13 リンホア
王太子の馬車は六頭立て、揃いの馬具も華やかだ。儀式のための神官たちは別途赴いているが、それでも同道する貴族や勢子など入れると二百人近い移動になる。先導は部下のタンガとキユに任せ、私は王太子の馬車に同乗した。馬車には殿下との二人きりだ。他に女官が二人乗るはずだったのを、殿下が煩わしがって下ろしてしまったのだ。仕方が無いから、無理に他の馬車に押しこんだ。
行列が出発するとすぐに、殿下は履を脱いで足を伸ばし、寛いだ。これをしたくて女官を下ろしたとしか思えない。外から見えないだろうとは言え、威厳の無いことこの上ない格好だ。まあ、今から疲れても仕方が無いので大目に見ることにした。
「なあ、ハンユ。どうしてキリを連れて来なかったんだ、そのうちそのうちばかりでさっぱり連れて来ないじゃないか。おれはお前の息子が見てみたくてしょうがないのに」
「また、おれなどと。外を御覧にならないでいいのですか。市井に触れる滅多に無い機会でしょう」
「田舎道なんか見たってつまらない。それに、お前があんまり叱るから、人前ではちゃんとそなただの予だのと言う言葉を使ってやっているじゃないか。二人きりのときくらい構わないだろう」
「言葉遣いは私のためになさるものでは無いでしょう」
呆れて笑う。
「そんなことはどうでもいい。キリだ。美少年だと聞いているぞ、どうして小姓としてでも参内させない? 役職ならばすぐにでも買えるだろう。おれが口添えしてやってもいい。おれの近侍として出す気はないのか。出世も早いぞ」
「あれは本当にほんの子供ですし、宮廷人としてではなく、始めは武人として育てるつもりでいますから。イン家の跡取です。体を鍛えて、堅信式を終えたら従卒から始めさせるつもりでいます。一足飛びに王族の側近くに侍らせるなど十年早い。私自身十足らずの頃から陛下の小姓として侍った経験から言って、息子には早くから参内させて汚い大人の世界を見せたくは無いのです。もちろん、陛下のお引き立てには感謝していますし、あれはあれで良い経験になったとは考えています。しかし、あの子はそんなことには耐えられない。聡い子供ですがそれゆえに一層傷つきやすいということもあるのです」
「ハンユは甘い」
「それは重々承知の上です。しかし私の息子です。たった一人の」
「おれの立場はどうなるのだ……」
確かに、生まれたときから陛下の寵愛を一身に浴び、貴族社会で育った殿下の前で言うのも口幅ったい台詞だった。しかし私の方針は変わらない。甘やかしだろうがなんだろうが、キリに関しては大切に育ててきたのだ、今更四年や五年の出世の差の為に、あれを殊更辛い目に合わせようとは思わない。それで出世の遅れるようなことがあったとしても、それがキリの分というものだ。私は若いし、父もまだ若い。焦ることなど何一つ無い。
王太子はため息をついた。
「まるで深窓の姫君のような扱いだ。お前が娘を持ったときのことを考えると、思っただけでも鬱陶しい。娘にしてみたら適わんだろうな」
そう言って笑う。
「まあ、娘を持つことはないと思います。そもそもうちには女手が無い、未婚の女性を引き取るような用意がありませんから」
「未婚の女性を引き取るって……養女を貰うことを前提にしてないか。本当の子を持つことをもう諦めているのか? 三年前、お前が養子を迎えたと聞いたときには驚いた。何かの義理がらみというんじゃなくて弟を貰った訳だろう。まだ若いのに子を持つことを早々にあきらめたと言うんで一時は男色だとか不能だとか言う噂が広まったものだ。もちろん、違うだろう」
「違います」
憮然として答えた。
「まあ、そうだろうな。不能の真偽はわからないが、男の方の噂はとんと聞かない。もし事実があればどこからかは漏れるものだからな」
殿下はあっさりと言った。こういうことをさらりと口にするようになるから王宮に子供を上げたく無いのだ。
「不能じゃないなら、妻を娶れよ、ハンユ。おれが言うのもなんだが、一人でいて寂しくはないのか。おれやお前の父のように女が多いのも不幸のもとだが、お前みたいのも何だか変だ。どうして女が近辺に寄るのを拒むんだ。子を産む女は男には必要なものだろう。お前の家のように大きな屋敷で、切り盛りする主婦がいないなんて不便だろうし、不自然だ。おれのまだ生まれてもいない娘については、あれは冗談だと思っていてくれていいんだぞ。もちろん、本気が無いわけじゃないが、先のことなんかわからない。あんな約束を本気にして、遠慮しているんじゃないかと思うと気がかりで、一度ちゃんと言っておこうと思っていたんだ」
「まさか、そんなことはありません」
女が近辺によるのを拒んだことなど一度も無い。向こうが寄り付かないだけだ。
「シュクラの男は生涯二人の伴侶を持つという。一人はもちろんその妻で、彼の息子の母親であり、彼の家庭の主婦である。もう一人はカグワトと呼ばれる特殊な存在で、彼の守護者であり、また被護者であり、稀有なことに――それだけの存在だ。妻は男に精神の安寧を、カグワトは主人に魂に救済を与えてくれる――」
「なんの経ですそれは」
「おれの家庭教師の言葉さ。堅信式も近いから、色々とこうるさい。おれもそろそろカグワトを迎える用意をしなければならないとかなんとか」
「ああ、それは――殿下には弟君がおられないから」
「ああ。それに母上はもう子を産みはしないだろう。ここ数年ずっと臥せっておられる。もっとも、あの母上を身篭らせでもしたら、おれが父上を絞め殺してやるところだ」
「殿下」
「それは冗談にしてもだ、かといって父上は他の寵姫に子を生ませもしないだろう。母の違う兄弟と言えば唯一ファナだけだが、あれもサワンの王にはばかった父上の、配慮の結果のようなところがあるからな。それも、母上を正式な后に迎えてからと時期を狙って作った子だ。それに、あの義母上が、子を授かったからといって正后である母上を虐げるようなところが無いのが判っていたのもあるだろう。仲は確かに悪いし寵姫だとはお世辞にも言えないが、あれで一番古くて気心の知れた女だという信頼もあるのさ。しかし他の妻妾はわからんからな。病弱な母上の死後を虎視眈々と狙っているものもある。そうそう気を許して子を生ますわけにもいかないんだよ」
父親の後宮の権力図を、他人事のように淡々と描いて見せるのが痛ましい。
「と、なると傍流の王族から適当な歳の子供を選んでカグワトの教育をすることになる。形だけでも養子を貰う事になるから、また色々と思惑も絡むのさ。おれがカグワトを持つのはまた当分先の話になるな」
歳に合わない苦笑いを浮かべる。
「本当は、ハンユがファナを貰ってくれて、子を一人おれにくれるというのが一番いいんだがな。甥を貰うならよくある話だし、ハンユの子なら折り紙つきだ。きっと大切にする。ファナの結婚相手としても、ハンユならおれも安心だし」
そしてまた話が戻って来る。
「率直なところ、ファナは悪くないと思うぞ。あんな身装でうろついているとそうは見えないが、割と美人だし頭も悪く無い。この際腕っ節は関係ないかもしれないが、それも悪くない。あれで確りしているから、お前のところのような家でもやっていけるだろう。第一、ファナが行きたがっているからな」
「しかし、あれは――」
反論しかける私を、訳知り顔で制する。
「貴人の娘が、結婚前に、夫となる男と口をきくのも稀な話だ。あれだけ幼い頃から懐いているんだから上等なくらいだ。それに、そうだ、ファナはあれでサワンの王位継承権第三位だ。ええと、現王と王の弟と二人の王子か、それがうまいこと死ねばファナの夫がサワンの王となる可能性は大だ。お前程の武人ならばサワンでも歓迎されるだろうし、公正で視野も広いから統治者としても賢王と称えられるだろう。お前の血筋が、なにかと煩いサワンの王となるなら、シュクラとしても万々歳だ」
「殿下。お口が過ぎます」
いくら他に人がいないとは言えさすがに窘めるべきだと思い、眉を顰めて見せる。
「それに、私は妻は迎えません。どこのどんな姫君であろうと、或いは娼家の妓女であろうと。そう決めたのです」
「だからそれがどうしてなのかおれにはわからんというのだ。おかしな話だ、カグワトは二人も迎えたのに、妻は一人も養えないのか。普通は逆じゃないか。それは確かにカグワトは武家にとって必要欠かざるべきものかもしれないが、妻だってそれ以上だ。お前のような家柄ならば、妻は二、三人囲って子供はその倍も産ますものだろう」
「子ならキリがおりますから」
「キリにだってカグワトは必要だろう。それも養子で済ますつもりか。そんなのはおかしな話だ。聞こえも悪い。結婚しない理由にはならないだろう。それともあれか、お前がそんなに女を避けるのは、例のあのヨウ家の家出娘の裏切りをいまだに根に持っているせいか」
「殿下――」
いくら貴い身分にあるとは言え、子供にここまで言われる自分も情けない。可能な限り声を厳しく答える。
「私は、妻は娶りません。確かに若いときは彼女の仕打ちに傷ついて、そんなことを決心しもしましたが、今の私のそれとは違います。私はキリの人生を引き受けたのです。武門の嫡子、将来の東方将軍として育ててきました。よし、子を新たにもうけても、血が繋がっているからといってキリと取り替えることなどできはしません。あれが私の嫡子なのです。しかしそれでは子の母も納得しないでしょう。そんなややこしいことに私の子ども達を巻き込むつもりは無い。新たに養子を迎えることがあったとしても、キリより年下の、私とは血縁の無い子供を迎えるでしょう。そしてカグワトも。多分、私の父がそうしたように、キリも外から自分で連れてくるだろうと思います。カグワトとして生きるのが、一番相応しい人間を選んで」
そう言いながら、考えていた。
リンホアは、カグワトとして生きるのが一番相応しい人間だったのだろうか。そしてエンジュは。
アユーシが家出して行方不明になったと聞いて、私は確かに傷ついた。花嫁が結婚話を嫌って逃げたというのもつらかったが、何より一度顔を合わせて、話をしていながら尚、おそらくそれ故に、彼女が私を厭ったという事実がまだ若く多感だった心をより深く抉ったのだ。自分はそんなにも少女に不快感を与えるような容貌だったろうか。それとも口の利き方が、仕草や或いは無造作な言葉のどれかが? 夫とすることを避けるために、深窓の姫君が、有り得べからざる失踪など敢えて試みるほどに?
リンホアはそのときまだ十になったばかりだった。背など私の腰ほどしかなかったくせに、大人びた仕草で私を慰めたものだ。
「お気を落としなさいますな。兄上には、リンホアがいるではありませんか」
力づけるつもりか手を握って――そう、小さな手だったが温かかった。真摯なまなざしにほだされて、ようやく微笑むことが出来た。
「ああ、そうだな、そうだ。お前がいる」
この弟がいるからもういい、そう思ってしまったのだ。息子のような、妻のような。そしてカグワトは確かに生涯の伴侶でもある。キリを養子に迎えたのもリンホアの勧めだったし、その言うがままで私はいつも家庭的に幸福だった。リンホアは聡明で美しく、いつも正しかった。何より私を愛してくれていて、私ただ一人の為にいた。それ以上望むものなど何一つ無い。
リンホアは、生まれたときから私のカグワト、そう生きることを定められていた。ひょっとしたら、他の生き方もあったかもしれない、あれだけ聡明で、美しく、正しかったのだから、どんな職についてもその才能を発揮したことだろう。けれどそうだ、確かに言える、あれは私の伴侶として幸せだった。私はいつも最善を尽くしたと誓えるし、あれもそれを理解してくれていた。妻も主婦もいない家で、私は幸せな家庭生活を享受していた――あれもそれを喜んでくれていた。それは確信できる。理屈でなく、あれを思い出すたびに幸せそうに微笑んでいるところしか思い浮かばない、小さな喧嘩もあったがそんなことは瑕にもならない些細なことだ。彼は私の側で安心し、委ね切り、まるで眠たい子猫のように寛いでいた。カグワトという生き方が彼に相応しいか相応しくないかという問いかけなど無意味なことだ、彼は何一つ悲しんでなどいなかった。私は彼を哀れに思ったことなど一度も無かった。私が悲しいのはただ一つ、あれを一人で死なせてしまったことだけだ――。
しかしエンジュはどうだろう。私はいつも彼を悲しんでいる。罠から抜け出したがってもがいてばかりいる小鳥を見るようだ。白の正装も北の棟の小さな部屋も、彼にはちっとも似合っていない。リンホアがこざっぱりとして清潔なもので、小栗鼠の巣のように居心地良くこしらえていたあの部屋も、エンジュにかかると狭く厭わしい檻か鳥籠のように見えてくる。
彼が傷ましかった。しかしどうしようもない。一度カグワトとして迎えたからには一生面倒見る、それよりほかにとる途は無い。それがカグワトというものだし、私自身、そうしたいのだから。
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王家の狩場、ビュイックの森は都の東南、半日ほどのところにある。瀟洒な別邸の建つ美しい森で、この時節は特に過ごしやすい。この華奢な装飾の施された建物は先々代の国王のお気に入りで、清い泉で舟遊びもでき、空気も良いので静養の為に度々使われた。
到着した晩は一泊し、清いものを食べ、身支度を整えて翌早朝からの狩りになる。先だってここまで赴いて支度を整えたのが効いたのか、例年のような雑然とした混乱も無しに一同すんなり在るべき場所に落ち着いた。
ギタンに王太子の身の回りの世話を任せ、それぞれに仕事を任せておいた部下たちの報告を聞いて、万事順調なのを確認しようやく安心した。
後は天気の良いのを祈るばかりだ。