11 王太子
私の生母は王族で、王太子ティドの母である正后とは従妹同士だった。母は正后が幼い頃から妹分として可愛がってもいたらしく、その繋がりで、正后は物心もつかぬうちに母を亡くした私を大層不憫がり、なにくれとなく目を掛けてくれていた。
そのため、成人前から私は東宮によく出入りし、王太子のことも弟のように思っていた。それを彼も覚えていて、十歳になった年からずっと、私を近衛に欲しいと父王にねだっていたらしい。今年成人の儀を控えて、私を王宮勤務に引っ張ったのだ。
東宮まで徒歩で行って私室への廊下をさっさと進んだ。いまさらいちいち案内を請うようなことは無い。
「殿下」
「ハンユ! 」
十三にしては大柄な殿下は、乱れ髪に部屋着のまま、私を待っていた。
「なんです、その髪は。出発はすぐですよ」
呆れて問う。
今回の狩の主役ともあろうものが、こんな差し迫った刻限にそんなみっともない身装りで何をしているのか。
「だからお前を待ってたんだ、ハンユ! 余の髪を結ってくれ。もう一人前の男になろうというのに女に頭を弄られるのは我慢ならん」
憤然として言うので、私は思わず笑い出した。殿下は腹を立てたように足を踏み鳴らす。
「何が可笑しい。余はあと二月もすれば成人するんだぞ。男も大人になれば髪だって身の回りの世話だって男がするものだといってたのはお前だ! 女に世話させるなんて赤ん坊だと」
「そうは言っていません。殿下も嗜みとして髭くらい自分であたられるようにならなければと申上げただけです」
「予はまだ髭など生えない」
「すぐですとも」
私は笑い、殿下の髪を整えるために女官に香油と剃刀を所望した。
「軍人らしく剃り上げてくれ。長さは足りるはずだ。ここのところのばしているからな」
「帽子を着けますからどうせ判りはしませんよ」
「構わん! 凛々しくな」
張り切って叫ぶ。
殿下の髪は艶のある墨黒で、癖も無く扱い易い。私の灰色の、固い髪とは大違いだ。
もともと子供の髪は柔らかいものだが、殿下のそれはことに素直だ。どう結っても見栄えがするし、布で被うのが勿体ないくらいだ。歳にしては上背もあり、きちんと鍛えていて体格もよろしい。顔立ちも本朝一の佳人と名高かった正后に似て、利発そうな黒い双眸が魅力的だ。父王譲りの意志の強さが口元に表れている。
「殿下もお父上の後を継いでいずれ万軍を率いなければならないご身分です。そんな事は万が一にも無いとは言え、いつでも戦場へ赴けるように準備だけはしておかなければなりません。殿下にお世話させるような身分のものはいはしませんが、これ自体嗜みとされていますから、できるという事実だけでも違うものです」
諭しながら生え際を丁寧に剃り上げる。
「昔ある王が死地に赴く将軍の髪をてずから結ったので、将軍は酷く感激して一度もその髪を梳かない内に凱旋したという逸話も残っていますからね」
「知っている。マードとアイジの話だ。十五対一の兵差を破ったんだ! 」
殿下は興奮して頬を赤らめた。ついで眉を上げて揶揄するような顔を作る。
「それにしてもそなたときたら、いつ会っても家庭教師のように説教臭い。」
「お気に障りましたならお許しを」
「構わん。でも、そんなんでは女にはもてんだろう」
子供に痛いところをつかれて言葉も無い。何しろ私は二度会っただけの許婚に逃げられた男だ。
「朴念仁ですから」
と短く答えると、殿下は慌てたようにとりなした。
「冗談だ。父は社交界では見るだけで処女を妊娠させるとまで言われた男だ、息子のそなたがもてないはずが無いだろう! 」
「お恥かしい……消えてしまいたいです」
大きく溜息をついた。
「到底消え入りそうも無いでかい図体で何を言う。冗談では無いぞ。そうだ、どうだそなたたち、予が赦すゆえ今夜ハンユの寝所へ忍んで行かぬか」
殿下は突然矛先を周りに侍って笑っていた女官に向ける。女たちは可笑しそうにころころ笑った。私は慌てて殿下を諌める。
「殿下、恐れながら殿下のようなご身分のかたが軽軽しくそのようなご冗談を仰られてはなりません」
彼のような立場の人間に命じられて一介の女官が否と言える訳も無いのだ。いくら女ひでりでも、そんなことを強制したくはない。
「笑っていないでなんとかいったらどうだ、そなたたちの望みを代弁してやっただけなのに、余が叱られたではないか」
「殿下、どうか」
「ハンユ! 」
魂消るような大声と共に背中に何か重いものがぶつかって、私は肝を冷やす。声は若い娘のものだった。
「ファナ様、刃物を扱っている者に飛びつくのはいけないと何度も申上げたでしょう! 」
叱りつけ、背中にしがみついた彼女を振り落とすと、相手がハンユなら大丈夫だと思ったなどといって悪びれずに笑った。
王女ファナはティドの三つ上の異母姉、黄金色の滑らかな肌は南国サワンの王族出身の母譲りだ。長い黒髪を細かく分けて編んで纏めて結い上げたサワンの武人風の出で立ちだ。目が大きく、はっきりした華やかな顔立ちだが、これはサワンの血を濃く継いでいることを示している。
サワンは尚武の国柄だから、貴人の子供は男女の別なく皆武道を治める。男子の教育は男親が、女子の教育は女親が責任を持つシュクラの習慣が悪く働いて、母親に鍛え上げられた王女はシュクラの女にはちょっと有り得ない程腕が立つ。
「ハンユ、ファナは来月で16になるぞ。約束だ、嫁に貰ってくれ! 」
最近会う度言われる言葉をまた繰り返す。正直、そんな約束をした憶えは無いのだ。あっても王女が六つやそこらの約束だろうから時効だろう。
後宮の后をご機嫌伺いのため訪問すると、どこからか沸いて出て私の膝にまとわりついていたのが当時10にも満たない頃のファナだ。后とファナの母は、一人の男を挟んだ妻同士としては珍しいことに、驚くほど仲が良い。ファナの母に到っては、多分夫よりも后と過ごす時間の方が余程長いだろう。と、言っても夫と共に時間を過ごすことなど近頃では皆無に近いようだが。
「誰が姉上のようながさつな女を嫁に貰うものか。ましてや相手はイン家の総領だぞ。それでなくとも選り取り見取りだし、ハンユの妻には余の娘をやるともう約束してあるんだからな」
「ティドの娘などまだ産まれるか産まれないかもわからないじゃないか。結婚してもいないくせに。ハンユが爺さんになってしまうぞ」
「ファナ様……いくら姉君とは申せ、王太子殿下のことは殿下と呼び掛けるかせめてティド様とお呼びなさい」
嗜めると不満そうに口を尖らす。
「そういう風にひとを子供扱いしてちっとも本気で聞かない。話を逸らすな。ファナはお前に求婚しているんだぞ! 」
女の方から男に求婚するなど聞いたことも無いし、どちらにせよ、シュクラの王族が貰ってくれ貰ってやろうで結婚など出来るわけがない。しかしここできっぱりと断りでもしたら、ファナは男に求婚した挙句に断られたと宮廷中に広まって傷物扱いされてしまう。どうでも冗談としてうけ流したいのは当然の親心だ。
「私を誘惑したいのならば、せめてそのようにスカートの尻を絡げて脚を剥き出しにするのは控えることですね。大人の女性として見ろというのが無理というものです。半月後には、"杯の処女"をなさるのでしょう。あのずるずるした衣装を着こなす為には今から裾の捌き方に慣れておかないと。大舞台ですっころびでもしたら、歴史に名を残してしまいますよ」
「あのカタブツの歴史編纂所が、そんな面白い出来事を正史に記録するものか! 」
殿下が可笑しがって叫ぶ。
杯の処女とは、堅信式のときに聖水を入れる杯を掲げ持つ女性の役割のことで、通常、当人の近親者で、未婚の女性が任命される。儀式に立ち入る唯一の女性で、重要な役割だ。
「貴族が面白がって噂しますよ。もちろんこのハンユも日記に書きますとも。孫子の代まで語り継いで差し上げます。それは殿下、貴方も同じお立場ですよ。心しなさい」
殊更に厳しく声色を作って戒めると、姉弟は顔を見合わせて笑った。
「さて、殿下はもうお着替えをなさってください。姫は私が宮までお送りいたしましょう」
「わかった。馬車は、お前も一緒に乗るんだろう」
「私は騎馬です。親衛隊を指揮しなくてはなりませんから」
「どうしてもか? 副官にさせるわけにはいかないのか? 」
殿下が哀願の仕草をして見せる。主君が臣下にするようなことではないと何度も嗜めているのに一向に聞き入れない。これをされるとつい言うことを聞いてしまう私も悪いのだが。
「本当は、予も騎馬で行きたかったのに、それをお前が強く言うから仕方なく馬車にしたんだぞ。なのにこんな小さなわがままも通してくれないのか」
わがままと判っているなら控えてくださればよろしいのに。
「私の部下を同乗させようと考えていました。年が近いですから話が合うかと」
「お前がいいんだ」
「――判りました。では、また後で」
「同乗するんだな」
「はい」
渋々答えた。殿下は満足したようで
「では、退がってよろしい。姉上、狩の成果を楽しみにな」
そう言ったので、私は王女を促して退出した。