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エンジュ  作者: PK23
7/21

07

 青い瞳にリンホアのことを思い出す。リンホアはほっそりした、華奢な体つきをしていた。抜けるように色が白く、頬だけがいつも紅を刷いたように色づいていた。そんなに色白なのにそばかす一つ無い。唇は薄紅色、飴玉のように甘いんじゃないかと思わず舐めてみたくなるような色と形をしていた。背中まである髪を、いつもは細かく編んで布に包んでいたが、それが勿体無いような白金だった。普段は隠してはいるが二人きりになると布を取って髪をほどく事を許してくれる。細い髪は煙のように肩を覆い、夢のように美しかった。


 リンホアが死んだのは、一昨年の冬だ。私はその頃まだ東部にいた。


 将軍である父の部下として――といっても父は都にいたままだったのだから、事実上私が責任者だった――東部イシュク山脈に接する国境警備についていたのだ。辺境の小さな村落は、度々山岳民族の襲撃を受けていた。それらの少数民族を平定し、同化するのが私の受けた王命だったのだ。砦も何度か襲撃を受けたが、そのたびに撃退し、捕虜をもてなし、援助を約束し、粘り強く交渉を続けたお蔭でなんとか族長たちを地方豪族として傘下に収める事に成功した。本来私は生粋の武家で、そういった交渉事は得手ではないから、非常に骨の折れる仕事だった。

 しかし少数民族を押し包んで殲滅するようなやり方は取りたくなかった。そういう法を取れば誇り高い山地の男たちは最後の一人まで戦おうとするだろうし、そうすれば働き手を失って女子供は路頭に迷う。シュクラの軍にそれだけの余剰人員を食わせる余裕は無いが、見捨てることはなおさら出来ない。独特の厳しい地形に、すぐに平地の人間を入植することは恐らく無理だし、そうなれば土地は荒廃し、一帯が飢餓に襲われる恐れもある。逸る兵士を抑え、弱腰を罵られながらも、辛抱強く折衝を繰り返した。

 ただ、幸いしたのは、山岳民族の素直な英雄崇拝の習慣で、私の武人としての実力が、彼らを納得させ、敬意を抱かせる説得力となった。彼らは強い体そのものが、即ち神と自然からの祝福であり、正義の証だと考えるからだ。ようやく万事落ち着いて、報告の為にシュクラの王都に戻った私を迎えたのは、リンホアの死という事実だった。


 王都を空けたのは一年半ほどだったが、リンホアが死んだのはその一年をようやく過ぎた頃だったらしい。仕事に障るといけないからハンユには知らせるな、とはリンホアの望みだった、と父は言った。

 確かに、知らされれば私は王都に戻らずにはいられなかったろうし、酷く動揺もしただろう。あの一番大事な時期に、王都までの長い旅を私事の為に往復していては、士気も下がったろうし、掴みかけていた族長たちの信頼や信用を失いかねなかった。それは真実私を心配しての心遣いだったし、カグワトとして正しい判断でもあったろう。それでも私はリンホアの配慮が恨めしかった。

 遺体は神殿の僧侶に処理されて、既に仮埋葬されていた。私は盛大に葬儀を執り行い、リンホアの魂を慰める事に心を傾けた。その喪中、父から突然呼び出され、エンジュを次のカグワトに迎えるようにと命じられたのだ。


 カグワトは、もう二度と持たないつもりでいた。それなのに、父は突然新しいカグワトを持てという。驚いたし、抵抗を感じもした。

 父が少し前にしばらくハユルにいた事は承知していたし、当地で派手にやっていたらしい事も耳にしていたが、弟がいたなどとは寝耳に水の話だった。しかも、もう十六にもなるという。

 その一年前に母を無くして身寄りも無く、青楼に屋根を借りているという話を聞いて、私は慌てた。カグワトに迎えるかどうかは別としても、弟をそんなところに置いては置けない。キリを息子として引き取ったのも、父の保護者としてのだらしなさに不安を覚えたからに他ならないのだ。そもそも男子の養育に責任を持つのは父親であるべきなのに、父という男は私を母に預けっぱなしでその責任を殆ど果たさなかった。育児にあまり興味が持てなかったのだろう。幼い頃にその母も亡くしたが、父には相変わらず冷淡に扱われた覚えしかない。そもそも彼は家にいつかない男だった。

 幸い、母は生前よく気をつけて、自分の親族から優秀な男を選んで教育係につけてくれたので、私もなんとか一人前に成人できたわけだが、普通、父親が死んでもいないのに、息子の教育を他人が行なうなど恥かしいことだ。お蔭で精神的には鍛えられたようにも思う反面、本来ならしないですむ余計な苦労をさせられたような気もする。良し悪しは半々だ。

 ただ、私は弟たちをそのように育てるつもりは無かった。きちんと教育し、将軍家の男子として恥かしくない教養と実力を身につけて社会に送り出してやりたかった。キリはそのつもりで育てているし、他のもっと大きい弟たちには株や家名を買ってやり、仕事を世話し、把握している限りの妹たちにも婚家で苦労しないよう出切る限りのことをしてやっているつもりだ。

 しかし、まだ私の知らない弟がいたとは。 

 リンホアの死のもたらした悲しみに沈む間も無く新たな問題を抱え、頭が痛かったが、仕方が無い。当時王太子の親衛にと望まれていたが急遽それを保留にさせてもらい、私はハユルに旅立つ事になった。


---


 ハユルはシュクラの東南、美しい商業都市だ。港には周辺諸国から様々な商品が集まるから当然、それを運んでくる男たちを相手に花街が発達する。

 表通りの茶屋に入って少し休み、女将を相手に世間話をするうちに、エンジュの居所はすぐに判った。母の名前は高嶺の花としてあまりにも有名だったし、エンジュ自身も名手の楽人として引っ張りだこの売れっ子だったからだ。エンジュが屋根を借りているという娼家は花街一の大店だった。

 尋ねていってエンジュの兄だと名乗ると、最初は笑い飛ばされた。そのむさくるしい容子で、美貌で知られるエンジュの兄だなどと図々しい。私もそうは思ったが兄弟なのは本当だから仕方ない。どうすれば証明できるかと悩んだが、そのうち古株の一人が父のことを思い出したらしい。そう言えば似てらっしゃるようだといいながら、エンジュを呼びにやってくれた。なんだかんだと適当な事を言って、評判の美妓を一目見ようと画策する輩は、私が想像するよりも多いらしい。世の中暇人ばかりだ。


 旅装も解かないまま訪れた私のような野暮天は、本来その娼家の敷居もまたがせてもらえないのだと聞かされて、恐れ入るしかなかった。ハユルのような土地柄では、名妓は男の機嫌など取らない、客のほうで妓の機嫌をとるものなのだ。

 ちょうど間が悪かったらしく、私は随分待たされた。相手をしてくれていたお茶挽きが、エンジュは今旦那になるかもしれない大事なお大尽の相手をしているから、使いに出した小者もなかなか言葉を伝えられないでいるのでしょうと気の毒そうに言う。

 それを聞いて、逆に居ても立ってもいられなくなった。そのなんだかしらないが弟を引き取りたがっている男を一目見ないではいられない。ちょうどいい、今度そんな好機があるとは思えないから陰からでもちょっと透き見をさせてくれと頼み込んだ。

 そんななりの男を館内でうろうろさせられないなどと言う女に、面倒くさくなって金袋を丸ごと与えた。遊び慣れないのは否定できないがさすがに花街に全財産持ってくるほどの馬鹿ではないから、その晩だけに必要な分をわけて懐に入れてあったのだ。残りは信頼する従者に預けて宿に待たしてある。女はこんな無粋な男がエンジュの兄だなどと信じられないと言いながら、それでも五日分の実入りには相当するだろう財布の重さが効いたのか、流連客の使う内風呂を支度してくれた。当然のように手伝おうとする女を断り、手早くからだを洗い、乱れて埃まみれだった髪を漱いで結い直した。旅の間ろくに手入れもしないでいた髭を綺麗にあたって、女の用意した客用の内着を身につけた。

 そうして出ると気分がさっぱりしたのもさることながら、急に先ほど私の様子がむさくるしいと笑っていた女たちが寄って来て、こんないい男だったなんてなどとちやほやするのが可笑しかった。先ほどのお茶挽きが金離れの良いことを言触らしたのだろう。廓の女の現金さには、裏表が無くて判りやすい。いっそ気持ちが良いほどだ。

 各々が急に私を寝所に引き入れようとするのを苦労して断り、エンジュの居場所を尋ねると、妓の一人が手を引いて案内してくれた。


 エンジュは同じ館内の、離れの一つのホールを借り切って、男を接待しているという。ハユルの娼館の仕組みは、初めてのものには判りにくい。訪れる方は金だけ払って楽しんでいれば良いのだが、妓女の方は、男を満足させて金を引き出すのに様々な手配をしなければならない。

 ハユルの妓女は、最下層の単純に春をひさぐ女たちは別として、それぞれ特技で男を楽しませる、独立独歩の商店主のようなものだ。大半が、幼い頃に売られて来た女たちがそのまま妓女として教育され、育てられたものだ。しばらくは見習として宴席に侍って働きながら、自分の借金を肩代わりする男を捜すのだ。女たちは固有の娼家に所属して、借金を抱えている事が多いがその娼家の奴隷としては扱われない。自分できちんと客を捕まえて利子をつけて借金を返す。決められた期日内に返せないと、もっと下層の娼館へ売られてしまうから妓女たちも良い客を捕まえるのに必死だ。借金を返した後も、男の家に引き取られる例は稀で、普段は置屋に住んで、男が来た時だけ、もてなすのに楼閣を借り、料理や酒を出前させ、同僚を雇って宴を盛り上げる。

 ハユルを含め、シュクラの家庭は非常に閉鎖的で、妻女は殆ど表に出ないし、同僚や友人同士で家を訪問しあうという習慣も無い。地方や他国から出てきた商人などは、家庭が地元にあっても殆どが単身赴任で、借りている家屋敷に女手が無い場合が多いという側面もある。

 だから男が商売相手をもてなすときには外で宴を張らねばならない。そのため、そういった手配を全てまかすことができて、主人役として客をもてなしてくれる妓女は欠かせない存在だ。ハユルのある程度以上の地位の男にとって、花街に馴染みを持つことは、嗜みの一つとなっている。

 評判の才女を馴染みに持てば、同僚にも羨ましがられるし、客にも面目を施す。

 そういった意味で、ハユルの花街は王都のそれとは大分趣きを異にする。男が自分のごく私的な欲望を満たすために赴くだけではなく、ある程度の社会的役割を果たしているのだ。

 良い楽人は引っ張りだこだし、楽人自身も名手となるとどこかの大人の保護を受けたり、囲われたりが一般的だ。

 エンジュのお大尽とやらもその類なのだろう。

 楽しそうな女に手をひかれて柱廊を巡った。宴席のざわめき、馬鹿騒ぎが遠く聞こえる。

「ねえ、旦那様。お名前を伺ってよろしい」

 私の手をひいていた女が問うので名前を教えてやる。花色の下着の上に薄物の上着を重ねた姿が艶かしい。

「エンジュにお会いになって、その後はどうなさるの」

「宿に帰るつもりでいるが……」

 そう答えると、女は笑って有名な詩を1節歌った。妾しの部屋へいらっしゃれば明け方に咲く珍しい花をご覧にいれる、というような意味の、廓では使い古された誘いの歌だ。返歌の方も知られているのだが、私はそういう遊びには慣れていない。口篭もっているうちに女のほうでは脈がないと踏んだのだろう、エンジュの歌のほうが悔しいけれども上だわね、などと言ってさっさと手を離してどこかへ行ってしまった。せっかく粉をかけてやったのに、田舎者に袖にされたというので気を悪くしたらしい。実際私が住んでいるのは王都だが、感覚から行くとまあ、田舎者だったろう。

 しかし柱ばかりが立つ回廊の真ん中で放り出されて私はしばし途方にくれた。今更もとへ戻って再び案内を乞うのも間が抜けた話だ。

 そのときふと、柔らかい歌声を聞いた。


 岸辺に柳は美しく、高楼の影は煙のよう

 霧は川面をひたひた覆い、釣り人の面に花弁を落とす


 エンジュの声ではないか、と直感した。どうしてかわからないが不思議な懐かしさを感じたのだ。どちらにせよ、誰かしらにエンジュの部屋を聞きたかったところだ、ひかれるようにして声を辿った。

 歌とともに琴の音が流れてくる。暗く、同じような部屋の前を幾つも通り、もうどちらの方向からきたのかも良く判らない。

 行きつく先は回廊の端だった。良い香りのする蝋燭がふんだんに灯され目にもまばゆい。暗い廊下からは入り口の御簾越しに中が良く見えた。

 琴を抱いた少年が部屋の中央に佇んでいた。金糸で縫い取った綺羅の上着に黒い下着、春だというのに毛皮で縁取られた長い裾。贅沢に着飾った技芸神だった。

 エンジュだ、と今度こそはっきり悟った。廓一の美妓だというなら彼以外に無いだろう。これ以上の美貌が他においそれとある筈が無い。


 魚は柳の根元に眠り、枝をかすめて船は行く

 夜半雨は降り止まず、ふと目覚めては憂いに沈む


「ああ、良かった、エンジュ。素晴らしい」

 歌い止むと、少年の前にしつらえられた寝椅子の上に寛いだ男が手を拍いた。禿げ上がった中年男だ。こちらからは側頭部しか見えない。

 では、やはりこの少年はエンジュなのだ。私の弟。息をひそめるようにして御簾越しに見入る。髪には宝石を編んだ帽子を飾り、薄化粧を施した顔は、花のように上気していた。とろけるような媚びを含んで笑んでいる。

「エンジュ」

 男が手を延べてエンジュの腰を抱いた。

「次は、恋の歌を」

 エンジュはされるがままに男の膝に腰掛けて、また歌い始めた。先ほどとはうってかわってあけすけに男女の交歓を歌ったものだ。内容に関わらずその声に微塵の動揺も無いが、男の手が不穏に動いているのが肩の揺れで判る。

 私は我慢ならなくなった。

「エンジュ! 」

 御簾を剥ぎ捨てるようにめくって中に入った。その場の光景に脳溢血を起こさなかったのが不思議なくらいだ。エンジュは男に殆ど下着姿同然までに剥かれてその裾から手を突っ込まれて腿を擦られていた。

「エンジュ!」

 もう一度怒鳴りつけた。どうしたいのかよくは判らなかったがとにかく二人を引き離したかった。

「そこから下りなさい、みっともない! 」

「――おじさん、誰? 」

 エンジュは唖然、といった口調で目を見ひらいてそう呟いた。

「エンジュ、あなたの知合いではないのかね」

 男が入れていた手を抜いて、エンジュの裾を整えてやりながら穏やかに尋ねる。エンジュは首を振った。

「では、あなたが袖にした男が、逆上して怒鳴りこんで来たというわけではないのか」

「私はそんな者では無い! 」

 男のにやついた顔にむかむかして私はきっぱりと言った。エンジュは身軽に男の膝から飛び降りる。下着はたっぷりした緋色の絹、透かしの飾りが艶かしい。

「そんななりで、いつまでも。上着を着なさい」

「君、失礼じゃないかね、名乗りなさい」

 エンジュを叱りつける私に男が厳しく誰何する。当然だ。私も相当頭に血が上っていたらしい。息を吐いて必死に気を落ち着ける。

「失礼した。私はイン家のハンユ……シュクラ東方大将軍下第一大隊隊長……」

「兄様っ!?」

 後から考えると廓でくそ真面目に正式な名乗りなどする必要も無かったのだが、一応尋常に名乗りを上げようとした私を遮って、エンジュが声を上げた。

「兄様、ほんとに兄様? ハンユなの? 」

「そ、そうだ……」

 たじたじとなって肯く。エンジュは喜色満面といったところで、先ほどまでの淫靡な雰囲気が嘘のよう、子供のように嬉しそうだ。

「帰って! 」

 突然また声を上げるから、私に言ったのかと思ったがそれは違った。

「グィノー様、今日はもう帰って」

「エンジュ! 」

 情け無い声を上げたのは禿げ男だ。

「それは酷い、あまりに情け無い、つれない仕打ちだ。今夜の為に私が幾晩待ったと思う」

「ごめんなさい。兄が参りましたので」

 ようやく男を見てエンジュは嫣然と微笑んだ。その笑顔は男の逆上を煽ったようだ、声を荒げて言いつのる。

「兄などと嘘だろう、そんな話は聞いたことが無い。その男のせいか、こんなに尽くしているのに、その男の方がいいと言うのか? 」

「つまらないことを仰らないで、無粋な方」

 声は甘ったるく、顔はまだ微笑んでいるのに、口調ははっとするほど冷たかった。男は打たれたように言葉を止める。

「すまなかった」

 項垂れて立ちあがるのを、優しく微笑んでエンジュは送り出す。

「この埋め合わせは、必ず。ね、グィノー様」

 少し離れて立ち止まった男が、そんなはかない望みは持たないと恨み言を言うのが聞こえた。

 男を送り出してエンジュはすぐに戻って来た。

「あー、すまない、客を……」

 少し頭が冷え、口篭もりながらも謝らなければと思った。彼は自分の仕事をしていたわけだし、それを邪魔したのは事実だ。

「いいえ。兄様、お会いしたかった……! 」

 言うなり、エンジュは伸び上がって私の首に噛り付いた。いくら鍛えていてもいきなり全身でぶら下がられては思わずよろめきもするものだ。

「エ、エンジュ……」

「お手紙を読みました。エンジュを迎えに来てくださったんでしょう。もう用意は出来ています。送って戴いたお金を貯めてましたから、かあさんに借金もありません。発ちましょう、すぐ発ちましょう」

「いや、そんな急には。私も今夜着いたばかりだし」

「あ、お疲れですよね、ごめんなさい、気が急いて。でも」

「ちょ、ちょっと落ち着きなさい」

 エンジュの腕をもぎ離して距離を取った。少し、慌てていた。もっと慎重に、或いはもったいぶって、ことは運ぶと思っていたのだ。身分を証明する為の印章や紹介状は宿の従僕に預けてあるし、父からの手紙も携えていた。妓楼の主人にももちろんきちんと挨拶して借金、礼金を払って、正式に弟を引き取るつもりでいたのだ。今日来て明日発つなど、場末の格子女郎じゃあるまいし、そんな簡単に済むほどハユルの芸妓は安く無いはずだ。

「待ちなさい、エンジュ。そんな、初めて会った男をすぐに信用してしまっていいのか。兄と偽ってお前を連れ出して、遠くの廓に売り飛ばすつもりかもしれないんだぞ」

「エンジュの兄様はそんなことはなさいません」

 にこやかに、かつきっぱりと言い切られて天を仰いだ。よくもこのように信じやすい人間が、生き馬の目を抜く花柳界で生き残って来たものだ。もともと引き取るつもりでここを訪れたのだが、直接会って一層その気持ちが強くなった。本当は良く考えさせるために時間を与えようと予定していたが、こうとなると気が変わらぬうちに連れかえった方が良いかも知れない。

「よし、判った。すぐに帰ろう。しかし、その前に二、三確認しておかねばならないことがある」

 エンジュの肩を掴んで言い聞かせる。

「まず、カグワトについてだ。手紙にも書いたが、お前のことは私のカグワトとして迎え入れることになるだろう。カグワトが何かは知っているな」

「はい、兄様」

 エンジュは肯いて笑う。

「こちらにいらっしゃる方には御武家さまも多いですから、軍記物も多く習います。そういった話には、カグワトは良く出てきますから……」

 英雄譚には美化されたカグワトと英雄の逸話が良く出てくる。歌舞音曲は娼妓と聖職者のものだが、普段は折り合いの悪い両者もこれに関してはともに同じ歌を歌う。神殿側はカグワトの習慣の称揚のため、そういった詩や歌を積極的に作り出しているし、娼妓は美女と英雄の恋物語と同じくらいに受けがいいから新しい歌や詩が出ると必ず師匠に習う。自分を殺して主人に仕えるカグワトの、共通する物語の骨子は、シュクラの男には子供の頃から馴染んだ話だし、一様に好まれる類型だ。カグワトでなくとも、自分の仕える主人に身を捧げるのが、シュクラの男子の美徳だからだ。

「カグワトは、結婚も出来ないし、気軽に外も出歩けない。人にも滅多に会えないし、物見遊山も気晴らしもない。それでもいいのか」

「今だって、花街の外には滅多に出られないし、結婚など望むべくも無いし――そう変わるとも思えません。今はまだしも、どこかのお大尽に落籍されればきっともっと不自由な立場になるのは分かっています。それに、兄様はエンジュを大切にして下さるのでしょう。歌ではいつもそうだもの」

「もちろんだ。お前は一生私が見る。私が死んだ後も家のものが生活の保証をするだろう。安心して委ねてくれて構わない」

「はい、兄様」

「エンジュ、これからはハンユと名で呼べ。お前は私の弟ではなく、カグワトになるのだから」

「はい……ハンユ」

 エンジュは肯いてはにかみながら私の名を呼んだ。

 そうして、エンジュは我が家に来たのだ。














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