22 哀惜
人の気配に、目が覚めた。目に光が入って、微かな頭痛を覚える。御簾を上げたままの窓から、庭の木が見えた。
ああ、そうだ。昨夜はエンジュの部屋で寝たのだったと思い出す。起き上がると隣りでエンジュが低く声を漏らし、寝返りをうった。彼を起こさないよう、静かに寝台を降りる。
「子供たち。そこで何をしている」
声をかけると、部屋の入り口で中の様子を覗っていた、キリが驚いた様子で目をあげた。先ほど私の覚醒を促したのは、息子の気配であったらしい。
「父上」
私は寝台脇の垂れ幕を下ろし、息子の目からカグワトを隠す。そうしてからすばやく身形を整え、できる限り威厳をとりつくろった。
「キリ。このような早朝に、私のカグワトを訪れるのは、礼儀正しいこととは言えないな」
例えこの異母兄弟がこっそりと会うのを黙認していたとしても。
「父上が、こちらにおいでとは存じ上げなかったものですから」
頬を赤らめて言い訳するキリの脇から、もう一対、黒い瞳が覗いた。
「おや、エトもいたのか」
「はい。あの、叔父様が、エトと話がしたいと文を下さいましたので…」
口の利けぬエトに代わってキリが答える。
「エンジュが、エトと? 」
また、カグワトらしからぬ軽々しい振るまいだとか、口の利けぬエトとどうやって話などするつもりなのかだとかいうことが頭をよぎったが、一番の疑問にかき消された。なぜ、エンジュがエトになど興味を持ったのだろう。要するに、ただの子供に過ぎないのに。
「お前たち、もう朝食は摂ったのか」
「あ、いいえ、まだです。あの、父上が起きてらしたらご一緒しようと思って」
「では、おいで。エンジュはまだ眠っている。先に食事にしよう。小さな子を朝食前に連れまわすものじゃない。目が覚めた途端に腹を減らしているのが健康な子供というものだ。そうだろう? 」
エトに笑いかけると、はにかんでキリの後に隠れた。黒い髪に黒い瞳、小鹿のように素直そうな、器量のいい子供だ。あまりアユーシには似ていないが、父親似なのだろう。預かった日に、口の中を確かめたが、口が利けぬのは生まれつきの口内の変形の為のようだった。舌が短く、割れている。外科治療でどうにかできるものではないようだ。
簡単に体を清め、子供たちと一緒に朝食の席についた。思い出し、キッカはどうしているか、従僕に訊ねると、台所でうちのものたちと食事を摂るところだというので、私たちと同席するよう、呼びにやった。
呼ばれて現れたキッカは、酷く恐縮していた。
「私のようなものが、閣下のご家族と同席など」
「昨夜は私につき合わせて、随分遅くまで連れ回したから。今日ばかりは客としてもてなされて欲しい。閣下も禁止だ、席が堅苦しくなってしまう。さあ、キリの隣へ。ああ、これは息子のキリだ。キッカとは歳も近い、話も合うだろう」
「恐れ多いことです」
「いいから、おすわり。それに、食事が済んだら、ご苦労だがまだ頼みたいことがある」
「はい、なんなりと」
「まずは食べてからだ」
重ねてそう言うと、キッカはやっと大人しく席についた。子供たちは賑やかに食事を始める。私も、つられるようにして匙を取ったが、あまり食は進まなかった。昨日の疲れが出てしまったらしい。やはり、病み上がりに急にあれこれと動きすぎたのがまずかったようだ。今日の出仕は見合わせた方が良いのかもしれない。堅信式も近いというのに、情けないことだと思う。
キリには食後、ちょっとした遣いを頼み、それだけで疲れを覚え、部屋に戻った。
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庭から、細い音楽が流れている。哀調に満ちた琴の音だ。寝台の上で横になり、静かに聞いている。こんなに遠く、か細くかすれ勝ちのそれなど聞かず、側へ行って彼に触れたかったが、体を起こして北の奥屋に向かうには、私は疲れ過ぎていた。体のだるさ、節々の痛さ、食べたばかりの朝食が、ざらついた内臓に負担ばかり与えている感覚。疲労をこんなにも強く感じたのは、本当に久しぶりのことだ。リンホアを失ってからこの方、遠征も無く、王太子付きの宮廷づとめだったから、これほど体力的に痛めつけられたことは久しくなかった。知らず、体が鈍っていたのだろうと恥じ、いや、それは、的確な言い方ではないと思いなおした。
この疲労感、この倦怠感は感情的なものだ。私はそれを自覚していた。認めたくは無かったが、身に迫って感じずにはいられなかった。リンホアを喪ってからこの方、こんなに動揺し、不安になったことは無い。
私は公的には将軍で、戦時ともなれば幾万もの将兵の身命を預り、平時にも別の意味でそれは変わらず、また、王太子の、ひいては王権の安全に責任を負っている。もっと卑近な例で言うならば、イン家の当主として、家にいる家族にも、外へ出た家族にも、仕えてくれている家人にも、田舎の領地の領民たちにも責任を負っているのだ。感情的な問題で、動けなくなるなど自分本位に過ぎる。こんなに簡単に動揺し、疲弊してしまうなど、情けないこと。私はそれを恥じるべきだった。
アユーシ。
麗しの。
身ごもっていた。美しい姿態だ。少し大儀そうに体を曲げ、誇らしげに首を引き。妊娠中の女性に、不躾な感想を抱いていると思うが、それでも彼女は美しかった。このような考え方は、すべきではないし、彼女にも彼女の夫にも失礼な考え方だとは分かっているが――彼女の産むべき赤子が、私の子だった未来も有り得たのだ。彼女が、私を嫌わなければ。私は彼女を大切にしたろうし、その子供も愛しただろう。イン家の息子――或いは娘かもしれないが――として、この上なく大切にされ、恵まれて育ったろうに。実際の彼女は、身重の身で拘束され、夫は行方知れず、財産も何もかも無くして路頭に迷っている。子供たちにも、十分な衣食、或いは住居や教育も、授けられるかどうかという、未来しか待ってはいまい。
彼女さえ、私を愛してくれていれば。
その考えは、私に疲労感をもたらした。こんな非建設的で、後ろめたくなるような考えは持つべきではない。
それとも私は、自覚していたよりもずっと強く、自分の子供を欲しがっていたのだろうか。血を分けた子供を?
自問してみるが、それは漠然とした落胆をもたらすだけで、強い感情とは呼び難かった。私にはキリがいるし、彼は私を慕ってくれている。ここに彼を呼んで抱きしめ、そのまだ柔らかい体の匂いを嗅ぎたいと思うが、その彼を誰か他の――例え自分の血を分けた子であっても――代えたいというふうには思わなかったし、思えなかった。実際に子を持ってしまえばまた違う感情が生まれてしまうのかもしれないが――私にはそれが怖い。今のままで充足している、その均衡を変えたくなど無い。第一、私を疲弊させているのはそんな問題ではなかった。
どうして、時間は流れ、生活も人々も変わっていってしまうのだろう? 母は死に、リンホアも去り、そしてエンジュも行ってしまう。どうして、何もかもを一番いい時期のままに留めて置けないのか。どうして、一番良い時間は、私の側にいてはくれないんだ?
自分の意気地の無さには嫌気がさす。けれどどうにもならなかった。私は過去を惜しんでいる。そしてエンジュを。エンジュはまだ私の側にある。なのに、私にはそれを引き止める力さえ無い。
まだ、エンジュの音楽は続いている。
違和感を感じ、寝転んだまま頬に手をやった。指が濡れた。私は、泣いていた。




