諦念
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『諦念』
歴史の教科書に小さく載っていたその単語を大人になっても僕は忘れられないでいる。
他の歴史の知識なんてほとんど覚えていたないのに、森鴎外の名前と共に書いてあったその一単語だけはいつまでだって思い出す事が出来た。
当時、中学生だった僕には諦念の概念を理解出来なかった。プロ野球選手に憧れ毎日ひたすらにバッドを振っていた過去の自分には諦めが肝心というような考え方は合わなかった。
というより、いま思えば理解したくなかったのかもしれない。中学時代はプロになりたいと夢を見ている一方で、自分の才能や努力に疑問を抱く時期でもあった。
自分が出来る人間である事をひたむきに信じられなくなった頃、周囲の身長や筋肉のつき方、運動神経の高さ、人間には個体差がある事を理解し始めた時でもあった。
僕も当時は運動が出来る方であったが、上には上に沢山いることを、自分が知る上にもさらに上がいる事に気付き始めた頃だった。
そんな思春期真っ只中で学んだ『諦念』という言葉は密かに僕の胸に刺さっていた。
そしてそれは今も僕の胸に刺さったまま大人になってしまった。
プロ野球選手の夢は高校の入学してすぐに打ち破られた。強豪と呼ばれる高校に一般受験で入ったのはいいが、全国からスカウトされ入部した同期達の実力を目の当たりにすると、それまで培った自信は簡単に崩れた。
部活には3年間所属していたがプロを目指すなんて言うことも考える事なかった。ただ日々を消化し、一度もベンチに座ることもなく引退をした。
それが森鴎外が言うような諦念であったかと今はそう思わない。当時は諦念なんて考えていた訳ではなかったが、あれは、あの日々はそんな良いものじゃなかった。
プロにはなれないと心で思いながらも、それでも野球にしがみつく惨めな日々を消化した。
森鴎外が言うには遠くを目指すのもいいが、自分が置かれた立場によって、成すべきことを全力でやれと言う事だった。
プロを目指せないと言う立場を僕は受け入れきれていなかった。
それはプロになれない事を受け入れられないというよりも、何者にもなれない事を受け入れられないという方が正しかった。
野球選手を目指すという立場を諦めた僕は全力を傾ける成すべきことを見つける事ができなかった。
そして探す事もなかった。ダラダラと部活に入って野球を頑張っている世間体だけ取り繕って満足していた。
それは今でも変わらなかった。
置かれた現在の立場で僕は何に全力を向ければいいか分からなかった。
いや、本当は分かっている。
もう何も目指していない、子供の頃成りたいと想像していた自分になれなかった僕は今、従事している仕事に全力を注ぐべきなのだ。
誰でもできる、僕にだって出来る今の仕事に全力を注ぐべきなのだ。
そこが僕に置かれた場なのだから。
諦念はとてとポジティブな言葉であるらしい。
子供の頃にはとてもそんな意味で受け入れられなかった事が今ではスーと受け入れられる。
諦める事は、楽になる事であると。
何も諦める物もないはずなのに、未だな離れられない思いがある。
森鴎外はこうも言った。
できる事に全力を注ぐ事を抜きにして良い未来はないと、言った。
子供の頃に全力を注がなかった結果が今の僕であり、きっとこれからの僕だった。
出来ない事に縛られたフリをして変わらない日々を過ごしていく。
森鴎外の話が出たので書いてみました!




