21
もう晩かったが、会いたかったのでエンジュの部屋へ真っ直ぐ入った。
部屋は相変わらず雑然としていたが、部屋の隅に一つ、大きな行李が置かれていて、見覚えのある着物がはみ出ていた。ここに来てからエンジュは白いものしか身につけていないから、それは初めて我が家に来た時に持ってきたものだろう。
「エンジュ。もう寝たのか」
そっと声をかける。答えはなかった。寝台に近づくと、疲れ果てたように下着姿で眠るエンジュの姿があった。髪は乱れて枕の上に散っている。呼吸は穏やかで規則正しく、寝顔は静かだった。
「エンジュ、もう、旅立つ支度を始めたのか。もう」
話しかけ、頬に指を滑らす。エンジュはひくりと身動きしたが、呼吸は乱れが無いまま続いている。起きる兆しもない。
「今日、シリ師にお会いして還俗の話しをしてきた。お前は不本意かもしれないが、もうしばらく辛抱してもらうことになりそうだ。今は時期が悪い。早くとも王太子殿下の堅信式が終わってからのことになる。だから――こんなに早く荷造りする必要はないんだ」
こんなに早く、あわただしく、旅立とうなどしないでくれ。
一瞬、彼を揺り起こして泣いてすがってみようかと思った。芝居の愁嘆場のように。いかないでくれと土下座して頼んでみようか、出ていく女房を引き止める、放蕩な夫のように?
そんな自分を想像するだに、滑稽で、醜悪だとは思うが、それでエンジュが思いとどまるならばやってみてもいいと思った。そんな自分に説得力があるとは思わないが、エンジュは優しいから、可愛そうだと思ってくれるかもしれない、哀れな男だと。同情してはくれないだろうか、弱い男だと。
認めるしかない、私は弱い男だ。もう一度、失うことに耐えられるとは思わない。坊主が例えどんな歌につくったにしろ、あのときの私の悲しみを、ほんの少しでもなぞることが出来たとは思わない。身を切るようにつらかった。悲しかった、寂しかった! あれが側にいないことがどんなに痛手であったか、余人には想像出来まい。私も思いもしなかった。生きて帰りさえすれば、あれが微笑んでお帰りなさいと言ってくれる、それだけを念じて帰ってきたというのに、冷たい骸に迎えられることになろうとは。
カグワトなど、信じはしない、エンジュ。
何故なら、お前が私を危機に陥れたと信じるならば、また同時に、私がリンホアを身代わりに死なせたとも信じなければならないからだ。
私にはそんなことはとても――受け入れられない。
私にとって、カグワトは、ただそれだけのものだ、エンジュ、お前はがっかりするかもしれないが。私の替わりに死んだり苦しんだりするなどと信じたくない。けれど、側にいて欲しい、いつも私の傍らに。身勝手だろうか、身勝手だろう、お前が知ればそう非難するかもしれない。しかし、目に見えては何の助けになっているようでなくとも、いてくれる、それだけで役に立っているという、そういうことが確かにあるんだ、私にとっては。誰も理解してくれないかもしれない、愚かだと笑うかもしれない、私も説明できない、けれど、そういうことがあるんだ、それを、お前に判ってさえ貰えれば――。
「エンジュ」
屈んで、散り敷いた花弁のような髪に口付けた。
私には後悔がある。
一つだけ。
リンホアをカグワトにしたことでもなく、リンホアを死なせたことでもなく。
ただ、リンホアを一人で、たった一人で逝かせてしまったことだ。私の知らないところで死なせてしまった。それだけが、私は悲しい。リンホアも、死んだときには寂しかっただろうか、私がいなくて。きっと寂しかった、あの後、あれに置いて行かれたと知ったときの私のように。そのとき、側にいてやれなかったのが悲しい。私の、たった一つの後悔だ。
けれどエンジュ。お前も行ってしまうのだな。
私一人を置いて。そしてそのまま、私の知らないところで生き、知らないところで死んでしまうつもりなのだろう。
しかし、お前は悲しむまい。
お前は自らそれを決断したのだから。そのときにも、私に側にいて欲しいとは、望まないのだろう。けれど私は――。
私は……。
「ハンユ」
気が付くと、エンジュが真っ直ぐこちらを見上げていた。私はゆっくりと身を起こす。
「起きていたのか」
「ごめん、また、叱られるかと思って寝たふりしてた。ハンユ」
エンジュは手をついて半身を起こす。
「どうして、泣いているの? 」
「泣いてなど」
私は笑って、目元をぬぐった。指は濡れなかった。私はもう長い間泣いていなかったし、もう一度泣こうとしても泣けるかどうか自信が無かった。エンジュを泣いて引き止めるなど出来そうに無い。
「泣いてなどいない、エンジュ。では、聞いていたんだろう」
「うん……聞いてた」
「こんなに早くから荷造りしてはあとが不便だろう」
「持っていくものは、そうは無いから。着て来た着物と、楽器と履。そのくらいしか、持ってくようなものは無いし。カグワトとして身につけていた着物は、持って行っても着られない」
いいながら、エンジュは寝台の上に座りなおし、枕もとの灯りをつけた。油に混ぜられた香料が温められ、微かに甘い匂いが漂う。
「宝石は。色々買ってやっただろう。今までは許されなかったが、晴れて俗人となれば堂々と身を飾れるんだぞ。持っていくんだろう? 」
「ハンユがくれた宝石はみんな高価すぎて」
エンジュは目を逸らしてうしろめたそうに言った。実際身につけるには、好みに合わないのをやはり隠していたのだろうか。しかし宝石というものは装身具かもしれないが、同時にかさばらない動産でもある。
「高価だからこそだ。みんな持っていって――不幸を招くようなことを言いたくはないが、旅先では何があるかわからない、こういった宝飾品は何もかも身に付けて、何かあったら石を少しづつ外して売りながら、路銀に換えて帰ってきなさい。向こうで落ち着いたら、売り払えば少しは足しになるだろう。そうしなさい」
強く言い含めると、エンジュはみるみる目をうるませて、
「ハンユは、俗物だ――」
声を震わせて呟いた。
――どうせ、私は無粋な人間だ。
「エンジュ、なにもお前を怖がらせようと、わざと言っている訳じゃない。私はあまりいい兄ではなかったし、いい主人でもなかった。してやれるのはこれくらいだ。だからこれだけは言うことを聞いてくれ。金や宝石は全部持っていくんだ。多少の好みの違いなど我慢して。いくつかは肌着にでも縫い込んで置け。遠慮など決してするな。な? 」
言いきかせ、さらに思い出して懐から紙束を出した。シリ師に戴いた楽譜と教本だ。
「それと――今日、これを、戴いてきたんだ。以前に、お前がまだずっと、私のカグワトでいるだろうと思って、慰みになろうかと思い、頼んだものだ。もうお前はずっと狭いところに閉じ込められる生活とは、無縁の身になるとは思うが、しかしこれはこれで後々役に立つかもしれないから渡しておく。楽を、紙に記しておく記号やなにかの文法書のようなものらしい。私にはわからないが、お前にならわかるだろうと仰っていたから。これも、貰ってくれ」
「おれのために、これを? 」
「お前以外の誰の為に」
私が笑うと、
「ありがとう、ハンユ…」
今度は素直に微笑んだ。
もう、三月も後には自分の手には無い珠を見つめる。胸は苦い思いで一杯だ。行儀が悪いだのなんだのと、こんな日が来ると判っていたら、口うるさく言うんじゃなかった。もっとこまめに部屋に寄って、昔話でもなんでも山ほどしてやれば良かったのだ。この弟に、愛しまれた記憶だけ、残してやっておけば良かった。
リンホアのときに思い知らされていた筈なのに。私にはもっと、たくさんの時間があるなどと、過信すべきではなかったのだ――。
いや、まだ、遅くは無いはずだ。遅すぎることは無い。エンジュは、まだ、ここにいるのだ。私にできることもある筈だ。少なくとも、あのときのように突然の別れではない、少なくとも、あのときのような永遠の別れではない、少なくとも、あのときのような残酷さは。
無力感は、択ぶところもないにしろ。
しかし、そんな決心とは関係無く、ただ、名残惜しさの為に、私はエンジュの横に潜りこんだ。驚いたように彼が笑う。
「ハンユ? 」
「お前のことを、ムトウによく頼まなくては、な」
溜息のように呟きながら、その細い体をしっかりと抱きこんだ。
少なくとも、今はこの腕にある体を。