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珍しく二、三日外泊した朝、外出先から帰ると従僕が、昨夜よりお客様がお待ちですと言う。客の名を問うとやはりインゴットのムトウだった。先日受け取った手紙では、訪問は明日か明後日になるはずだったのだが、予定が早まったらしい。
ムトウは、南国インゴットで一、ニを争う貿易商の息子だ。私が王の名代として、若王の即位式に出席した時に知合った。彼の一家は家柄こそ商家ではあるが、貴族に姻戚が多いのもあって、インゴットの政財界に顔が利く。
近々シュクラとの交易も始めたいという話だったから、こちらでの便宜を取り計らう約束をしてあった。インゴットは質の良い香辛料や金を多く産出する。また、鋼を鍛える技術にかけては他国の追随を許さない。ここで世話をして繋がりを持って置いて、質の良い刀剣を優先的に廻すよう取り計らってもらう腹積りだ。
我が家は武家ではあるが、シュクラでは最も古い家柄の一つだし、王家とも繋がりが深い。土地や港の使用権もいくらか貸してやれるし、シュクラに店を構えるにあたっての免許や株の購入に口利きしてやれば、あちらも大分助かるはずだ。
様子を尋ねると、幸い、半隠居の父が良いように取り計らってくれていて、今は西奥の客屋で休んでいるという。早朝ということもあり、沐浴してからお会いしたいと伝えるよう言ってから、私室へ入った。
旅装を解いているとどこからか優雅な笛の音が聞こえて来る。どこからか、とは言ってもこの家には、楽を嗜むものなど北の離れのエンジュをおいて他に無い。多分、私の帰りを知らないで、あのように呑気に笛など吹いているのだろうと苦々しく思ったが、扉を叩く音もなく小さな影が飛び込んできたのでそんな気持ちもいっぺんに吹っ飛んだ。
「父上っ」
「キリ」
軽い体を抱きとめる。今年九歳になる義理の息子だ。解き髪のまま抱き上げて頬擦りするとくすぐったそうに笑った。
「父上、お髭が」
「お、痛かったか、すまない」
キリは父の末の息子、私の一番下の異腹の弟にあたる。それを私が二十五のときに養子に貰って育てている。細い髪を、まだ子供なので肩の上で切り揃えてそのままにしてある。年より小柄で華奢な体つき、まだ柔らかくあどけない頬だ。
「これからお風呂ですか」
「一緒に入るか」
「いえ、でもお手伝いします」
「いい子だ」
家族のものは既に朝の入浴を済ませてしまった様だ。湯殿までいかないで、部屋で湯を使うことにする。時間が惜しいので、ちょうど良い大きさの焼けた石を、深桶に張った水に入れるよう下男に命じた。この温石は我が家の唯一にして最高の贅沢だ。父が腰痛持ちで、日に何度も蒸し風呂に出入りする、その室を暖めるのに毎日石を焼いているのだ。野戦場では、兵士がこれを煮炊きにも使う。あっという間に湯は沸いて、柄杓を持ったキリに手伝わせ、水を足しながら体を洗った。
シュクラの男は成人すれば、基本的に異性には肌を見せたり髪に触れさせたりはしないものだから、当然入浴や髪結いの手伝いも男同士ですることになる。家にいる時は使用人にさせれば良くても、息子もやがて軍に入隊する。遠征ともなれば仲間内で助け合うことになるのだ。従卒に指名されれば上司の手伝いをさせられることもあるだろう。良家の子息であるからと言って下っ端のうちは扱いは変わらないし、私自身、キリに特別扱いをはからうつもりも無い。家ではできるだけ身の回りや武器防具の手入れを手伝わせていた。普段は息子の世話も出来るだけ私が直接見てやっている。自分より身分の高い者に触れる時の作法や刃物の使い方など教えてやる為だが、今日は急いでいたので自分で手早く髭をあたった。キリは残念そうにその様子を眺めていた。自分にはまだ髭が生えないので、剃刀を使うのが珍しいらしい、いつもさせてほしがるのだ。
こざっぱりした気分で身形を改め、正庁に赴くと、ムトウは既に来ていて、私が部屋に入るのに気付いて立ちあがった。お互い正しく礼をとる。
「この度は留守をしていて遠来の客をお迎えもせず、失礼致しました」
「こちらこそ、お留守のうちに伺って図々しくも待たせていただき恐縮です」
「何か失礼やご不自由がありはしませんでしたか」
「いいえ、お心遣いいたみいります。御父君にも大変良くしていただきましたし、使用人の躾も行き届いて大変快適でした」
ムトウはそう言い、私達は席を庭の見える窓際に移した。彼は私より二つ年下の二十六で、褐色の肌に黒い髪、灰褐色の目の生粋のインゴット民族だ。髭を綺麗に刈り込んで形を整え、髪は複雑に編みこんで先を側頭に長く垂らしている。眉をそり落としている為老けて見えるが、これはインゴットの成人の習慣だ。ただでさえきらびやかなインゴットの民族衣装に、金と宝石をふんだんに飾っている。相当の洒落者で、インゴットの社交界でも、その低い身分にも関わらず人気者だった。
私は嗜まないがインゴットの者は皆煙草に目が無い。こちらのことは気にせずにどうぞと勧めると、早速懐から取り出して火を付ける。インゴットの煙草には様々なバリエーションがあるが、ムトウが取り出したのは刻んだ煙草を紙に巻いたものだった。それに金の吸い口をつけて使うのだ。灰皿代わりに、洗った香炉を運ばせると、つくづく眺めて感嘆の声をあげる。
「素晴らしい玉ですね。こんな上等のものは滅多に見ない。それにシュクラの細工は繊細だし、意匠も凝っている。持ち帰ればインゴットで流行るかもしれない」
「インゴットにはあまり香木を焚く習慣は無いでしょう」
「はあ、香油や香水を直接肌や髪に使うくらいですか。そういったものを入れるのにこんな大きなものは向かないでしょうが――しかし、何も香木を焚く必要は無い、煙草入れや灰を捨てるのに使ったり、或いは花を活けてもいいでしょうし。そういう用途に使えるよう、試しに誂えさせてみたいものです」
「それなら、出入りの商人を紹介しましょう。王宮にも出入りする男ですから、あなたがこちらで商売を始めるために色々と便宜を計らってくれる筈です。それはそうと、シュクラへいらして少しは町をご覧になりましたか」
「いいえ、まだ少しも。昨夜ついたばかりで当面の宿も決まっていません。まず、こちらへご挨拶をと存じましたので」
「しばらくは我が家の寮をお貸ししましょう。適当な貸家が見付かるまではそちらで不便を忍んで戴くしかない。貴方の召使達を案内して、荷物もうちの者も手伝ってそちらへ運び込むよう申し付けておきます」
「それは大変有り難い。荷物はまだ大半が港に置いて有ります」
「もしよろしければ今日これからでも町をご案内致しましょう。港や市の様子をご覧になりたいでしょうから」
「何から何まで恐縮です。では、御子息もご一緒にいかがでしょう。昨日お見かけ致しましたが随分寂しそうにしておいでだった。お父上が何日も留守にしてようやく帰ったと思えば客とまた出掛けるではさぞがっかりなさるでしょうから」
「お恥かしい。お心遣い感謝いたします。では、お言葉に甘えて息子を呼びにやりましょう」
「お美しい奥様にもよろしくお伝え下さい」
ムトウは愛想良く付け足した。
「奥様? 」
私に妻はいない。今までも、これからも。だからキリが母を無くした折に、彼を養子として引き取った。
「北の奥庭にちらりとお見かけしました。琴を弾いておいででしたがそれは素晴らしい手で」
「それは妻ではありません」
うんざりして客の前にも関わらず溜息をついてしまいそうだった。苦々しく事実を告げる。
「エンジュ――私の、カグワトです」