18 来客2
「誰だ」
「ハンユ……おれ」
誰何すると、震える声が返ってきた。
「エンジュか。ちょっと待ちなさい」
入室を止める間も無く、王太子はすばやく窓際に立てた衝立の向こうへ回り込んだ。こちらを伺うその顔は、先程の様子とは打って変って面白がっているのが判る、好奇心に満ちた表情だ。殿下も私のカグワトの名くらいは聞き覚えがあったのだろう。カグワトと他人が鉢合わせするよりはまだましだが、どうせなら庭から出ていって欲しかった。もちろん、殿下のような身分の方に申し上げられるようなことではないが。
私の内心の焦燥を知る由も無く、エンジュは少し躊躇った様だが入室の許可を待つことなく部屋に踏み入った。
「起きてたんだ」
「ああ……先程」
身振りで寝台の近く、先程殿下が掛けていた椅子に座るよう促す。そこからならば衝立は死角に当たる。エンジュは大人しく従いながら細い声でたずねる。
「気分はどう? 顔色は大分良くなったみたいに見えるけど」
「大丈夫だ、心配かけたね」
「心配なんか――ハンユが頑丈なのは知ってるし。朝にはお粥を食べたって聞いたし、そういうことは、キリがちゃんと報せてくれていたから」
言いながら、掛けていた面衣を取り払った。髪をきちんと編んで、布に包んでいる。服装にも洒落っ気の一つも無い。心配していた程憔悴したという感じはなかった。むしろ涙で洗われたような清潔さがにじみ出ていた。ただ、酷く顔色が悪い。
「すまなかった、すぐにお前を呼んでやれればよかったんだが」
居ても立ってもいられずに、案内も請わずに自ら忍んで来てしまったのだろう。それを咎めるような気には、今はなれなかった。顔を見られたことで私も安堵していたからだ。慰めたいと思ったが、エンジュはそれを拒むようにして、少し笑った。
「そんなこと――求められる立場では無いから」
「エンジュ」
私は思い出して言った。
「気になっていたんだ、あのときの――私が熱を出したとき、お前、泣いて来ただろう、あのとき、何も言ってやれなかったが、あのことは――毒を受けたことや――そういう悪いことは、何一つ、お前のせいじゃない。お前が気に病む必要の無いことだ。お前が気にしているといけないと思って……」
「そのこともあって、来たんだ、ハンユ」
エンジュは相変わらず、疲れたように微笑んだまま、静かに告げた。
「還俗したい。ハンユ、カグワトを御役御免にしてくれ」
一瞬、言われた意味を取り逸らし、その諦めたような優しい笑みを見直してようやく理解した。
「――この家を出て行きたいという意味か」
「そう」
エンジュは両手のひらを見せてそう言った。
「何故だ。何か不満が? 」
「何も」
しかし、カグワトの追放は家名にとっても大変な瑕となる。カグワトの還俗だけならば、滅多にあることではないが、稀に無い事でもない。しかしそれは、主が亡くなって他に兄弟血縁が無く、カグワトが還俗して家を継ぐより他無い場合や、経済的な事情などでカグワトがカグワトのままでは家や本人の生活自体が成り立たないような場合など、余程の事情があるときに限られている。それでもみっともないことであるには変わり無い。
しかし家を出るとなると、カグワトの追放と言って、大変深刻な不名誉だ。カグワトに不品行があり、仮にも聖職と呼ばれるものにつくに相応しく無いと判断されたときにのみ行われるものだからだ。しかし、カグワトがそのような不行状を問われることは、主の顔に泥を塗り、家名を傷つけるのみならず、本人ももはやシュクラには居られなくなる。国外追放ならまだいい方だ、実際にはおそらく国境を跨ぐ前に辱めを受け、なぶり殺しにされるだろう。そのようなカグワトの存在は神に対する不敬であり、冒涜であり、あってはならないものだからだ。
だから、こちらの方は私が知る限りのシュクラの歴史上、一例も無い。おそらく、そのような不始末があった場合、そのカグワトは密かに始末され、隠匿されて、単なる病死などと発表されているのだろう。
馬鹿なことを、と叱りつけてやりたかった。しかし、エンジュの微笑みに、いつものような怒鳴り声が出てこなかった。私は力無く説くしかなかった。
「しかし、この家を出てどうするつもりだ、シュクラには居られなくなる、ハユルにも戻れないぞ」
「それは――」
エンジュは初めて目を逸らして呟いた。
「ムトウが――ムトウの、世話になろうかと」
「ムトウが」
かっとした。
「エンジュ、お前――ムトウと連絡をとっていたのか。私に黙って。あの男に何を吹き込まれたんだ」
驚くほど声が険しくなっているのが自分でも判った。胸が煮える。衝立の後ろから殿下が覗いていることも念頭に無くなった。
「吹き込まれたなんてこと。ハンユ、これはおれが――おれ一人で決めたことだ。ムトウに頼んだのは、彼がおれが知っている唯一の外国人だから。カグワトを追放されればシュクラにはいられなくなるから、ムンナイトに移り住もうかと思ったんだ。国内では、どこに身を寄せてもそこのひとに迷惑をかけることになる。港町で客商売をしていたんだ、近隣の国なら大抵言葉も判るし、青楼ならばおれには馴染んだ水だ、すぐに慣れると思う」
温かい白湯が欲しい、と思った。出来れば飴を溶いて、出来ればジャスミンの香りをつけたものを。できれば――ああ、頭がきちんと回らない。
「エンジュ――いかん」
「ハンユ」
「いかん、いかん! 」
激して、怒鳴りつけた。常に無い大声が出た。戦場で使う怒号と同じ声だ、エンジュは身を竦ませる。いけない、落ち着かなければ。こんな声を彼に聞かせたことなど無い、聞かせるべきではない。大きく息を吸い、吐いた。
「エンジュ――エンジュ、すまなかった」
「ハンユ」
「すまない、怒っているんじゃない、ただ、お前が本当に――意味が判って言っているのか。本気で言っているのか、この家と縁を切ると言うのは――一度出てしまえば恐らく二度とシュクラの地は踏めまい。キリとも会えぬし、もちろん、叔父上とも私とも――全てを捨てて、他の男の世話になろうというのか、再び苦界に身を沈めると? お前はまだ子供だったから、あそこの綺麗なところしか見ていないのかもしれないし、また母親が見せはしなかったのかもしれないが、花街は華やかなばかりではない。ああ、お前だって判っているだろう。何をやらされるのか、本当にわかっているのか。どんなことになるか? 」
もし、今の状況に不自由を感じていて、もっと気楽に振舞いたいと考えての言葉ならば私はいくらでも譲歩しよう。この邸や首都の人目が窮屈ならば、どこか田舎の深山にでも別所を建てるか、或いは寺を建ててそこに預けてもいい。何をしてもいい、何でもしてやろう、二度とあんな場所に戻したくはない。
「ハンユ」
エンジュは溜息をついて笑った。
「ハンユ、あそこがどういうところかなんて、おれだって良くわかってる。多分、おれの方が。金と力を持っている男が、そうでないものに対して、どんな卑しい振る舞いが出来るものか。ハユルのような気風の土地でさえ、それは変わらない。ハンユのような男には、思いもよらないようなことを、つぶさにこの目で見て育ったんだ。おれは――ハンユに嘘をついていた。ハンユが迎えに来たとき、おれが清童かと聞いたろう。あのとき、口では肯定したけれど、あんなのは嘘だ、そんなわけない。十五の歳まであの町で暮らして、清いままでいられる子供などありはしない、おれは十を二つ三つ越えた頃にはもう、ハンユのカグワトになどなれない体になってしまっていたよ」
「そんなことは――」
判っていた。そうと知っていたわけではないけれど、そんなことはどうでも良かったのだ。そうでなくても構わないとさえ考えていた。ただ弟を引き取りたかっただけだ。本当はどうでも、神殿が信じさえすれば、少なくとも信じた振りさえしてくれれば、それで十分だった。真実など欲しくも無かった、本当は、カグワトも。
「エンジュ」
「ハンユ、あそこは何も生み出さない。憎悪や愛欲や、強い感情がいくつも行き交うけれど、それはどれも長くは続かない。泡のように咲いては消える、ただそれだけの場所だ。ハンユが迎えに来てくれたときは嬉しかった。母はもう死んでいたし、もうおれには何も無くて――大事なものは何一つなくて、どこかにあると信じていたけど、探しに行く希望も自由も無かった。だから、ハンユが迎えに来てくれたときには、本当に嬉しかったんだ。そういう、誰かに必要とされたり誰かを愛したり、上滑りする空言ばかりでなくて情を交わせるそういう人生が、おれを迎えに来たんだと、来てくれたんだとそう思った。おれは嘘をついたけど、ハンユを疑う気持ちにはならなかった。いつか自分の運命が、迎えに来るのだと信じていたから。それに、それがハンユだったことが嬉しかった。嘘じゃない。ハンユは――気づいてないみたいだけど、あのとき、一旦ハンユが宿に金を取りに帰った後、大変だったんだ。姐さんたちが騒いで。男ぶりも悪く無い、威張らないし金離れもいいし――そういうのは花街では歓迎されるから。普通でもハンユは『いい客』だ。でも、みんながおれをうらやましがったのは、そんな理由だけじゃない。おれが買われていくんじゃないんだって知ったからだ」
俯いて、膝の上の面衣をもてあそびながら言葉を継ぐ。
「シュクラの国法では、おれたちみたいな芸妓の身分はとても不安定だ。もともと長くは続けられない仕事だし、多くは帰る家も無い。首尾良く旦那を得て家に迎えられても、男の死後に、正妻や息子たちに追い出されるなんて良くある話しだ。身一つで放り出されて路頭に迷い、結局古巣の娼館に舞い戻ってきた姐さんたちを幾らでも知ってる。四十五十で酒席にはべって琴弾いて……そんな年齢ではもう一度花形に返り咲くなんてありえない。きつい裏方仕事を回されて、最期は看取るものもなく皆いっしょくたの墓穴に放りこまれて終わるんだ。皆口には出さないけど知ってる、覚悟してる。だから男に高価な宝石や貴金属を買わせて身を飾るんだ。虚栄心の為じゃない、捨てられたら全部身につけて持って出て、お金に替えて食べてく為だ。綺麗なうちに精々保険をかけるんだ」
「お前はもう、そんな心配はしなくていいんだ、エンジュ」
「うん、わかってる。ハンユはおれを捨てたりしない」
エンジュは無感動にそう言った。
「姐さんたちは、兄弟が迎えに来たのなら、容色が衰えたからと言って捨てたりはしない、そんな主人に迎えられるのは幸運だと、うらやんだよ。でも、おれが喜んでいたのはそれとはまた違う理由だ、ハンユ。それは言っただろう? 家族が――できることが嬉しかった。おれを望んで、愛して、それだけじゃなくて、おれが世話したり、気をつけたり、役に立ったりしてあげられる家族ができることが、何より嬉しかった。ここに来てしばらくは、だからすごく幸せだった。ハンユはおれを丁寧に扱ったし、叔父上は優しかったし、キリは可愛かった」
「だったら、何故――」
「だから――なんだろう、おれにもわからない」
エンジュは細い指でゆっくりと面衣の房飾りを撫でる。絹糸を縒った房は白、留め金は白銀、顔を覆う紗も白。その上を往復する爪の先だけがほのかな薄紅色だ。
「ただ、色んな――リンホアのことを聞いて、用意されていた部屋がリンホアのものだったと知って、ハンユはおれを叱るし、叱るときはいつも誰かを思い出していて――」
「私が――悪かったんだ、お前を縛りすぎていた。これからはあまり煩くは言わないようにするし、楽器も」
「おれが気にしてたのは、そんなことじゃない」
エンジュはきっぱりと言った。
「一日、おれを膝に抱いて居たいから琴を弾くなと言われたら、おれには容易く我慢できるんだ、ハンユ、こんな言い方、兄弟にも、カグワトが主に言うにも相応しく無いけど。おれは一年中男の腿を抓っていられるし、そう言う風に育ったし、むしろ喜んでそうやって時間を潰していられるんだ。おれが相手をどう思っていようと何も思っていまいと、そんなのは習い性みたいなものだ、苦痛でもなんでもない。でも、求められてないって実感しながらひたすら待つのだけは我慢ならない。悲しいし、惨めな気持ちになる。持っていないと恥ずかしいから家の奥に飾っておく、一度も弾かれない高価な楽器みたいにしまっておかれるのは、情けないことだ。散々我侭言って困らせたけど、そんなの本当はどうでもいいことだった。なんていうか――苛々してしょうがなかった。宝飾品だの楽器だの、本当は無くてはならないほど好きなわけじゃないんだ、ハンユ。一時は見るのも嫌って程練習させられた琴なんて、他に慰みがあればわざわざ手に取りたいとも思わない」
「エンジュ」
彼は少し笑って弁解するように言葉を継いだ。
「それは、言い過ぎかな。音楽は好きだ。好きとか嫌いとかじゃなく、もう、息をするように自然なことなんだ。息が出来ないと――苦しい。そんなもの。でも、今は、馬鹿なことをしたと思っている。おれ、手に負えなかったろう。我侭で、無作法で。姐さんたちには良く叱られてた」
気を変えるように晴れ晴れと笑って続けた。
「本当は、ずっと不安だった。ハンユが、おれの嘘を知っているんじゃないかって。知っていて、だから騙したおれに腹を立てているか、或いは軽蔑して、部屋に寄り付かないんじゃないかと疑っていた。おれを嫌っているんだと思って、つらかった。だからわざとハンユを怒らせて、自分の方へ気を引いておきたかったのかもしれない。なにか馬鹿なことをしてるんじゃないかと気が気でなくなれば、ハンユもちょくちょく見に来るだろうと思って。でも、カグワトは、そんなものじゃないんだって、今回のことで判ったんだ」
先日の、あの悲痛な泣き声に似た衝動がその面に兆したように見えて、私は慌ててなだめようとする。
「エンジュ、今度のことは、お前に非は無いと言っただろう。カグワトが潔斎を破れば主人が罰を被るなどとそんなこと」
「ハンユ」
エンジュはまだ、辛抱強く微笑んでいた。そして噛んで含めるようにゆっくりと繰り返す。
「ハンユ、おれは役に立ちたかったんだ、誰かのお荷物になるんじゃなくて。求められたかった。リンホアみたいに、ハンユに求められて、ハンユの為に死にたかった。でも、結局おれには無理だって、今回思い知ったんだ。おれは自分の命を誰かにささげることも満足にできない。ハンユは一人で死にかけて、一人で回復した。おれにはなんの異常もなかった、おれはハンユのカグワトではなかったんだ、成り損なってしまった。欺いた報いだ、いくら誓約をしたからといって、神が受け入れてくれなければそんな契約なんの役にもたたない。おれは最初から穢れた供物だった。嘘ばかり、本当なんて一つも無い。シュクラの神が受け入れないのも当たり前だ。おれはリンホアには及ばない、それだけじゃなく、おれがこのままいれば、ハンユは武人でこの先何度も危ない目に会うだろうのに、あたらしいカグワトを迎えることも出来ないで、守護もなにも無しでやっていかなくちゃならないんだ」
「お前がそう言うならばそうかもしれない、例えそうだとしても、私はちゃんと助かったろう、奇跡のように一命を拾った。私はお前のお陰だと考えているが、もしお前がそう思わなくても、どちらにせよ事実助かった、生き延びたんだ。私が一人で回復したというならもうそれでもいい、わたしには新しいカグワトなどいらないんだ、お前が身を引こうなどと考える必要は全く無い」
「そんなことじゃない、そんなことで出て行きたいと思ったわけじゃない。おれは間違いに気づいた、それだけのことだ。知らないうちに、贅沢に慣れすぎてたんだ、ハンユ。いい気になっておごっていた。ずっと、どこかにおれのための何か真実のようなものがあると勝手に信じていた、そんなものどこにも無かったのに。そんなもの、おれには用意されていない。ここはおれのいるべき場所じゃないし、ハンユもキリもおれのものじゃない――おれの運命じゃなかったんだ。おれは間違えた。ちょっと夢をみちゃっただけ――」
自嘲気味に言い切った。激することも無しに。私は何と言って良いか判らなかった。
「でも、ハンユ、心配しないで。ムトウが手紙で色々教えてくれたのだけれど、ムンナイトでは楽人の身分はシュクラよりずっと高いって。画家や、詩人と同列に扱われて、有名になれば尊敬されるし、余裕があれば貯金や年金の積み立てだってできる。不動産を購入することも出来るし、自分名義の資産を持つことが許されているんだ。大貴族か王族のお抱えになれば、贅沢しなければ十分やっていけるだけのお給金は貰えるって。紹介状を書いて貰えると言うから、それは心配していないんだ、ムトウは顔が広いらしいから。楽器の演奏だけして食べていけるなら、おれにとってそれ以上の仕合せは無いよ。一番好きなことだもの。そして外に出て、自分一人でやっていって、そのうち家族を作って友達を作って――小さい土地を買って、家を建てて――そういうふうにやっていけば、いつか欲しかったものが手に入るかもしれない。おれはそれを期待しているんだ」
「――そうか」
私はまだ迷っていたが、しかしもう説得しようと言う気持ちは失せていた。私は――いつもエンジュを悲しんでいた。私は彼がかなしいのだ。
彼が私の側で不幸だというのなら、手を放してやるのも一つの愛し方かもしれない、自由に、幸せに、私はいつもそれだけを弟妹たちに望んできたのだ。エンジュだけをくびきに縛り付けておくのは公平なやりかたとは言えないし、エンジュだけに側にいて欲しいと望むのも、正しい事ではないのだろう。
彼にも、幸せを望む権利はあるのだ。他の兄弟たちと同じように。彼もイン家に生まれた男子なのだから。