々。
その光景は、先ほどまでの恐ろしい異形の影などなく、平和と活気に満ちていて、絶望が入る隙間などなかった。
それは、今のクランの居場所すらないほどに、光に満ちていた。
パーティ会場の喧騒が、ようやく開いた耳に音として入ってきたとき、
「ア、、、、、、、、ア、、、、、、、ア、、、、、、、、、、、、、、、うわぁああああああああ」
突如として隣で叫ぶクランの様子に、エチカが驚く。
ただ、その顔を見る間もなく、クランはそのパーティ会場から駆け出した。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。
ただ、とにかく遠くへ。
船外に逃げることなども頭になく、ただ逃避の形を取っている自分に砂粒ほどの安心を得てひたすら駆ける。
もう何もかもどうでもよかった。
アレと敵対するぐらいなら、任務も矜持も、ファズ中尉も、エチカ少佐も、そしてノランとの約束も、全て些末なことに思えた。
何と誹られても、後ろ指を指されようとも、恐怖が体を支配してどうにもならない。
アレの恐ろしさは、やはり適合者にしか分からないのだ。
人間が、巨大な海洋生物に海中で手も足も出ないように、アレに比べたら、己のウーシア適合など溺れているとしか思えない程度の遊泳だ。海中を自在に泳げる生物に敵うはずもない。
ひたすらに駆けると、目の前に重く豪奢な両開きの扉が飛び込んできた。
クランは迷わずそこに飛び込む。
中は何も見えないほどひどく暗かった。だが、目が慣れてくると思ったよりも広大で、奥に行くにつれて深くなっていく、そこはオペラ劇場のようであった。
席は3階まであり、ここが船の中だということを忘れてしまいそうなほどの空間。
クランはゆっくりと通路を降りていきながら、最前列までたどり着く。
「もう、イヤ、、、、、、イヤ、、、、、、、、」
そして、クランは舞台の手前、壁を乗り越えオーケストラピットの中に入り、身を縮こまらせる。まるで冬眠にでも入るように、小さく、小さく。
神の子供でも身ごもったように、自分の腹が黄金に輝きつつ胎動するのを見ながら、そのゆっくりな点滅が、彼女の意識を徐々に刈り取っていく。
恐怖が、恐れが、悲観が、無念が、その光から血液のように循環していく。
自分には何もできない、何も成せない、力がない、そう突き付けられるように、体の力が抜けていく。
クランの意識が途切れる。
壮大なホール、その暗黒の中で、黄金の微々たる光だけが、蛍のそれのようにほの明るく光っている。
▲▽
『それ、頂戴よ』
誰かの声がする。
『使わないなら、それ頂戴』
私には何も、あげられるものなどない。
何も、持っていない。
『持ってるでしょ。私が欲しくて欲しくて、喉から手が出るほど、たまらないもの』
そんな人が望むものなど、本当にないんだ。
人が捨てたいと思うものばかり、この身にはある。
恐怖、過去、トラウマ、自負心、後悔、卑下、恋情。
『なんで、神様はお姉ちゃんを選んだの?こんなに憶病で、誰の役にも立たないのに』
お姉ちゃん?
その声は、確かにお姉ちゃんと言った。
『全部、お姉ちゃんのせいなんだよ。お姉ちゃんがあの時、ちゃんと殺さなかったから、みんなここで死ぬんだ、ファズ中尉も、クヘルス二等兵も、みんな、みんな、エチカ少佐も』
ノラン?
ノランなの?
あなたは、、、。
『私だって、あの時、お姉ちゃんがちゃんと戦っていれば、死ななかった。お姉ちゃんに殺されたようなものだよ』
そんなこと、言われなくても分かってる。
分かってるのだ。
私が、妹を殺した。
そして、あの事件は、まだこうして私の影を追ってきている。
次は、妹以外の人も、失う。
『だから、それ頂戴よ。私なら、お姉ちゃんみたいにこんなところで震えて隠れてなんかいない。双子なんだから、どっちが持っていても変わらないでしょう?』
そうか、ノランが欲しいのはこれか。
家宝の大太刀、そしてそれが指し示すのは、適合者としての自分の才能。
『こ、、、これは、、、駄目、、、』
その言葉は、自分から出たようだった。
でも、なぜ駄目なんだろう。
初めてこの太刀を見た時から、どこか心が惹かれていた。
『どの口が駄目って言ってるの?それは何のためにあるの?』
ノランの言う通りだ。
これは闘う者のためにあるものだ。
逃げて、震えながら隠れる者が拠り所を探して抱きしめるためにあるものではない。
さっさとノランにあげてしまえばいいのだ。
そうすれば、こんな恐怖に立ち向かう必要も、あるいは逃げる罪悪感も必要なくなる。
それでも、何故か、これだけは渡せない気がした。
『それは何?自尊心?効用感?何を守っているの?』
分からない。
自分は特別だというちっぽけな誇りが、この手を離させないのだろうか。
そうだとしたら、自分はあまりにもみじめだ。
『ねぇ、恥を晒して、逃げて、隠れて、眠って。本当にどうしようもないお姉ちゃんだね』
言う通りだ。
でも、どうしようもないんだ。どうしようも。
『あの時も、どうしようもないって、そう言ってたんでしょう?心の中で』
ノランの言葉が、腹をえぐるように痛む。
言葉が、クランを抱くように、それでいて締め付けるように、体の上を蠢く。
『ああ、分かった!その太刀でさ、もう自分の喉でも刺しちゃえばいいよ。お母様とお揃いみたいに、そのためにまだそれを持ってるんでしょう?そして私に頂戴?』
やっぱり、ノランは私のことを恨んでいたのだ。
その言葉はきっと、彼女がどこか心の底で持っていた本音だ。
私だって、本当はこんなものいらなかった。
ノランになって、お母様に愛されて、それであなたを守って死ぬ方がよっぽどよかった。
『死ぬなら早くしてね、ほら、聞こえる?もうすぐそこまで来てるよ、お姉ちゃん』
来てる?
来てるって何が?
『頑張ってね、お姉ちゃん。私、見てるから。お姉ちゃんが苦しんで苦しんで、自分の罪を知るその姿を。ああ、楽しみだなぁ』
その声を最後に、ノランの気配は消えた。
夢だったのか、現実だったのか分からない。
クランは暗闇の中、上が空いた箱舟のようなオーケストラピットに体を横たえていた。
どのくらいの時間が経ったのか、その漆黒のホールでは分からない。
ここから出るタイミングも分からなければ、自分の逃避の結果を見ることも怖い。
クランは再度、その目を瞑ろうとしたときだった。
『、、、、、、平和、、、、、を希求する、、、、、、平和を、、、、』
『、、、、、、平和、、、、、平和、、、、、、平和を、、、、』
『平和だけが、、、それだけが、、、、いずれ、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、希求、、、、、、解放を、、、、、、』
『平和を、、、、、、もう一度、、、、、あなたに会うために、、、、、、』
無限とも思える赤い瞳が、ピットの壁を囲むようにこちらを覗きこんでいた。
それはまるで、夜空の天蓋に瞳だけが増殖して茂ったように、クランには見えた。
捕食者が逃げ込んだ獲物に群がるように、その目はどんどんと増えていく。
「イ、、、、、、いや、、、、、、、、、、イヤぁぁぁぁぁぁ!!!」
クランはそのあまりにもおぞましい光景に、安全を確かめる間もなく、後方の舞台に転移する。
「う、嘘、、、嘘、、、、でしょ、、、、、、、」
オペラ劇場の舞台から、ホールを見渡す。
そこにも、目、目、目、目、目、め、めめめめめめめめめめめめ。
まるでこれから始まる舞台を観覧するように、三階席の方まで赤い瞳がうごめいている。
数百、千にも及ぶその瞳が、転移の波長を感じたのか、一斉にクランの方に向いて固まった。心停止したような固まったウーシアの波長が一気にホールに満ちて、クランは酩酊したようになる。
胃液が喉を押して吐き出される。
「う、ウェ、、、、、ウェぇ、、、、、、、ご、、、、、、、ごめん、、、、、、ごめんなさ、、、、、、、、、、、、」
クランの発した音が彼らの耳に届く前に、影が一斉にクランの方に押し寄せた。
刈られる側の立場を理解しなかったクランの動揺を責め立てるように。
「や、ヤダ!!!来ないでぇぇぇっぇぇっぇ!!」
クランは無我夢中で転移を繰り返す。
だが、無数の奴らがいるホール内で、その転移は無謀であった。
転移先には、必ず奴らがいる。
つまりは第一反発も、第二反発も起こる。
転移の度、クランはあらぬ方向に吹き飛ばされ、ホールの頑丈で厚い壁に叩きつけられる。
「がっ!!はっ、、、、、、、、ヒぃ、、、イヤ、イヤ嫌イヤイヤイヤ!!!」
それでもその身を食らおうとする彼らの爛れた皮膚の形相こそが最も恐ろしく、クランは無茶な転移を繰り返しては、骨を折りながら、吹き飛ばされる。
何度も気絶しそうになりながらも、クランは逃げた。
「、、、、、、、、、あ、、、、、、、、、、、、、、あああああああああああああああああああ」
高い天井に叩きつけられた時、追ってきた怪物の1人がクランの脇腹を手で引きちぎった。
そして、滴る血に群がるように、数百のソレが一瞬でクランを囲む。
腕が、顔が、食いちぎられる。
「痛い痛いイだ、、い、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ア、、、、、、、、、イヤ、、、、、、、、」
それでも、一か所にソレが集まったおかげで、ホールには空間ができた。
クランは痛みで途切れそうになる意識をなんとか持ちこたえて出入り口まで転移し、そこを抜け出す。
「あ、、、あ、、、、、、助けて、、、、、、助けて、、、、、誰か」
顔に触れようとして、右腕がないことに気づく。そして、反対の手を持ち上げると、口の右側はもう肉が露わになっていた。
「はやく、、、ここから、、、出ないと」
無我夢中で船内を彷徨う。
早く外へ、外へ逃げなければ、そう思って駆けようとするが、脚がおぼつかない。
その間にも、例の存在は背を追ってきたり、通路から突如現れたりする。
「もう、、イヤ、、、、、、、やめて、、、、、、助けて、、、、」
クランは転移を繰り返す。
オペラ劇場では数の多さに気づかなかったが、彼らは生まれたての存在のように、まだ動きは鈍く、クランでもなんとか逃げ切ることができる。
ただ、無傷ではいられない。
無事だった左腕も肉が削がれ、立っていることが不思議なほど血が流れ落ちる。
そして、劇場から出たときから、ずっと歌のようなものが耳にうるさく聞こえる。
それはどこか、子供の歌声のように、高く朗らかな声だった。
この地獄のような状況とは裏腹な、まるでこの世の喜びすべてを歌い上げるような歌詞のない声。
壁に体を擦り付けながら、やっとプロムナードデッキにたどり着いたと思ったときだった。外に出る扉を開くと、そこにあったのは海ではなかった。
「転移、、、、、装置、、、、、、?」
営舎から任務先に転移するときに通り過ぎる、銀の紗幕。
それが船を覆うようになびいていた。
「な、、、、、ん、、、、、、、、、で?」
なぜそれがこの客船を覆うように広がっているのか、クランには理解ができなかった。ただ、ここではないどこかへ、それが叶うなら、と彼女はその薄膜に手を伸ばす。はたから見れば、それは海に向かって手を伸ばしながら落ちていくように見えただろう。
だが、海面に人が落ちる音は聞こえず、またクランの姿はどこにもなかった。
▲▽
_____さぁ、起きてくれ。君のためだけのウェルカムパーティが始まるよ。
その声に、クランは目を覚ます。
ただ、瞳を開けるのが怖かった。
決してその先に広がるのが天国の類でないことを知っていたからだった。
_____要するに、観測を超えるには、こちらが観測するしかないということだ
_____何をって?
_____死だよ、死を、僕らの手に取り戻すんだ。
「ハハッ、、、、、、、、、、なんだよ、、、、なんだ、、、、、、、、、、これ、、、、、、」
転送を生じさせる紗幕。
そこに救いを求めて伸ばした手は、見えぬ先で地獄の何者かに掴まれていた。
クランは戻ってきていた。
___パーティ会場。
その名残もない、地獄のなべ底に。
「エチカ少佐、、、クヘルス二等兵、、、、、、ファズ中尉、、、、、」
三人が高く、豪奢で巨大なシャンデリアにぶら下げられている。
そして、三人とも顔が爛れ、ウーシアの波長がない。
「う、、、、、、ウ、、、、、、平和を、、、、、、キキュウ、、、、、、、、、」
「ク、、、ラン、、、?、、、、、逃ゲ、、逃ゲ、、、、逃ゲゲゲゲゲ、、、、、、、、、」
エチカ少佐の口が動いている。
ファズ中尉も四肢を暴れさせて拘束から逃れようとしながら、クランに逃げろと言う。
そして、それらを仰ぐように、無数のソレが押し合い、食い合いながら、三人の足先を掴もうと群がっている。
「惨いと、そう思うか?」
声をかけてきたのは、至るところを負傷した民主神聖同盟の男。
その男には見覚えがあった。
事あるごとに襲撃してきた三人のうちの1人、こん棒を扱う男だ。
「、、、、、、、、、、、、、」
「言葉にもならないか、まぁそうだろうな。許してくれとは思わない」
その男の後ろには、残りの二人の女の仲間もいる。
その背後の二人は、互いの震える体を互いに落ち着かせるように、手を握り合っていた。
「観測者から逃れる。そのために必要なことだとは言え、あまりにもだな、これは」
「観測、、、者、、、?」
「帝国を打倒する、そのためであれば、アレに食われようとも、後悔はない」
男がそう言うと、二人の女もびくりとして、ただ意を決したように目を瞑る。
そして、薄く転移の波長を感じる。
___適合者の死が、より死を濃くする。
___歌がそれを重く風に乗せ運ぶ。
___時が、重なる。
その言葉とともに、先ほどから聞こえる、和音だけをなぞったような歌声が大きくなる。
そして、同盟の三人はそれぞれ転移し、少佐たちの傍に浮遊している。
「帝国に天罰を!!!」
「帝国に天罰を!!」
「天、、、、天罰を、、、!!!」
三人が叫びながら、少佐たちをシャンデリアにつなぎとめていた拘束を断つ。
無数の口と手が待つ地獄へ、少佐たちが落ちていく。
「待っ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、!!」
クランのその声は届くことはなく、ただ不気味で気味の悪い咀嚼音が届く。
それは餌やりのような行為。
その時にクランは分かった。
客船の乗客、そのすべてがアレになったのだと。
そして、彼らはあの訓練のときのように武器を持っていない。
ゆえに、彼らは食うのだ。
それが唯一かつ最大の攻撃の手段だとでも言うように。
そして、同盟の三人もまた、その捕食の最中に体を転移させる。
なぜそんなことをするのか、クランには分からなかった。
「うっ、、、、、、、うぇ、、、、、、、、、、、うぇ、、、、、、、、、、、、、、」
嗚咽が止まらない。
血の匂いが胃を締め付ける。
捕食は続く。骨が砕ける音が、歌に乗っていつまでも止まない。
そして、その餌にありつけない周囲の者が、クランの存在に気づき、またあの赤い瞳を向ける。
「イヤ、やめて!!来ないで!!!!!!コナイ、、、、、、、、、!!」
その懇願もむなしく、じりじりとソレは近づいてくる。
「助けて助けて助けてタスケテ、、、、、、」
クランは尻餅をついて、何とか床を掻いて進もうとするが、すでに掻く腕がないことを忘れていた。
なんとか足をばたつかせながら後退する。
「いやぁ、いや、、、、いや、、、ヤメテ、、、、ヤメテぇえええええええええ!!」
腹の傷が開く。
恐怖が爆発したように全身を駆け巡る。
足をソレに持たれて、集団の中へ引きずられていく。
クランはなんとか藻掻くが、誰もその残された腕を取ってくれるものはいない。
バリバリ
ボキボキ
と、己の脚から硬質な音が響く。
「ア________________ア______ああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
視界が全て、ソレに覆われる。
開いた口が、1つ、2つ、3つ、、、、、、、、、、、、。
脳の中の血管がいくつも一気に破裂したように、クランは意識が死に行くのを感じる。
「アアア、、ア_____________」
消えていく体、耳に残る歌。
理性というものが、その時、1つ残らず食われ尽くしたのを確かに理解した。




