16 覚醒
目が覚めたとき、私はどこか一室に横になっていた。熱を出しているらしい、頭がぼうっとして、あらゆる粘膜と皮膚が乾いて麻痺した感じがした。思い出せないほど幼い頃に肺炎にかかって以来の感覚だ。
私はどうしたのだろう。
人を呼ぼうとしたが顔の筋肉すらままならずに口が動かない。ひ、と空気の漏れる音が微かに喉の奥でした。
枕元に人の気配がして、ひんやりとした手が唇を濡らした。誰だろう。
「気がつかれましたか。……良かった」
聞いたことの無い男の声だった。軋む関節をおして頭をめぐらし顔を見ようとすると、それに気付いたのか男の方が前に回りこんで私を覗き込んだ。初めて見る顔だ。四十がらみのこれといった特徴のない容貌、肩の辺りで切り落とした乱れ髪に頭巾を被り、カグワトか僧侶を思わせる。
「覚えておいでですか、狩りでお怪我をなさったのですよ。ここはもうお屋敷です。お倒れになってからもうまる一日も経っています。どうしても戻りたいとばかりうわ言で仰ったそうで……先程運び込まれたばかり」
「で……は……っ」
声を絞り出すようにして訊ねる。音にもならぬその言葉を、男は察してくれたようだった。
「王太子殿下はご無事です。閣下が抱き取ったときに軽い打ち身を作ったくらいで、掠り傷一つ負ってはおられません。あのあと直ぐに御典医が口を濯がせましたし、口中に傷のないことも確認しましたから、毒が後から害を為すことも無いでしょう。矢に塗られていたのは蛇毒で、皮膚や粘膜からは吸収しない類のものです」
安堵の息をついた。肺の辺りか、胸が痛む。左肩にあるだろう傷口よりも、体のここかしこの関節が痛んだ。
「っ、か……は……」
「お気持ちは分かりますが、あまりきつくお叱りになってはなりませんよ、閣下が今生きておられるのは殿下の思い切りがあってこそですから」
男は私の心を読んでいるかのように先回りしてどんどん答える。
「覚えてらっしゃらないでしょうが傷口を開いて洗い、解毒剤を飲んで頂きました。随分血を絞り取りましたから体が弱っていますし、熱も高い。ひどいご気分でしょうが閣下は頑健でらっしゃる。少しの辛抱です。もう数日はお辛いでしょうがこれをこせば楽になります。もう少しお薬を飲んで頂けますか」
頷いた。身を起こそうとしたが力が入らない。男は心得たようで吸い飲みを手早く用意して私に差し出した。私はおとなしく吸い口からひどく苦い煎じ薬を飲まされた。舌が鈍ってあまり味がわからないのがかえってありがたい。
「狙撃手については、近衛の方が拘束したそうです。詳しくは伺えませんでしたが…。お気がかりでしょうが、今はお体を治すことを第一にお考え下さい」
頷く元気も無かったが、男の言葉はいちいち尤もだった。あれが何だったのか、あのとき何があったのか、気にはなるが今は、この体を元に戻すことを一番に考えなければ。男は再び、蜜を混ぜた水で私の唇を湿す。体がつらいのは相変わらずだが、男が私の気がかりを次々解決してくれるので、随分安心した。
「キリは大丈夫。父上が死ぬはずは無いと言って気丈に頑張っています……」
私は気持ちだけで微笑んだ。ああ、あれは大丈夫だ、もちろん分かっている、私の息子だ。さぞ心配しているだろう、可愛そうなことをした、元気になったら思う存分甘えさせてやらなければ。切れ切れの思考でそう思う。
「エ、……はっ、……」
「エンジュは――」
男は躊躇った。
「クシ」
そのとき、いきなり寝台の垂布を無遠慮に掻き分けて父の顔が覗いた。
「ラオコン」
男が咎めるように眉を寄せて父を睨んだ。クシ、と今父は言ったか。では、彼がクシ。父のカグワト。私の義理の叔父だ。顔を見たのは初めてだった。想像していたような美貌ではなかったし、厳しそうでもなかった。どこにでもいる中年の男だった。すこし、優しげではあったが。
父は私を見下ろし、
「おお、ハンユ。目が覚めたようだと聞いて急ぎ来た。毒にあっても死なんとはさすが我が息子だ」
からからと笑う。父の敵でさえも、憎みきれない魅力的な声と調子。やはり勇気付けられた。
「クシ、エンジュがハンユに会いたがっている」
「それは――」
叔父はためらった。エンジュが会いたがっているのならば私も会いたい。目で促すと叔父は渋々頷いた。
「では、少しだけ。取り乱さないよう言い聞かせて」
「わしでは無理だ」
父が弱音らしきものを吐くのを初めて聞いた。
部屋の入り口で、エンジュは棒立ちになった。恐ろしくて中に入れないらしい。
「こちらへ、エンジュ。兄上はまだ本調子ではないから、傷に障らないよう静かになさい。さあ、入って兄上に顔を見せておあげ」
促されてやっと枕元に立つ。
長時間、泣き続けたような顔をしていて、乱れ髪が涙で頬に張り付いている。手を上げてかきあげてやれないのがもどかしい。しかしそんなに泣き腫らしていてさえ美しい、鼻の赤いのさえ愛嬌のうちだ。
ああ、エンジュだ。
溜息のように安堵がこぼれ出た。エンジュだ。懐かしい。良かった、またこの顔が見られた。生きていて本当に良かった。
安心させるために微笑もうとしたが上手くいかなかった。
私の顔を見て張り詰めた気が解けたのかエンジュの目にまた新たな涙が浮く。ああ、そんなに酷い顔をしているのか。入室を許して、私は安心したがエンジュには、かえって気の毒をしてしまったかもしれない。
「ハンユ……おれ、許して……」
何を泣くのか、どうして許しを請うのか。熱のせいか頭が回らず慰めることもできない。どうして泣く、と唇の形だけで問う。
「おれが、ごめんなさい、ハンユ、おれがちゃんと潔斎しないでいたから、ハンユがそんな目にあった。おれのせいだ。おれ、ちゃんと判ってなかった、カグワトがどんなに大事な役目なのかとか全然――ほんとは、信じてなかった。おれのせいだ。おれがあの、なんとかいう客の男に顔を見られて――ハンユが怒ったのを口やかましいなんて思ったりして。本当に、本当にごめんなさい……! 」
誰だ、そんな下らん考えをお前に吹き込んだのは!
元気だったならば起き上がって叱り付けたろう。馬鹿げた話だ、お前はよくやってくれているし、一度他人に顔を見られたからといって、私が死に掛けたのをエンジュのせいにするつもりなど毛頭無い。そんな話は信じ難いのだ。
そうだ、シリ師には悪いが私はカグワトを信じては居ない。他人の潔斎が自分の幸運の護りになるだろうなどと迷信に過ぎない。ただ、神殿とその教義を侮辱しているととられると困るから持っているだけだし、口うるさくいったのも外聞をはばかっただけ、お前のだらしないのに自分の身の危険を案じた事など一度も無い。
そんなことを全て口にするのは無理だった。荒い息が口をつくだけ。
「ハンユ、だからお願い、儀式を――誓約をさせて。誓約の儀式を、おれの心臓を捧げるあの儀式の許しを。父上も叔父上も許してくれないし、おれ一人で出来るものでも無いというんだ」
「だ、めだ……」
喘ぐようにして、やっとそれだけ言えた。
それはまれに行われる儀式だ。主人が長患いであったり、あるいは戦いで傷ついて死の淵を彷徨ったりしたときに。カグワトが願を掛けて自らの血肉を供物と捧げ、自らの命を捨てる代わりに主人の命を此岸へと引き戻す呪法だ。
最初のカグワト、あの弟がした儀式だ。
昔エンジュが奏した歌物語にはよくあった話だったろうし、また美談としても頻繁に語られるが、私はそんなことを弟に許すつもりは毛頭なかった。今、生きてエンジュの顔を見ることができて、心底良かったと思ったばかりだというのに、自分の生き延びるためにその命を受け取りたいとは思わない。全くぞっとする話だ。
「ハンユ、どうして。おれが半端なカグワトだから? おれのような駄目なカグワトでは、もちろん無駄死にになってしまうかもしれないけれど。せめてやるだけやらせてみてくれ。頼む。おれを役に立たせて」
寝台にしがみ付いて泣き出すエンジュに、私は目を瞑った。エンジュをこれほど追い詰めたのは、私の日頃の行いか。カグワト云々以前に、武家の男子としての立ち居振る舞いを教えていたつもりだったが、何もかもがカグワトとしての責務を全うすることを責めていたように聞こえていたのかもしれない。しかし、普段のエンジュは全く気楽に過ごしているようで、それほど深刻に私の言葉を受け取っているようにも見えなかったのだ。
「エンジュ、いい加減にしろ。ハンユは弱っているというのに、そんなところで哀れっぽく泣いても疲れさせるだけだ」
父が咎めるように言う。いかにも父らしい拙い言い方で、私は慌てた。助けを求めるようにクシを見上げる。
「お、じ上。、こはいいから――エンジュをあちらへ……てやって、……」
カグワト同士、クシ叔父ならばエンジュを上手く慰められると思っての言葉だったが、父は血相を変えてさえぎった。
「馬鹿なことを言うな、今の自分の状態を判っているのか、ハンユ。無理を押してそんな有様で帰ってきただけでも肝を冷やしたと言うのに。クシ、お前はここにいるんだ! エンジュ、お前はもう向こうへ行きなさい。ハンユは死に掛けているというのに、クシの手まで煩わせるつもりか、ハンユの治療を放り出させて? それこそお前の本意ではあるまい」
「ご、ごめん、なさい」
エンジュは、叱りつけられてしゃくりあげながら自分を取り戻したようだった。
「判ったらもう行きなさい。ハンユはもう少し眠るべきだ」
「はい――ハンユ、ご快復を、心から」
一瞬、私の肩に触れてから、泣きながら退室したエンジュを、どれだけ追いかけて慰めたかったことか。もどかしく、情けなかった。せめてエンジュが馬鹿げたことをしないよう、キリなり他の誰なり側についているよう指示して欲しかった。私のことなど本当にどうでもいいのだ。こんなもの、寝ていれば治ると叔父上も言った。それよりエンジュだ。なんとか口をきこうと喘ぐ私に、叔父は溜息をついて冷たい薬液を飲ませた。
その前後の記憶は曖昧だが、私は昏倒するように眠り込んだらしい。