努力出来るのも才能の一つ
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努力出来るのも才能の一つという言葉は好きじゃなかった。才能がない人間誰しもに与えられたチャンスが努力であると、そうであるはずなんだと思っていた。
だから才能がある奴に勝つ為に才能がないから必死に誰よりも努力をして実力をつけようとした。それなのに「そうやって頑張れる事、それ自体が君の才能だ!」と言われれば「ふざけるな」と言いたくなるのも分かって欲しい。
別に好きで努力をしているわけではないし、どれだけ努力が出来ても結果は出ないなんて事もザラにある世界で、そんないっぱい努力出来て羨ましい、努力出来る才能が欲しかったなんて言われれば吐き気がするだろう。
そんな才能いらないから、もっと分かりやすく凄い才能をくれと思っていた。
努力出来るのも才能という言葉は僕が頑張っていた若かりし時を否定する言葉であり、大人になった今でもやはr肯定してはいけない言葉なのだと思う。
でも仮に努力が出来ることも本当に才能であるのであれば、あの輝かしい時代から歳を重ねた自分はーー無能に成り下がったのだろうと思う。
結局、大層な夢を掲げて直向きに努力して結果を出す事が出来ずに夢破れてしまった。
最終的に夢を叶えられず結果を出せないような奴が努力の才能があるとは言えないと言われれば、反論する事は出来ない。とにかく結果が出るまで努力し続けられるような人間が本当に努力出来る才能がある人間だと言われてしまえば、そうなのかもしれないと全く思わずにはいられない。
だから、夢破れて努力をしなくなった自分は何の才能もないただの無能である事が証明されてしまった。
努力出来る事も才能という言葉を今更ながら肯定しても、もう僕にはその才能はなかった。何の目標を持たずに生きる現在は努力をする自分を想像する事も出来ない。
でもそんなの世の中の人間ほとんどそうなのではないかと思う。
みんな頑張って生きているかもしれないが、努力はしていない。
努力は必要に駆られてするものではなく、自らやろうと行動する頑張りであるから。
もし、頑張って生きる事が努力に値するのであれば、世の中全ての人間が努力する才能があるという事になる。世の中に才能のない人間なんていない。それは素晴らしい話であるように思えるが、才能は突出している人間の能力を言うのだから、皆平等では才能とは言わないだろう。
才能がない人間がほとんどの中に変わり映えのしない一人として生きている。
若い時の自分の考えだと、才能がない人間に与えられたチャンスが努力をする事なのだろうが、それすらやる気になれない。
過去に感じていた熱意はもうない。熱く燃やす為にくべる薪もなければ薪を切りに行く事もない。もう燃え尽きて炭化してしまったグレーな思いを抱いて生きている。
でも偶に、自分の本来の姿を思い出したかのように燃えようとする事がある。結局は火種にもならずにすぐにかき消えてしまうのだが。
だたほんの少し心に火が灯る瞬間は決まっていた。昔を深く思い出した時、今を悔いる時、そして人が努力をしているのを見た時である。
特に同年代が未だに夢を追いかけて努力する姿はこちらにまで火の粉が飛んでくる程に燃え盛っている。
あんな姿を見せられては、諦めてしまった自分が惨めになってしまう。さらに応援する気持ちと共に同じように挫折しろと少し願ってしまいもっと惨めになるのだった。
自分も頑張ろうかと思う反面、自分にはあのようには成れないと諦めてしまう。
きっとこの気持ちが「努力出来るのも才能の一つ」という言葉を作ったのだろうと今なら分かる。
この言葉は諦めた人間が諦めなかった人間に向けた嫉妬の言葉であった。
今回は最近弛んでいるようなので書いてみました!




