04
北の奥庭は、リンホアがまだ健在の頃、その無聊を慰めるため、特に華やかな花や実のなる鑑賞用の木を選んで整えた。リンホアをカグワトに迎えた時、もう十年も昔の話だ。新しい主人が庭にはさほど興味を持たないせいか、その様子は大きな変わりも無く、懐かしい。その庭の奥からは、再び琴が聞こえ始めていた。
廊下伝いに北の屋に入るなどという手間は取らず、庭を突っ切って琴音のもとに向かう。
「エンジュ!」
怒鳴りつけると、ぴん、と琴の音が止んだ。エンジュは――私のカグワトは、面衣も被らずに中庭にいた。背は私の喉のあたりまでしかないが、立ち姿もすらりと均整がとれている。カグワトの作法にのっとって、髪を結い上げずに切り揃え、しかしこれは無作法に肩に散らしているのが、ひどく色めいて見えた。
「ハンユ……」
ばつが悪そうに私から目を逸らした。
我が弟ながら、呆れるような花の美貌だ。生前は国でも一、二を争う名妓としてその美貌を知られていた母に似たのだろう。私自身は結局、その佳容を拝む機会もなかったが。父が器量好みで女を択ぶせいか、母を異にする弟妹達は揃って美形だ。一番小さなキリにさえ、その片鱗がすでに仄見える。
エンジュは、カグワトの作法に倣って白いたっぷりした上着を身につけていた。だが白は白でも白絹で、羅紗の上着の銀の縁飾りに質の良さばかりが強調されて、色目のあるものよりよほど贅沢に見える。おまけに艶かしい光沢の下着の襞が、肌蹴た上着の下からだらしなくこぼれ出ているのが、カグワトと言うよりは起抜けの娼妓の様だ。
「エンジュ、なんだその身装は。そのように裾を乱して。みだりに鳴り物などに興ずるなと何度言えば判る。髪も編んで布に包め」
「一体いつ帰ってきた――」
「今朝早くだ。さあ、早く中へ入れ。お前、他人に姿を見られたんだぞ。恥かしいとは思わないのか」
急きたてて庭を突っ切り北の屋へ入った。エンジュの部屋は相変わらず雑然として、寝台の乱れも艶かしい。
「今朝って。おれ聞いてない。なんで? 長く留守をしたあとに主人が一番に訪れるのはカグワトのはずだろ」
「それは、カグワトが主人の留守の間精進潔斎して無事を祈っていたのを労う必要があるからだ。私の留守をいい事に、琴をかき鳴らしていたお前にどうして挨拶せねばならん」
意地悪く言ってやると、悔しそうに涙を浮かべたので、さすがに後悔した。エンジュの泣くのに私は弱い。女を泣かしたように後ろめたくなるからだ。慌てて宥めにかかる。
「すまない、言いすぎた。今朝は客が来ていたのでついそちらを優先してしまったが、決してお前を軽んじたわけでは無い。しかしお前も悪い。昨夜、琴を弾いていただろう、それに惹かれて客がこの庭まで入って来たんだ。他人に素顔を見られるなとは、カグワトになって一番最初に教えられる作法だろう」
エンジュはばつが悪そうに目を逸らす。その頬を軽く叩いてやる。
「カグワトが静かにしていなければならない理由が、これでわかったろう。折角の潔斎をみだりに汚されて。家のものしかいないときならばまだ良いが、他に客を招いている時には控えてくれ、わかるな」
そう言いきかせると神妙に肯いた。
「客が帰ったら、また弾いてもいい。ほんの少しの辛抱だから。さあ、機嫌を直してこちらに来て髪を直させてくれ」
エンジュは私の気分を察したのだろう、素早く表情を切り替えて微笑んだ。そうすると雲の切れ間に陽の覗いたのを見るような気になって、いつもこうして笑ってくれるといいのにと思う。完璧すぎるほどに瑕一つなかったリンホアを間近に見ていたせいか、つい小言ばかりになってしまうが、エンジュとて精一杯のことはしてくれているのだ。
廓の子供は男女に関わり無く、保護者となる男に甘え、好意を得ることで暮らしていけるよう、武家の男子とは別方向に躾られて育つ。先ほど私が挨拶に来ないのを咎めたのも、しきたりに相応しい敬意を求めたと言うよりも、男の無沙汰を咎める妓の手管そのものだし、恐らくこの切り替えの早さや甘え方の上手いのも、エンジュ本来の性質というより、母親や周りの姐さんたちの薫陶だろう。刷り込まれた廓の所作を今更拭い去るのはもう無理だろうし、本人もそれは望むまい。今更外の厳しい風に当てても、冬の花のように枯れて朽ちてしまうだけだろう。幸い、エンジュは私のカグワトだし、このまま彼を保護して一生面倒みてやるに支障は無い。
艶やかな髪を細かく編んで、布に包んでやる間、気付けばエンジュはいつのまにか私の上着の裾を握って大人しくなっていた。強く叱り過ぎたろうか。
「どうしたエンジュ、今日は元気が無いな」
「ハンユ、今日はずっと一緒にいる? 顔を見るのも久しぶりなのに、またすぐに出かけたりはしないよな? 」
エンジュは俯いて私にそう問う。寂しいのだろう。廓にいた頃は皆にちやほやされて華やかな生活だったのに、カグワトといったら内働きの下女と言葉を交わす事もままならない。可愛そうだがカグワトとはそういうものだ。堪えて貰わなければならない。無闇と我が侭を許しては、聞こえが悪いし、なにより神殿の心証を悪くする。それでなくてもエンジュの出身は神殿側には印象が悪い。つまらないことを疑われて不名誉なことになる危険は極力避けなければならなかった。
「私もお前と一緒にいてやりたいが、昼からはまた客と約束が有る。その代わり、町でなにか綺麗なものを見繕ってやろう。何か足らないものは無いのか。琴柱か琴爪か、笛の歌口に使う葦はどうだ」
気を引き立たせようと精一杯言ってみるが効果は無い。
「土産物なんか」
エンジュの目からはまたほろりと涙が零れた。よく泣く男だ。エンジュの眸子は天の青、我が家の家系に時折現れる。リンホアもまたこの不思議の持ち主だったことを思い出す。
「リンホアは――リンホアがカグワトだった頃は、ハンユは北の屋に入り浸りだったと叔父上が。なのにおれのことは見るのも嫌なように、ここにはいつかないで、物ばかり買ってくれればいいと思っている」
「そんなことは」
今度は私が口篭もる番だった。
確かに、リンホアが生きていた頃は、私は北に入り浸りだった。だらしないのは良くないことだと思いながら、ここで寝起きしたことも稀ではない。いつ来ても、リンホアは使用人の手も借りずに部屋をきちんと整えていた。彼の行き届いた心遣いに甘えるのは快かったし、その仕草、声、全てが優しく、気品に満ちていて心が安らいだ。
「おれだって、廓にいた頃は男を退屈させたことなんて無かった。どうしてハンユはここにはあまり来てくれない。楽が嫌いならば他に何が好きなのか。詩か、舞いか、それとも歌か。どうして試してみもしない」
「そのような物言いをするものじゃない、寂しい思いをさせているのは申し訳無いと思うが、私を楽しませようなどとする必要など無い。カグワトの本分は外にある、それを果たせば十分だ」
溜息とともにそう言い捨てる。