蚊も殺せない男
残り284日!82日目!
蚊も殺せぬ男になったのはいつ頃だっただろうか。
一寸の虫にも五分の魂と言うように、幼少期の頃に、遊び半分で虫や小さな生物を殺していた僕に、父が虫だって生きているのだから無闇に殺してはいけないと教えられた。
お前も普通に生きているだけなのに急に大きな何かに叩き殺されたら嫌だろと諭され、その事を想像したら途轍もない恐怖が訪れ、次第に今まで殺してきた生物達への罪悪感が湧き上がってきた。
それ以来、見つける度に砂や水で埋めていた蟻の巣も、丸くなったダンゴムシを放り投げる事も、足をちぎっていたバッタも殺す事が出来なくなった。
それは、少し服を払った時に偶然そこに止まっていたコバエを潰してしまった時でさえ罪悪感を覚える自転車に乗っていた時に急に飛び出してきたカエル轢いてペチャンコになった姿がトラウマになるくらい生物の死に対して感情移入するようになった。
ただ可哀そうという感情が現れるのは自分で生物を殺した時に限っていた。いくら友人が残酷な殺し方で虫を殺しても何も感じなかった。
あれだけ僕の価値観に影響するような説教を垂れた父親が室内で出たゴキブリに殺虫スプレーを吹きかけていた時も虫に対しては何の感情も湧かなかった。
父親に対してはどの面下げてあんな説教していたのか問い詰めたくなったが、とにかく自分の手を汚すと言うのが嫌なのだと知った。
所詮は虫けらと言った所だろうか。五分とはことわざで言ってはいても、そもそも一寸の虫を下に見ていないと出ない言葉だろうから、虫達の命を軽んじてはいけないだけで、本当に僕達人間と五分であると思っている訳ではないと言うことだろう。
本気で殺生に心を病むと言うなら肉を食べる事も出来ないわけだが、そんな事もないので幼少期から培ってきた僕の命に対する価値観は自分の手を汚さない限りは他の命が誰にどうされてもいいと思っているようなクソみたいなものだった。
だいたい蚊も殺せない男は弱々しく女々しい男性みたいな意味でよく使われている言葉なので良い意味ではなく、僕の例える言葉として良い得てみょうな気がする。
殺す事が自分では出来ないだけで、だからと言って他人が殺すのを止める事が出来る訳ではない。自分では何も出来ないだけの弱虫である。
幼少期みたいに無造作に殺しまくるのは大人になればどちらにしても抑制されるだろう倫理感だろうが、害なす蚊のような害虫も殺せないと言うのは欠陥であると言えるかもしれない。
普通は自分の父親のように可哀そうであると口で言えても、いざ目の前に現れれば殺虫スプレーや新聞紙を持って殺そうとするのが普通なのだ。
それが普通であるとすれば、今目の前にいる彼を僕はどうすればいいか考える。
「助けてくれ!」
救いを求める彼は必死に僕の方を見て助けを叫んでいる。彼の両手の指は学校の屋上に引っ掛かってはいるが、その10本の指では彼の重たそうな脂肪が詰まった体を支えるどころか待ちあげるのは、無理があるように思えた。
だから僕に対して助けを求めているのだろうが、しかし、どうするべきだろうか?
彼は僕をイジメていた張本人であり今日も屋上に呼び出されたのはお金を要求されていたからだ。そしていじめっ子の彼が屋上にぶら下がっているのは、古くなっていたフェンスが寄り掛かった彼の体重を支え切れなかったからであった。
元々、生徒の立ち入りを禁止している場所の為に整備が甘くなっていたのかもしれない。というより、そこにぶら下がっている彼が重すぎるだけなのかもしれないが。
「おい! お願いだ! 助けてくれーー!」
と、情けない声を出し始めている。助けてもいいのだが、明らかにコイツは害虫の部類だ。ここで今までの半生を生かしてコイツの指を踏みつけて殺してしまうのが普通なのではないかと思う。
「おい、頼むよ! 今までの事は謝るから!」
近づいて来ているのに助けない僕の様子をおかしく思ったのかいじめっ子の彼は許しを請うように謝る。情けない様子の彼を見て僕は踏みつけようと上げていた足を指のない所に降ろし彼に言う。
「本当は殺したいくらいアナタの事は憎んでいるんですよ。でも知っていると思うんですけど僕って蚊も殺せないような人間なんです」
屈んで彼の顔を見ると涙と鼻水と涎で顔中をベタベタにしていた。自分の罪を許すようなセリフを喋りながら僕が屈んだのを助けてくれると思ったのか男の顔がわずかに緩んだ気がした。
「でも、それって自分の手を汚したくないだけなんですよ。これからもそれは変わらないかなって」
いじめっ子の彼は僕が何を言っているのかよく分からないという表情に変わり、僕が屈んだのに手を全く伸ばさない事に少しずつ絶望していくのが分かった。
「だから今回も何もしません。見ていますんで、勝手に死んで、勝手に生きてください」
自ら誘蛾灯に突っ込んで死んでいく虫を見ても何とも思わないのと同じだ。勝手に死へと近づいて行ったのなら勝手に助かるか勝手に死んでくれと思う。
一寸の虫にも五分の魂。目の前の男には虫くらいのそれも害虫と同じくらいの魂の価値しか僕にはない。
「じゃあ頑張ってくださいね」
と、見放した瞬間、唯一の希望であった僕の宛が外れた彼は最後の力が尽き悲鳴を上げながら屋上から落ちていった。
――ドパァン
そんな音が下から聞こえた。
潰れて血を周囲にまき散らす彼の姿は自転車で轢いたカエルの姿によく似ていてトラウマを刺激し、僕の気分を不快にさせるのだった。
今回は部屋に蚊が飛んでいたので書いてみました!




