05
ぐずるエンジュを宥めなんとか北の屋を抜け出した。
あまり大げさにするつもりはなかったから、二頭引きの地味な馬車を仕立てさせて町へ出る。ムトウに勧められたとおり、キリを伴っての三人連れだ。まず港を見せて、ついでに彼の荷物を当家の寮へ運び入れる手配をし、それから市に廻って約束した商工会の会頭に紹介するつもりだ。もう、先方にも報せをやってある。
しばらく、膝にキリを抱えて、車窓から外を見せてやっていた。
「あの、先ほどは――昨夜は、とんだ失礼を。カグワトについての心構えが無かったものですから、つい邸内を散策などして」
街並みを眺め黙っていたムトウが、口火を切る。シュクラのカグワトの習慣は諸外国にあまり知られてはいないが、さすがに貿易商として小耳に挟んだくらいの知識はあったものらしい。
「せっかくの潔斎を汚してしまったのでなければよいのですが」
「あまりお気に病まずに。もうお忘れ下さい」
苦笑していなすと、今度は好奇心は抑え切れないようにこちらに身を乗り出してきた。
「私の聞いたところでは、カグワトとは生まれたときから一室にこもって誰にも会わないものだとか」
「それは正確では無い。生まれたときからカグワトになるのがわかっている場合でも、誓約の儀式を行うまでは俗人です。家の中を自由に行き来し、外出もし、教師について勉強をしたりもします。カグワトとなってからも例外的に僧侶を招いて式典の次第や作法、経文の読み方を習ったりすることもあります。しかし、大抵はそれらしい育てられ方をするものですから、楽器など奏すことはほとんどありません。ただ、エンジュは、生まれたときからカグワトとして育てられたというわけではないので――もともといたカグワトを病気で亡くしたので、ハユルで楽人をしていたあれを新しく迎えたのです」
最初のカグワトはリンホアと言って、私のすぐ下の弟、このキリの母の姉の子だった。リンホアは生まれた時から私のカグワトで、私が六歳のときに生まれた、腹違いの弟だ。細く柔らかな髪、青い目、少女のように愛らしい子供だった。私は彼を愛した。
リンホアは一生お前に仕えるカグワトだから、と、父は、母親を亡くした幼い弟を、私に任せてくれた。小さい頃には稚く、甘えたがりの子どもだったが、私のような頼りない人間に育てられたせいか早熟で、彼が十三の時にカグワトに迎えた時には当時十九だった私などよりは余程大人だった。カグワトとしても完璧だったし、家に帰ればリンホアがいるということ、そのものが、当時初めて部下を持ったばかりの私の心の支えになっていた。
もともとカグワトにはそういうところがある。妻でさえも夫一人のものには成り得ないのに、カグワトは主ただ一人に属するだけの存在だ。
「楽人でらした。それであの素晴らしい琴の音なわけですね」
「さあ、私などは無粋なものですから、琴の手の良し悪しなどわかりません。名手と評判ではあったらしいが」
「それは勿体無い、あれほどの技芸と美貌を」
確かに勿体無いのだろう。私は楽など嗜まないし、廓出のエンジュを楽しませる程の粋人でもない。私が兄としての立場ではなく、ハユルの廓に遊びに出たら、無粋な浅黄裏として洟も引っ掛けてもらえなかったろう。
「勿体無いなどと。カグワトという存在の重みを、他国の方にご理解頂けないのは仕方ないが」
つい、不機嫌な声音が出た。この後ムトウがこの国で商売を始めて、世間話にでもエンジュの前身について吹聴されても困る。ただでさえ、エンジュをカグワトとして引き受けるにあたっては、神殿側に厳しくその節制を戒められているのだ。
「不謹慎な言い方で、お気障りでしたら、謝罪します」
「いいえ。私の方こそ、失礼を」
気まずそうに謝罪するムトウに、感情にまかせて非難がましい口を利いたのが恥ずかしくなったが、そのとき、膝の上のキリがはしゃいだ声で港が近いことを伝えたので、そんな空気もすぐに掻き消えた。
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「エンジュはね、綺麗なものが好きなんだよ。別に宝石とかの価値はそんな重要でもない」
キリが偉そうに講釈する。
私自身はエンジュを思うほど構ってやれないので、替わりにキリがエンジュの部屋への出入りするのは黙認していた。まだ子供だし、次期のイン家の当主だ。キリは年より利発だし、話し相手として退屈なことも無い。気もあっているようだ。私にはわからない、エンジュの趣味などもよく心得ている。
知己の商工会議所の理事は両替商で、為替や貨幣そのものの他にも、金銀細工の装飾品や祭礼器具なども扱っている。それらのものからエンジュの為に、何か土産になるようなものを選んでやっているところだった。
ムトウも一緒だが、今日はまだ顔合わせなので仕事の話は無い。夕食を一緒に取ろうという話になったので、時間までくつろぐようにと勧められた、その暇潰しだ。
両替商自身は店に戻ったが店員を寄越してくれ、次々と目の前に商品を並べる。しかし、エンジュが何を喜ぶのかよく判らない。大体、こういった品々は、綺麗だとか可愛らしいとかいまいちよくわからない特性で好まれたり嫌われたりするので、興味の無い人間には判断がつきにくい。刀剣ならば私にも良し悪しはすぐに判るし、大体切れ味が鋭いとか、持った時に軽いとか、反りや形、大きさなど、好き好きはあるとはいえ一応の客観的な判断事項となるものがあるけれど、宝飾品にはそれが無い。手っ取り早く高価なものならば質も良いだろうと端的に考えると、やれ宝石が大きすぎて品が無いだの野暮ったいだのとキリは文句をつける。要するに私はあまり趣味が良くは無いらしい。じゃあお前が選んでやれと言うと父様が選ばないと意味がないでしょと生意気をいうので、頬を軽く抓ってやった。ムトウは笑いながらそれを見ている。
「私はいつも拙い選択をするらしいんだ、こういったものに関しては。エンジュはあまり喜ばない」
ムトウに向かって言い訳する。
「だって、父様はいつも店の人の言いなりに一番高いものを買わされてるだけじゃない。エンジュの欲しいのはそういうんじゃないのに」
キリは不満げに頬を擦りながらそう言う。
「では、私もあの麗しいカグワトに贈物を選びましょう。構いませんか、閣下」
ムトウが身を乗り出して尋ねるのに、助かります、と答えた。エンジュが喜ぶのならこれ以上のことは無い。
「カグワトの暮らしをうかがうに、さぞお退屈だろうと拝察いたしますので……ああ、良い心当たりがあります。今手元にはありませんから、明日、届けさせましょう」
ムトウはにっこりと笑う。丁度その時、仕事を切り上げた両替商が入ってきて、その話はそれきりになった。