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『すべての』はじまり

『はやく家に帰った方がいいと思いますよ、私、怪しいと思うんです、あの人』


血を洗う。

その生暖かさを感じるのは生涯、二度目のことだった。

自分の体の中でも同様に循環しているはずのものなのに、どうしてか、手にぬめりと付くそれを見たとき、思った。


_____ああ、俺はすでに、あのときから、人間ではなくなってしまっていたんだ


すると唐突に、これまで抱いてきた感情や、思念、心に浮かぶ表象、その全てが虚像で、誤ったものだった気がしてくる。

自分は、何を見て、何を考えていたのか、もはや分からない。

その血の宿主だった男の命は、そのともし火は、すぐに消えた。

彼もまた、今この瞬間、人間ではなくなった。

いや、そもそも、人間だと思っていなかったから、俺は殺せたのだろう。


_____人間とは、いったい何なんだろう


苦しみの果て、目の前に転がっている物体も、人間といえば人間だろう。

だが、そうではない。

これはただの「塊」だ。

ならば、人間を人間たらしめているものは何なんだろう。

俺がこのナイフで、彼の中で壊したものは何なんだろう。

血を失ってこうなったのだから、血こそが人間の本体なのだろうか。

それとも瞳の輝き?

動くこと?

話すこと?

分からない。

入れ物を壊しただけなのに、中身まで無くなってしまう、この人間というものが、分からない。


でも、そうだ。

全部そうじゃないか。

段ボール箱を蹴とばせば、それはもうただの紙屑だ。

空き缶を踏みつぶせば、それはただのアルミやらなんやらだ。


中身が、その本質が何なのかを決めるのは、他人だ。

そんな話を聞いたことがある。

段ボール箱を段ボール箱にさせているのは、それに何かを入れて運びたい人だ。

空き缶を空き缶にしているのは、誰かがそれを飲料の容器として使ったからだ。

なら、人間は?

誰かが、それを人間として扱いたいから、人間なのだ。

だから、この死体も、自分にとってはただの「塊」だが、他の人にとってはまだ人間なのだろう。


『どうして!!どうして私のお兄ちゃんを!!絶対に許さない、、、どこまでも、どこまでも、あんたを追いかけ続ける!!この手で、この手で殺すまで!!』


『お兄ちゃん、、、私の、せいだね。ごめんね。見て見ぬ振りをしてきたんだ、私。とっくにお兄ちゃんが壊れてたの、知ってたのに、、、』


『お前、、、そうか、、、なんだよ、本当に。馬鹿じゃねぇのか。馬鹿だよ、本当。死ぬなら死ねばいいさ、それでお前が救われるなら』


自分には、どの声ももう、人間の言葉には思えなかった。

愛する、守るべき妹の声すら、鳥獣か何かの嘶きにしか聞こえない。

すべて、壊してしまったから。

まるで、あらゆる物が意味を失った、戦場の痕。荒廃した瓦礫の中を歩くようだった。____ずっと、あの日から、歩いてきた。

その瓦礫の1つ1つに、再度意味を持たせるようなことは、自分にはできなかった。

人間が持つその権能を、俺はもう持っていない。


____ただ、1人だけ。


『君の罪を、一緒に背負っていきます。どこまでも、たとえ、そうたとえ、生まれ変わったとしても、、、未来永劫、一緒に背負うから。だから、また、歌ってよ、お願いだから』


意味を失った、白黒の瓦礫を、なんとか積み重ねて、形を成そうとしていた女の子。

その手を傷だらけにしながら、ずっと瓦礫で出来た唇で語り掛けていた。

だから、最後だけ、その彼女らしき何かに恩返しをしたかった。


『椿姫』


娼婦の女性と、貴族の男性の愛を描いたオペラ。

その演奏会形式。

二人の出会いは、かの有名な「乾杯の歌」で彩られる。


ああ、なんて人間的なんだろうと思う。

愛。

喜び。

嫉妬。

誇り。

そして狂気。


全て俺が失ったものばかりなのに、演じている今は、それが分かる。

もし、もう一度、生まれ変われるなら、罪を背負ったまま、人間らしく生きたい。

こんな瓦礫の海ではなく、意味が煌びやかに輝く世の中を生きたい。

ただ、今回は駄目だろう。

この演奏会が終わったら、俺は死を選ぶ。

この世では、俺はもう、罪悪感を抱くこともないから。

だから、死んで、生まれ変わろう。



In questo paradiso ne scopra il nuovo dì


『楽園で、新しい1日を見つける』



激しいライトの下、俺は歌い上げる。

その時、観客の悲鳴もまた、歓喜の声のように聞こえた。

楽園に至る、その道程の喝采。

場にそぐわない、嗅ぎなれた煙草の匂いがした。


『・・・君はさ、きっと、私が一番良いと思ってるだけなんだよ。それは良いだけなんだ、それが悲しいけど、嬉しくもあるんです。だから、いつか、その罪を背負ったまま、まっすぐ私のことを、今度は見て欲しいなって』


瓦礫で出来た彼女が、どうしてか舞台の上にいて、苦手なはずの煙草を口に咥えながら俺のことを見上げている。

涙にうるむ瞳も、高い鼻梁も、薄い唇も、全部見えているのに、顔として認識できない。

ただ、感謝の言葉だけ、脳裏に浮かんだ。


『ありがとう____』


俺の腹から、血が流れる。

それは俺が殺した二人の男のそれのように温かいのかどうか、聞きたかった。


_____誰に?


今、ステージの上で、俺の腹を刺した女性らしき人に、だ。


_____名前は?


おかしいな。

彼女の名前、何度も呼びかけてきたその名前。

だが、どうしてか、これというのが思い出せない。

いや、いくつもの名前が同時に思い浮かんでは、互いに邪魔し合っている。


『それでいいの。一番大事な気持ちを、忘れないで』


『一番大事な気持ち?』


『あなたは、この世界で、何のために生きてきたの?』


『妹を、守るため』


『ふふっ、それ。それだけを思って、目を覚まして。そして、あなたの前にいる人のことを、命をかけて守って。私に証明してくれたのと、同じように。誰かを殺してでも____私があなたに、意味を与えてあげる____』


俺を家に帰るように促したその声。

なぜか、抗い難い力を感じる。

守りたい_____。


でも、本当にそれでいいのだろうか。

俺は、また罪を重ねるのだろうか。

また?

俺は、、、俺は、、、何度、、、人を殺した?


分からない。

苦しい。

だから、彼女の言葉に、従おうと思った。

思って、しまったのだ。


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