口元への意識
残り333日!33日目!
目が覚めると目の前に彼女の姿があった。
スースーと無防備に寝息を立てている彼女の寝顔はあまりに愛おしく起こさないようにそっと頬に口付けする。
枕元の近くに置いたという記憶を頼りに手探りで携帯を探すと硬い感触に手が触れる。それを掴んで自分の顔の元まで引き寄せる。自分のではなく彼女の携帯であったが時間を確認したいだけであったので構わず電源を付ける。
『5時48分』
まだ早朝である。早めの起床にもう一度眠ろうかと思ったが、体がベタついており、口の中も気持ち悪い。それより、なにより尿意が迫っていた。
二度寝はトイレに行ってから考えようと思い、ゆっくりとベッドから足を降ろし立ち上がる。
立つと昨日飲んだ酒が少し残っているようで少し頭がクラクラした。二日酔いという程ではないが、あまり気分がいいものではなかった。
自分の部屋から出て共有スペースであるトイレに向かう。早朝という事もあり廊下でもトイレでも、誰とも出くわす事なかった。
学生寮に近いそのアパートはトイレやキッチン、シャワールームなど自分の部屋以外は共有スペースとなっており、ここに住んでいる人間なら誰でも使えるようになっている。
一応、男子限定の学生アパートではあるが、学校管理の寮のように厳しいルールもないため、友達を連れてきても、異性を連れ込んでも、他の住人に迷惑を掛けない限りは問題なかった。
トイレを済まし自分の部屋に戻るといなくなったスペースをここぞとばかりに彼女が占領している。
目が覚めてしまっていたので二度寝するつもりもなかったので、別に構わない。シングルベッドに二人ギュウギュウに寝ていたのでむしろ安らかに眠れているのであれば、それで良かった。
赤と青の二セットある歯磨きセットの内、青い方の歯磨きをセット手に取って再び部屋を出る。
歯磨き粉を塗ったブラシを口の中に入れるとハーブの爽快感が口の中に広がり、酒と口の中の気持ち悪さを一緒に洗い流してくれる。
シャコシャコと磨きながら顔をボーっと眺める。なんともマヌケな顔が映る。キリッと顔に力を入れると何だかカッコよくも見えなくもない気がした、が、すぐにまたボーっとした顔に戻る。
朝の顔はこれくらいで丁度いい。誰に見せる訳でもないのだから。
3分程で上下裏表全てを磨き終えると溜まった汚れを吐き出した。水道水で口を3回ゆすぐと気持ち悪さが消えてスッキリし、更に顔を冷たい水で洗えば意識までスッキリした。
共有スペースの窓を開けると金網越しに心地の良い涼しい風が肌を撫でる。外は朝日が昇っており、窓から見える道路には御近所の方々が犬の散歩やジョギングに勤しんでいた。
極楽気分で外を見ていると聞き慣れたアラームの音が自分の部屋から聞こえる。
「あ、ヤバい」
急いで部屋に戻り扉を開けるとアラームの音は更に大きくなる。音がする枕元の方へ向かい、携帯を手に取り停止を押す。
時刻は『6時00分』を示している。毎日この時間にアラームを設定しているのに起きた後すぐに切るのを忘れていた。
時間を確認した端末が自分のではなく彼女の携帯であったのが良くなかった。
アラームの音に反応して彼女は「んん……」と声を漏らしたが、寝返りをうつだけで起きる事はなかった。
しかし、壁の方にそっぽを向くように寝てしまった。
愛らしいご尊顔を拝見出来なくなり残念に思うが、彼女が横にずれたおかげで再び出来たスペースに腰をかける。
ふわりと柔らかな後ろ髪を撫でる。人撫でするごとに愛しさが募っていき、この時間の永遠を願いたくなる。
キスしたいな。
そう思っても彼女がこちらに向く訳でもなく、無理矢理起こしたくなかったため撫でるだけで諦めた。
付き合ってから半年間も撫でた手は彼女の頭によく馴染んでいた。
最初からここまで愛しく感じていた訳ではなかった。正直、彼女の顔はそこまで可愛くない。ブサイクではないが、万人の男受けする顔ではないように思う。
告白したのも今までに彼女が出来ない事に焦りからで、付き合えそうな後輩に対して先輩という立場を利用しながらアプローチをかけOKを貰ったという流れだった。
初めは経験を積む為と思いもあったが、罪悪感から「好き」だとか「愛してる」なんて歯の浮きそうな言葉を並べては彼女に伝えていた。
ただ不思議なもので言葉はいつしか本心に変わり、手が彼女の頭に馴染んでいくように、俺も彼女に馴染んでいき本気で愛するようになっていた。
幸せにしてやりたい。
彼女の髪が禿げてしまいそうな程、撫でた手を離しベッドから立ち上がる。
学校でも使っているノートパソコンをベッドの隣にあるデスクで立ち上げると文章作成ソフトを開いた。
俺が成功すればきっと彼女の幸せに繋がるはずだと、向かい会ったパソコンに『第6話』と題名に書いてあるデータに文字を打ち始めた。
再び携帯のアラームが鳴る。今度は彼女の携帯からであった。
自分の携帯とは違うアラーム音が3周しても彼女は起きなかったため、彼女の携帯を取ってアラームを切る。
あまり長引かせるとアパートの壁が薄いため隣に迷惑が掛かってしまうからだ。
「起きろー」
と、彼女の体をゆさゆさと揺すると「うう……」と彼女が呻く。今度は無理矢理ゴロンと壁に向いていた彼女を転がすと、目尻がピクピクと動いていた。
起きそうな気配はあった。「おーい」と頬をペシペシ叩く。確か1限から授業があると言っていた。以前、眠たそうだったのでギリギリまで寝かしていた時は準備が間に合わず彼女は遅刻していた。
男と女の準備時間の差がここまである事を俺はその時初めて実感した。それ以来、準備時間を考慮して起こすようにしていた。
何度目かの呼び掛けにようやく彼女は目を開ける。
「おはよう」
と言うと、「おはようございます」と眠たそうな声で答える。敬語なのは未だに先輩後輩だった時の名残が消えていなかったからであった。
起き上がって背伸びをしている彼女を少し強引に抱き寄せた。彼女は「おっ」と驚きの声が出たが為すがままに抱きしめられる。再び向き合うと「おはよう」と言って唇を重ねた。
5,6回くらい重ねると彼女は顔を背けた。
「歯磨いてないから」
と、言って彼女は俺の腕の中から抜け出すと歯磨きセットの赤色の方を持って洗面所に向かった。
不完全燃焼な気持ちだが、もう少し濃厚なキスは嫌がられる事は想定していたので、特にダメージはなかった。
彼女が洗面所から帰ってくると慌ただしく化粧の準備をしていた。
「まだそんなに急ぐ時間じゃなくない?」
いつもはもう少し余裕を持っているはずだが今日は急いでいるように見えた。
「友達と待ち合わせしてるから少し早めに出ます」
「なんと」と思い彼女に近付いて甘えようとするが、「あーあーまた後で」と拒否される。しっかり拒否されたので、本当に急いでいるらしかった。
化粧も特にしない俺は家を出る準備はほとんど終わっていた。
携帯を触りながらしばらく待っているとパチンと化粧ポーチが閉じられた音がした。
ようやく終わったと待てを解除された犬のように近寄っていくと彼女は最後の締めとして既にリップクリームを塗ってしまっていた。
出かける前にもう一度キスをしたかったが、塗り直しさせる事になるので断念した。
「もう行くの?」
そろそろ準備が終わりそうな彼女にそう問うと「うん」と簡単な返事が来た。忘れ物がないかカバンの中を見て、携帯と財布を持ったか確認をして立ち上がる。
「あれ、一緒行くんですか? 少し早いですけど?」
確かに今から行くのは少し早いが、彼女と一緒にいたかった。部屋を出る前に彼女の髪や化粧が乱れないようにそっと抱きしめた。
それには拒否する事なく彼女も返してくれた。本当に幸せな時間であった。
数秒の後「行こっか」と言って手を離して二人で部屋を出た。
アパートから出てとりあえず彼女の待ち合わせ場所まで一緒に行こうという話になった。
昨日の遊んだ話をしながら駅へと向かった。
話の一段落がついた頃に「そういえば」と話を切り出した。
「今朝、寝ている間にまた小説描いてた」
パソコンを開いて書いていたモノを思い出す。
「そうなんですね」
と、素っ気ない相槌を彼女はうつ。それでも話を辞める事は出来なかった。どうしても聞いて欲しかったからだ。
「ついに敵役が出てくる重要な場面なんだけど、中々進まなくて」
書き始めたはいいが、進んだ文量は3行程であった。文章が出て来ず、少し書いてから彼女のアラームが鳴るまで、ほとんどの時間。携帯を弄っていたのだから進んでいなくて仕方はなかった。それでも聞いて欲しかった。
「頑張ってるんですね」
と彼女は言ってくれた。そのまま今回こそ面白い、売れるはず、伸びるはずと根拠のない夢の話を彼女に聞かせた。
その間、彼女は素っ気ない返事ながらも話を聞いてくれていた。
「今、何話目書いてるんですか?」
その彼女からの唐突な質問に俺は答えに詰まった。
「……6話目かな。でも最近他にも短編とか色々書いてたから進むの遅くなってて」
なんて聞かれてもいない言い訳をいつのまにか語っていた。
ただ、短編を書いていたのは本当だった。今書いていた長編小説に行き詰ったから、気分転換も兼ねて少し回り道をするように短編を書いていたのだ。
だから、まだ6話目なのは仕方ない。彼女と付き合った頃から書き始めて作品、つまり半年経って6話目を書いているのは不思議な事じゃない。
「そうだ、来週のデートの日って」
話題を変えると、彼女はすんなりと自然に話題変更を受け入れてくれる。
ただ、その自然さは彼女から「口だけ」と語らずとも伝えられている気がしてならなかった。
今回は「リップクリーム」「寮」「先輩」の三つの単語からお話を書きました!




