表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エンジュ  作者: PK23
8/21

08

 朝早く目が覚め、そのままエンジュの部屋から抜け出る。今日こそはちゃんと風呂に入らなければ、もう何日もゆっくり入浴できていない。自室に入るとまだキリが寝ていたので、揺り起こして抱き上げた。


 シュクラの建物は平屋が基本だ。我が家も他の大抵の屋敷と同じように、南西に正面玄関があり、南棟が正庁となる。外棟は台所や使用人の住居だ。西棟が普段使わない客室や接待室、遊戯室のほか、蔵書や美術品の保管、展示室になっており、東棟が主人である私とその家族の住居になっている。実際にあるのは私とキリの寝室、書斎、それと武器庫と化した空部屋だけだ。東北の棟には、今は父が住んでいる。私が二十歳になったときに、家の主人の居室であるべき東棟を私に譲って移り住んだのだ。しかし、実質的に父が家長であることには変わりなく、家のものもそう心得て仕えている。その並びの棟には昔父の妻妾が住んでいた。キリの母が、キリの妹となる筈だった赤子を死産し、産褥で死んで以来、住人はいないが、私が結婚すれば、私の妻が住まうことになるはずだ。この先そんなことがあるとも思えないが。エンジュが住まうのは東の棟と回廊で繋がれた北の離れの棟の一室だ。別の棟には父のカグワトのクシが暮らしている。最北には仮廟堂と小さな庵がある。


 湯殿は東の棟と回廊で繋がれた離れになっている。湯は朝と夜の二回、男は朝、女は夜が一般的な習いだが、今我が家には女手が無いため、家族が朝、男の使用人たちは夜、風呂を使う。貴人はそれぞれ自分の部屋に小さな湯殿を持っていたり、湯を使うための部屋に湯を運ばせて入るのが普通だが、我が家ではカグワトを除き家族全員が同じ風呂を使っていた。

 父は優秀な武人だったが、一度若い頃に落馬して、腰の骨を傷めている。そのときはなんとか回復したものの、それ以来慢性的な腰痛に悩んでいるし、馬に長時間乗ったりするとかなりの痛みを感じるようだ。最近では同じ姿勢を続けるのもつらいらしい。その腰に効くというので、我が家では特別に蒸風呂用の湯殿を作らせた。外国の習慣だが、書物を参考にクシが作らせたのだ。クシは父のカグワトで、カグワトとなる前には医道を少しかじっていたらしい。

 狭い、木材で打ち張りした石の部屋の中に、焼けた石を入れる室を作り、その石に、薬効のある若木の枝で水を振り掛けて、その蒸気を吸ったり、汗をかいたりして温まるのだ。父はこの風呂に日に何度も入る。クシをこっそり連れることもあるようだ。

 家族がばらばらに入浴するのは不経済だし、面倒だ。朝は使用人たちも忙しいから湯を部屋に運ばせるより自分で湯のある場所へ行った方がてっとりばやい。もともと我が家にいる男たちは皆軍人か退役軍人だ。互いの裸など見なれているし、私の教育方針もあるから最近では皆一緒の風呂を使うのだ。それに、この蒸風呂は私も気に入っているから、父に独り占めさせておく法もない。


 風呂は既に用意されていた。身の回りの世話をさせている従僕が、下着と新しい着物を用意して待っていた。寝ぼけ眼のキリを手伝って着物を脱がせ、先に髪を解いて洗ってやり、体を洗う。終わった頃にはキリも目が覚めていて私を手伝おうとしたが、それは押しとどめて湯船に浸からせた。体を洗っていると、続きの蒸風呂から男が出てきた。父のラオコンだ。

「おじい様。おはようございます」

 キリには私を父、父を祖父と呼ぶように躾た。ややこしい事をしている自覚はあるが、珍しいことではない。湯船から上がって挨拶しようとするのを、父は身振りでおし止める。大柄の体躯、五十を超えてまだ若々しい身のこなし。腰のことさえなかったら、現役最強の武人として今でも最前線に立っていたはずだ。事実、若い頃は腰の痛みなど圧して現場に出ていて、しかも向かうところ敵無しだった。無理が効かなくなった体に一番もどかしい思いをしているのは彼自身のはずだが、そんな苦悩はおくびにも出さない。相変わらず陽気で、魅力的な男だ。

 見ると確かに美形とは言えない。厳しい目と、個性の強い顔立ちをしている。宮廷の優男たちのように口が上手いわけでもなく、洒落めかしていることもなければ礼儀正しくすらない。しかし何故か女たちは一様に彼に骨抜きになるし、兵士たちは心酔し命をかける。その魅力は年を経ても変わらず、現場を退いて尚、一層強くなったようだ。

 子供の頃は、私もその魅力に夢中だった。自分は息子なのだから誰よりも愛される権利があるはずだと信じていたし、気に入られようと懸命だったが、結局彼という男は本当の意味で誰かのものになったりはしないのだと悟って、空しい努力は終わったのだった。

 そうして諦めてから父は、常に私の劣等感を刺激する、煙たい存在となった。父の前に出ると、いつも自分を不器用で、堅苦しく、不様な男だと感じた。一般の男が強権的な父親に対してやるように、嫌うか憎むかすればいいのだろうが、そうするには父は魅力的すぎる。結局私は軽い反発心を抑えこむことで父に相対する。

「おはようございます、父上」

 挨拶して、介添えしようと立ち上がるが、父は断って手早くかけ湯を使い、湯船に入った。腰に悪いので水は好まない。

 父が隣りのキリに向かってにっこり笑うと、私の息子も笑い返した。やはり親子だ、顔の造作はあまり似ていないのに、零れるような愛嬌という点が似通っている。同じ父の息子のはずなのに、私には無いものだ。

「忙しそうだな、ハンユ。昨日も帰りが遅かったようじゃないか? 」

「は…、あ、父上有難うございました、留守中にムトウのことではお手数を」

「いや、大したことじゃない。夕食を一緒にしただけだ。なかなか面白い男じゃないか。お前はムンナイトの刀剣に興味があるようだな」

「はい。気品がありますし、殺傷能力に優れますから」

「片刃の両手剣となるとかなり使い方も変わってくるが」

「それは承知しています。騎馬戦には向かないでしょうが王太子の近侍の者に持たせてはどうかと考えています。師にも心当たりがありますから」

「お前はムンナイトまで行ってそんなことばかりしてきたのか」

 父は溜息をつく。

「そんなことばかりとは」

「儂はまた、お前があっちの美人でも連れかえりはしないかと期待していたんだが。あそこの女は開放的だ」

「そんなことをしに参ったのではありませんから」

「お前のような身分では、シュクラでは軽軽しく廓にもいけないだろうが、旅先ならば多少破目をはずしても構わんだろう。シュクラの男は大概外国ではもてるものだぞ。お前は金も名もあるし、儂の子であるからには男ぶりだって悪くは無い」

 金も地位もあったってふられるときはふられるのだ。そんなことは10年以上前に痛感している。

「王太子はまだ子供だから東宮には女官がたくさん勤めているだろう。宿直のときなど誰ぞ忍んで来はしないのか」

「父上。東宮の女官にそのようなはしたない浮かれ女はおりません。あまりそう軽軽しいことを仰いますな」

 多少腹も立ってきたので咎めるように睨むと、さすがに溜息をついてやめてくれた。 

「秋波くらいは送られとるかもしらんが気付かんのだろう、お前という男は鈍いからな」

 さらりと心外なことを言う。人の気持ちに無頓着なのは父の方じゃないかと私は思う。自分の魅力にあぐらをかいて、他人を好きなだけ振りまわして生きている。愛人を何人も持って子供を何人も産ませて、それなのにどの妻妾にも愛されていた。世の中には、そういう人間がいるのだ――不思議なことに。

「アユーシのこととて、あれも大変な跳ねっ返りではあったが、お前には似合いの娘だった」

「彼女のことを跳ねっ返りなどと。私の身には余るような、たおやかな、しとやかな美しい女性でしたよ」

 会ったのは実質二回に過ぎないとはいえ、彼女は生涯初めて妻と考えた女性だ――結局は逃げられたとは言え、それは要するに私にななにか彼女を失望させるようなところがあったせいなのだろう。今にしてあのときの沈んだ様子が気にかかる。

「身に余るとは大げさな男だ。手に余るならわかるが。だからお前は女がわかってないという」

 父は素っ気無く言い捨て、私の反論を遮るように話を変えた。

「王太子と言えば、そろそろ堅信式の時期だな――ああ、だからお前が忙しいのか」

「もう残すところ半月もありません。しかし先日留守にしたのは、狩り場の下見に参ったのです。もう明日になりますから」

「そうだったな。今回は陛下は参加なさらないんだったか」

「そうです。王太子殿下に花を持たせてやろうと言うお考えでしょう。儀式を控えて窮屈な思いをなさっていますし、気晴らしになるでしょうから」

 春の狩りは王宮恒例の行事だ。獲物を供物に秋の豊穣を祈る儀式は、王家の義務だ。

 王が参加すれば王太子は役割柄、狩りはせず王の介添えに廻ってしまう。それはそれで大事な役柄だが、思うままに馬を駆ることも出来ないのも事実だ。それに、王が参加するとなれば朝廷の歴々も伺候することとなるから、雰囲気もどうしても堅苦しくなる。そのため、今年の狩りは若いものが中心となって進めることとなった。ここで活躍すればもうすぐ成人を迎え、東宮付きの臣を持ち始めるだろう王太子の目に止まって抜擢を受けるかもしれないという期待もあり、貴族の子弟や腕に覚えのある武人など一様に逸っている。

 私は王太子に狩り場の段取りを任されたので、先日はその下見のために泊りがけで、厩舎や休憩所の手配、仮の狩屋の設営など最終確認をしてきたのだ。今年は気候が良かったのもあり、雪解けは早く、若葉の芽吹きも早かった。森は豊かで管理も行き届き、美しい。鹿の親子を見かけもしたし、森番は良い仕事をしているようだった。狩りの収穫如何は運にかかってくるだろう。

「狩りには女たちも参加するだろう、昼食を作るのに」

 父がまた話を蒸し返す。

「父上……」

 私は溜息をついて言った。

「あの、世の中には父上のように黙っていても女の寄ってくる男もいれば、その逆の男もいるわけでして、私は残念ながら後者の方なんです。いいじゃありませんか、跡取の心配ならばキリを養子にしているわけですし、これは立派な武人になりますよ」

「あのなあ、お前、自分に寄せられる好意とやらを、リンホアを基準に判断しているんじゃないだろうな? あれはなんというか……お前に関してはかなり特殊だったぞ」

 また、無神経に人の古傷を抉る。これでどうして女に好かれるのか全くわからない。

「特殊だなどと。あれは優しい、慎ましい、大人しい理想的なカグワトでした。一生懸命仕えてくれた。私はあれを六つのときから大切に育てたんです。父上に何を言わせるつもりもありません」

「カグワトと言えば――」

 鉄面皮の父は動じない。

「お前、エンジュをちゃんと可愛がってやっているんだろうな? 随分寂しい思いをしているようだと、クシが言っていたぞ」

「叔父上が、そんなことを? 」

 クシは正確には私の叔父とは言えない。父が二十代半ばの頃に、まだ存命中だった祖父の養子に貰ってカグワトに迎えた赤の他人だ。しかしよく出来たカグワトらしく、私は彼の顔を見たこともない。ひっそりと、厳しい潔斎に毎日を過ごしているようだ。父のような戒律破りの道楽者が、今の今まで神罰も受けずに無事で暮らして来れたのも、一重に彼のお蔭だと私は考えている。

「昨日は一緒に寝てやりましたが……」

 上の空で応じ、父に頼みこむ。

「しかしこれから一層忙しくなるので思うようには会いに行けなくなるかもしれません。叔父上にはまたエンジュを見舞ってやって欲しいとお伝え願えますか」

「それは構わんが……」

 父はそろそろ出ようという素振りなので、ちょっと手を添えて助けてやる。

「ハンユ、リンホアのようなやり方はあれには出来ないとは言え、エンジュは確かにお前を好きだし、役に立ちたいと一生懸命だぞ」

「それは判っています……」

 湯殿を出ていく父を見送りながら答えたが、本当に判っちゃいなかったと気付くのは、またずっと後のことだった。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ