12 王女
王女は廊下を渡りながら、求婚している割には無邪気に私の手を握る。人目が気になったが振り払うのも可哀想だと思い直した。王女は昔からそうだから、私に惚れているというのは嘘とは言わないでもいわゆる気の迷いではないかと思う。女性心理に精通しているなどと言うつもりはないが、女が本当に男に惹かれたら、彼女のように軽々しく抱きついたり手を握ったり我侭を言ったりはしないと思う。求婚されるたびに困惑するのはそういう理由もある。顔も知らない他人に嫁がされるより、見知った私の家に入りたいというだけの理由で言っているのではないだろうか。
ファナの母の生国サワンは小さな民族国家だ。シュクラに朝貢する立場のいわゆる属国に過ぎないが、歴史は古く、尚武の土地柄ゆえ勇猛果敢な民族として知られている。母はサワンの王家の姫だったが、十七歳で現国王の側妃として迎えられた。そのとき、既に玉座についていた国王は二十歳、既に正夫人として迎えられることが決まっていたティドの母である現王后は十に満たない少女であった。正夫人が本当の意味で妻として迎えられるに時間的な猶予は十分にあり、それより以前にサワンの姫が男児を産めば、その子がシュクラの王位継承権第一位となることは十分に考えられた。それを見越してサワンの元王、つまりファナの祖父も愛娘を外国へ、しかも身分の不安定な第二夫人として差し出すことを決断したのだ。
しかし、生憎ファナの母は王と折り合いが悪かった。サワンの女の価値観は、強い男の妻となって強い男を産み育てることを美徳とする。サワンでは、どちらかというとシュクラでは無骨ものとして敬遠されるような類の男がもてはやされる(私はサワンに生まれればもてた筈だ)のだが、その彼女にとって例え君主国であろうとも、シュクラの男に娶されるなど屈辱以外の何ものでもなかったようだ。現国王もシュクラにおいては本職の武人に見劣りすることの無い偉丈夫だが、そもそもサワンの価値観から行くとシュクラの男など大半が文弱の一言で切り捨てられてしまう。また、シュクラの男の好みから行くと、サワンの女の褐色の肌は美人の規格からは外れるし、立ち居振る舞いも慎み深さや淑やかさに欠けるように映る。双方は嫌いあって、望まれた男児もなかなか産まれず、結婚から五年たってようやく生まれたのは女児で、シュクラの国法では王位継承権を持たなかった。
それがファナだ。
王は何事にも公明正大な方だが、唯一正后、つまり王太子ティドの生母への偏愛は傍目にも明らかだった。后は体は弱いが本朝一の佳人と謳われた人だし、気質も穏やかで優しく、私から見ても魅力的な方だ。まして王は彼女が幼少の頃にその美質を見抜き、幼い彼女に必ず妻に迎えると約束し、掌中の珠のようにしてその成長を待った女性だ。愛の深いこと言うまでも無い。長じて王太子ティドとその妹たちを産んだ彼女に王はかかりきりだし、もともと折り合いの良く無いファナの母は打ち捨てられたような形だ。それを気にするような彼女ではないのだが、娘のファナはやはり父親の愛情の薄いことを寂しく感じているのかもしれない。サワンにあれば王位継承権三位の貴い生まれであるのにと、彼女の境遇は私にとっても悲しいことだ。
幸い、后は悋気の強い方では無いし、ファナの母も大らかな性質だから、この二人の間は険悪ということも無く友好関係を保っている。かえって体の弱い后が後宮運営においてファナの母を頼りにしているところもあるくらいだ。ファナの母の方ももともと愛していない夫の愛を独占しているからと言って后を嫉妬する理由も無いし、父親と違って政治的野心を持たないから正后の病弱を良いことに、自分が優位に立とうと謀る事も無い。
だから二人は親しく行き来し、后を訪れていた私もファナとはよく顔を合わせた。私はファナが親しく口を利く、唯一の年上の男だったわけだ。嫁にどうこう、というよりもやはり、どうしても年の離れた妹か、娘を見るように見てしまうし、彼女のほうもまた父親を望んでいるのではないかと感じていた。
後宮への廊下の前に揃って立ち止まった。小さな部屋のようになっていて、常時古株の女官と衛視が詰めている。入り口は後宮側からしか開かない。女官が戸から声を開けたときだけ、向こう側の女官が鍵を外してくれる。その先は長い廊下になっていて、すぐ脇に小さな部屋がある。客が入れるのはそこまでだ。客は僧侶や後宮で働く女の親族、商人が主だ。女性ならばまだしも、男性は例え父親でも滅多なことでは許可がおりない。王子であっても母親に面会するには許可が要る。私が後宮に出入りしていたのはまだ少年と言っていい年頃だったのに加え、王の溺愛する正后の懇願があったればこそだ。私の母は正后と従姉妹同士だったが、亡くなる前に私の行く末をよく頼んでいたらしい。それで正后は本当の母以上に私を気にかけて下さっている。
しかし今日はあらかじめ許可も受けていないし、王女の付き添いであってもみだりに立ち入ることはできない。別れるべき時だったが、王女は名残惜しそうになかなか後宮への戸を潜ろうとしない。
「これは? 初めて見る」
王女が私の腰のものを指して言う。今朝ムトウに貰ったムンナイトの剣だ。
「これはお目敏い。御覧になりますか」
「勿論だ」
私は苦笑して鞘ごとベルトから抜き取り王女に手渡す。彼女は慣れた手付きですらりと抜き放った。天にかざして感嘆の声を上げる。
「これは――素晴らしいな」
「そうでしょうとも」
「欲しいな」
嘆息とともに混じりに呟く。彼女が私の腰に目をつけたときから、それは予想していたことだった。
「杯の処女を恙無く遣り遂げるとお約束下さるなら差し上げましょう」
と言うと、
「褒美など貰わずとも弟の晴れ舞台だ、全力を尽くす」
きっぱりと言い切る。
「それを聞いて安心いたしました。では、こちらの短い方を守り刀に差し上げましょう」
対になった刀の脇差の方を差し出すと、ファナは口を尖らした。私は刀を抜いて刃を見せ、鋭さや美しさでは長剣に遜色ないことを示すが、皇女はまだ不満げだ。
「そんな中途半端なもの。そちらの大きい方はならないのか」
「当たり前です、女性がこのような長いものを帯刀しているところなど見たことがありません。小さい方ならばお守り代わりに夫の印のついたものを持ち歩いている貴婦人もいますし、上着の下に入れれば目立ちませんから、こちらで我慢なさい。そのかわり、この長刀はハンユの身に着けて、姫の危機には一番にお助けに上がりますから」
「――ハンユと対か」
俄かに機嫌を治して王女は微笑んだ。
「まあ、いい。これならば一番上のスカートの下に忍ばせられるし、私でも片手で扱える重さだ」
満足げに言って、弾むような足取りで廊下を渡って行った。余程刀が気に入ったのだろう。これならば私にも確かにわかる、良い品だ。エンジュの好みもこれほど判りやすければいいのに、と思った。