09
入浴後、キリに手伝わせて身なりを整えていると、北からまた琴の音が流れてきた。エンジュが起きたのだろう。寄って挨拶をしてから出かけようと考える。
今日は午後から王太子の供だ。狩場で一泊、潔斎をしてから明日の早朝より狩りの開始だ。だから今日、明日、明後日とまた家を空けることになる。
キリとともに朝食をとっていると、給仕していた従僕にムトウ様がお待ちですと伝えられた。私が朝を摂っていると伝えたが、終わるまで待つと言って客間に入ったという。朝食後、先にムトウに会う為西の客間を訪ねた。窓際に座っていたムトウに、立ち上がって迎え入れられる。彼は挨拶もそこそこに、
「素晴らしいじゃありませんか、弟君のこの琴の音は」
などと感嘆する。それには取り合わずに
「今日は何か」
問い掛けた。
荷物を扱わせた家人に手落ちがあって、それを訴えに来たのかとも思ったのだが、ムトウは慌てたようにとんでもない、と否定した。
「何もかも良くして下さって、大変感謝しています。ただ、今日は弟君に昨日お約束した贈り物を」
「ああ……」
そういえばそういうことも言っていたなと思い出した。何やら知らないが早速持参したらしい。尋ねると既に品物は迎えに出た従僕に渡したということだったから、今ごろエンジュの手には渡っているのだろう。
「手紙をつけましたから、私が彼の琴に大変感動したことをご存知になって、それで弾いてくれているに違いありません。私も方々で楽人には会いましたし、すこしは自ら奏しもしますが、こんな不思議な音調は他に似たものを知らない。私の為に珍しい曲をと感謝していたと、是非お伝え下さい」
ひとしきり絶賛した後、私にも礼だと言って黄金細工の鍔の刀を大小一対くれた。剣装も見事だったがやはり刀身の素晴らしさが目を引いた。
ムンナイトの刀剣は細身の片刃剣で、刃と柄は別作りだ。これが打撃に対する弱みにもなる部分だが、刃は固く鋭く剃刀のように薄い。刀身全体は僅かに歪曲していて気品があり、シュクラの刀剣より僅かに短く、かなり軽い。名匠の手によるものだろう、構えると重心に歪みもなくしっくりと手に収まり、刃にはこの種の刀剣に独特の、美しい青い刃文が芸術的に浮き出ている。かかげ持って日に翳せば瑕一つ無く一点の曇りも無い刃の上をつるりと光が縁取っている。
「素晴らしい……」
刀剣は、武器としてみれば無粋なものだがただそれだけでは無い。絶句するほど魅惑的な逸品だった。ムトウは笑い、喜んで戴けて良かったと言う。私も重ねて礼を言った。
そのまま二人で椅子に腰掛けエンジュの演奏を聞いていた。こうして改めて聞いてみると確かに上手のうちに入るのだろう。技巧的でいながらそうとは感じさせない、自然な豊かさと滑らかさですっと胸の内に入りこむような音色だ。あのまま妓楼に置いておけば、娼妓の舞踊の伴奏だったはずだが、そんな卑しさを感じさせるものなど無く、勿体無いような気品があった。こんな清しいような音は、確かに酒席には似つかわしく無いと感じたが、さりとて我が家の北庭に封じておくのが適当かというとそれも違うようにも感じた。しかし私はそこで思考を止め、ただ聞き入ることに集中する。
やがて音が途絶え、また弾き出しそうも無いのを察すると、ムトウはまた伺いたいがと繰り返しながら名残惜しげに帰って行った。
---
昼食前に出掛けたかったのでムトウを送り出したその足で北の屋に向かう。
エンジュは部屋の真ん中の寝椅子にだらしなく寝そべって、何か筒状のものを熱心に覗きこんでいた。朝風呂を使った後ほったらかしてあるのだろう、髪は濡れたまま、薄い一番下の下着を申し訳に身につけただけの姿だ。
「何を見ている」
声をかけ、エンジュの腿の脇に向かい合うように腰をかける。エンジュは脚を寝椅子の背にかけて場所を空けた。この横柄な態度はどうだろう、とても客商売をしていたとも思えない。それでも当初は私に対して構えたようなところがあったのだが、だんだん遠慮を忘れてきているようだ。今は手にあるものに夢中なせいか特に酷い。しかし、これが彼の地なのかもしれないとも思う。本来彼は無造作で率直な、まだ子供なのだ。
「カレイド」
「カレイド? 」
剥き出しになった脚に下着の裾をかけて隠しながら聞き返すと、覗いていた筒を手渡された。
「今朝、ムトウとかいう昨日の客が贈って寄越した。こっちがわから覗いて」
と、筒の一方を指し
「陽に透かして廻してみて」
目に筒を当てる仕草をしてみせる。筒の縁は恐らく純度の低い金の細工で、肘から手首までほどの長さ、片手の指で作った環ほどの筒廻りだ。ぐるりに七宝で小花が象嵌されている。七宝もまたムンナイトの伝統工芸だ。
「ああ……これは綺麗だ」
言われたとおり覗いて見て、感心した。エンジュは寝そべったまま私の膝に手を置いて嬉しそうに笑った。
「ね? いい退屈しのぎになる」
筒をひっくり返すと、カレイドの仕組みはすぐに判った。覗くところは小さく丸くくりぬかれていたのだが、筒の内部は銀流しの鏡で三角形に区切られて、反対側の先端には極く薄く平たい吹き硝子の切片が2重に嵌めこまれている。その間に自由に転がる程度に小さく砕いた色硝子や透ける半貴石、色紙の切片が挟みこんである。一番外側の硝子は、光量を加減するためだろう、半端に擦り磨いて瑕をつけてあった。この転がる宝石や色硝子の欠片が合わせ鏡に規則的に反射しあってえもいわれぬ美しい紋様を目の前に広げるのだ。しかも転がす毎に花の咲いて散る様を見るように様々に色と形が変化する。
ああ、と昨夜の会話を思い出す。ムトウは、エンジュが退屈しているだろうと言っていた。こういうものを喜ぶんだったのか。ムトウは直接会いもせずにエンジュの欲しがるものを見ぬいたのにと思うと情け無かった。こういったのも、場数が関係するのか、それとも父の言うとおり人の気持ちに鈍いから、気がついてやることが出来ないのか。そんなところばかり父に似たくは無かった。
「ムトウが、お前の琴を誉めていた。粋人だからあちこちで楽人を知ってはいるらしいが、他に聞いたことのないような珍しい曲だと。やはりハユルの廓で憶えた曲か。独特の曲なのかな? 」
エンジュははにかむ様に笑った。
「あの曲は、おれが作った――昔」
私は驚いてエンジュの顔を見直す。
「本当に? 」
作曲など、神殿の僧侶にしか出来ないものだと思っていた。俗人にそんなことができるのか。いや、エンジュは既に俗とは言えないのだが。
「ハユルの街では一端の評判を取ってた、これでも。酒席で、風流な客の詩をうけてそれに曲を付けて歌うなんてこと、良くしてた。とても喜ばれたんだ。商売の接待の席なんかでは、何か贈り物をしたりするだろう。そういったときに贈り物の素晴らしさを称えたり、絵や詩に書かれた端書きを歌にしたりすると場が盛りあがるんだ。おれはまだ旦那を持ってなかったから、姐さんたちに呼ばれてその席に侍るのが殆どだったけど。そういう、ひとの為に恋の歌を作ってやったりね……」
そう、エンジュは何もその美貌だけで花街一の評判を取っていたわけではなかったのだ。単なる美貌ならば、ハユルにはありふれて溢れている。楽器の名手でさえ、珍しくは無い。
その花園の中で花のなかの花とみとめられるには、その上貴婦人の優雅さと、当意即妙の機知が求められる。そんな厳しい花柳界の現実を、聞いた話としては知っていても、事実として目の前に示されると呆れる他は無い。
この無邪気さで、よくもそんな世界で渡り合って来たものだ。我が家に来てからのエンジュの様子には、そんなところを見受けられた事が無い。
「そんなに、びっくりするようなことじゃないよ、おれなんか、単に思ったままを弾いてるだけだし、きっと、ちゃんと勉強した、神官様からすれば出鱈目もいいとこだもの。弾いた端から忘れちゃうし」
「それは、勿体無い……」
「そんなもんだよ、楽曲なんて。基本的に口伝だから。詩なら、簡単な節回しと一緒に紙に書いておくこともあるけど、基本はお師匠様に口伝てで教わるものだもの。特に即興曲なんか、偶に流行ってみんな歌うようなことはあっても基本的にはその場限りのものだから」
「そうか……」
「そんなもんだよ。特に気に入ったのは自分でも覚えてて繰り返し演奏するんだけど……」
「今朝のもそうか」
「そう。あれは、気に入ってる。廓に詩人が来たときのことで――」
話しかけて、ふと黙り込む。
「それで? 」
促すと、苦笑して首を傾げた。
「昔の話はいいよ。それよりハンユ、その格好からするとまた、出掛けるんだ」
「昼前に参内してニ、三済ませたい用事がある。昨日の夜、話しただろう、王太子の狩りに付いていかなければならない」
「帰りは、いつになるの」
「明日――いや、明後日の朝になるかな」
「そう」
少し沈んだ表情になったようだ。
「寂しいようなら、キリを寄越そうか」
「いいよ、大丈夫」
エンジュから切り出してくれたので助かった。私は椅子から立ち上がり、寝そべったままのエンジュの手を取って強く握る。
「では、もう行くよ。良い子でな」
「ご無事で」
「無論だ」
いつになく心細そうなエンジュの様子が気に掛かったが、とくに言うこともなくそのまま別れた。