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8章 ようこそ、世界へ

「あ、目が覚めました!先生!」


 目が覚めると人工呼吸器、輸血針、ベルトで手足を拘束されていた。ベットには少しだけ角度がつけられているから、自分の体を上から見る格好となっていた。


 生き返ったのか、死に戻ったのか、悪くない気分だった、しかも目覚めて初めて見た人が親しい人の顔だったというのだから。だが天井が少しだけ寂しい。


 あの星空が懐かしい。


「ヒジリさん、わかりますか!?聴こえてますか!?」


 制服姿のミトリが必死に呼びかけてくる。同時にオーダー所属らしい医者の男が、首に手を当てて脈を確認してくる。


「ああ、大丈夫だ。悪いけどこれ外していいか?話難い」


 頭にバンドで固定されている人工呼吸機の目線で示して知らせる。だがミトリは首を振った。


 仕方ない―――無理にでも酸素を吸わせなければならないのは、誰が見ても明白だった。血を大量に失って酸素を運ぶ機能が弱まっている以上、また意識を失うかもしれないからだ。


 医者は容態を診た後、すぐに出て行ってしまった。


「どのくらい眠ってたんだ‥‥?」


「えっと‥‥私が昏睡状態のあなたを発見して大体20時間程です。一日経ちました」


 思ったより経ってない。だが、早いなら早いほどいい、きっとあの人に感謝すべきなのだろう。そう心の中で考えながら起き上がろうとしたが、ベルトで手足を拘束されているのを思い出す。何故だ?眠っている途中に地震でもあったのか?


「ダメです!動かないで下さい!今、外しますね」


 ベルトは金具で固定されているだけだったので、ミトリがすぐさま外した。必要があったとはいえ、縛り過ぎだ―――ベルトの跡がくっきり残っている。


「痛かったですか?ごめんなさい、でもヒジリさん‥‥意識がないのに身体中が震え出して、決まりでこうしなくちゃいけなくて‥‥」


「別に気にしてないから。俺の為にしてくれたんだよな、ありがと」


 マスクをつけた顔のままで、ミトリの謝罪を止める。この一日、本当に心配してくれていたらしく、珍しく目にクマが出来ている。


 心臓は問題ない、そして目も。あの記憶は事実なのか、俺自身わからない。心臓に宝石を押し込まれて双方共々握り潰されたらなぜ目が使えるようになるのかわからない‥‥なんの確証もない。だけど、それを信じるしかない。


「俺は、どうなったんだ?」


 ネガイもマトイもいない。


 いる訳がなかった、俺を殺した犯人がここで座っている筈がない。


「私が食器を回収した時、あなたは口や目から出血していました。もう、見てられないくらい、病室が血まみれでした‥‥。もう私どうしたらいいかわからなくて、急いで先生を呼んで」


 あの感覚は事実だったようだ。マトイに内臓をまとめて潰されて口から血が溢れた。白いシーツやカーテンが真っ赤に染まっていただろう。


「悪い、気持ち悪かったか‥‥」


「なんで謝るんですか!‥‥大丈夫です、続けますね」


 話を続けようとするミトリの後ろで、オーダー正式装備のスーツを着た大人が腕を組んでいる。


「この人は?」


「君は今ここが、どこだかわかるかい?」


 急に話しかけてきた。ここは‥‥治療科の病院ではなかった。間取りや家具の配置はあまり変わらないが、窓の景色が違う。


「私は詳しくは話せないが見ての通りオーダーの人間だ。安心していい、君を拘束する気はない」


 柔和な声色だが、顔の表情が殆ど動かない。今は敵ではないようだが、今後も味方でもない。そう気配が伝えてくる。


「早速で悪いが、君を病室で襲ったのは誰だ?」


「悪いが素性も話せないで、俺はオーダーだって言ってる人間に話せる内容じゃない」


 目線が鋭くなった。めんどくさいガキだと、顔に書いてある。だが俺の言った内容はオーダーでまず最初に叩き込まれる。オーダーは偽物が最もなりやすい職種であり、名乗りやすい脅し文句だった。


 聞き取り調査をするにしても一人でなんて、聞いた事もない。


 何よりもう4度死んでいる。並みの強面じゃあ何も感じない。


「私が省庁の人間だと言ってもか?」


 酸素マスクに輸血姿の患者に向かって立場を使って脅してくる。鼻で笑ってしまう―――三下だ。それ以上の評価は不要だ。


「だったら尚更言えない。オーダーがどうして出来たのか知らないのか?」


「怪我人だと思って、何もされないと思ってるのか?」


 短気過ぎる。言い返したら顔を歪ませて足音も気にせずにベットに迫ってきた。


 権力を盾に被疑者や被害者へ暴行し証言を取る。それは、オーダー法で傷害より上で殺人とほぼ同列だと知らないらしい。それとも裁かれるわけないと思ってるのか?


「お前の心情などどうでもいい!さっさと言え!誰がいた!?」


 スーツの自称オーダーは掴みかからん勢いで叫んできた。それを見てミトリ一歩後ろに引き、内腿に隠しているデリンジャーを触った瞬間—――医者がスーツの肩を掴んでいた。


「何をしているのですか?ここは病室でオーダーに所属している院ですが」


 いつ入ってきたのかわからなかった。扉近くのカーテンが全く靡かなかった。


「これは歴とした公務だ。ただの医者が邪魔をしないで貰えますか?」


「ここがどこかわからないようですね?私は貴方の言う所のオーダー本部の任でここに勤めている。これ以上、無礼を働く気ならお前は失踪者扱いになる。再度聞く―――お前はここがどこか、わからないのか?」


 ガットフック―――肩を掴んだ医者の白衣の袖から刃物が飛び出る。


 その刃は猟師が動物を解体する時に使う刃物だった。


 刃を体に食い込ませから峰の返しで、毛皮に引っ掛け切り裂く事を目的にした刃。少なくとも医者が持っている物ではない。


「失せろ、テメェがオーダーだろうがどこに所属してようが、ここは病院—―――傷と病気を治療する施設だ。消えろワン公」


「ちっ!‥‥私がここにいる理由をわかっていますね?」


「ああ、わかっている。臓器提供の為だろう、ありがとう、ここの患者の為にその身を捧げてくれるなんて‥‥見上げた自己犠牲の精神だ。お前の身体は無駄にしないと、ここで誓おう」


「こんな野良犬供のために、私が身を裂くか!」


 医者の腕を肩で振った男が、部屋中を睨みつけてから出ていった。ワン公―――それは警察への蔑称だった。成る程、答えが気にくわない筈だ。


「大丈夫か?すまないが、目を見せてもらえるかい?」


 何事も無かったように胸ポケットからライトを取り出して、眼球運動を確認して貰う。その後痛むところや気分を質問され、診断をしながらカルテに何かしらを書いていく―――ネガイと同じだった。


「目も回ってないし。血で目が染まっていないか‥‥」


「先生、アイツは?」


「彼か?君がここに運ばれてから少し経った時に来たんだ。大人しくしているから放って置いたんだが、躾けられて無かったようだね。ここで、いやオーダーの病院で暴れようものなら何が起きるか知らないなんて、少なくとも我々の部外者だろうな」


 この先生も詳しくは知らなかった。また、この言い方をしたという事は、もう何かしらの手は打ったのだろう。


 科と呼ばれる学科は高等部や大学にあるのみで、プロになってフリーであろうが役所勤めの公務員であろうが、科と呼ばれる分け方はされない――――だが、一部例外として、治療科は学生時代と同じで枠組みがそのまま引き継がれる。


 よってオーダー校の救護棟と同じように、患者や院の運営に手を出すという事はここの人間全てを敵に回し、敵陣にいる事になる。


「私も誰なんだろう?とは思っていたんですけど、ここにいるので無害な方だと‥‥」


「いや、俺だってあの格好でここに立ってたら何かしらに関係者だと思ったよ。それより、ここはどこなんだ?」


「ここはオーダー地区の中にある病院だ。学校の登下校時に見えていただろう?君は救護棟で事故か事件かはわからないが、血を浴びるように吹き出し、救護棟では手に余るとしてここに搬送されたのだよ。手足の拘束もそのためだ」


 救急車かヘリか知らないけど、見た目でわかる程の重篤患者を運ぶのなら指一本動かさずにする必要があったのだろう。


 しかも急激に血を失ったせいで脳が異常をきたし、身体が暴れていたと。


 それは俺の為にもやる必要があったに違いない。


「にしても君、その状態でよく喋れるな。目が覚めてまだ一時間も経ってないのに、若さの特権か?」


 自分でもマスクをつけられて枕から頭一つ動かせないくせに、よく口が回ると思う。だが、実際は、頭がまだ重くて視界に白いモヤが見える。


 これは麻酔か鎮痛剤、もしかして睡眠薬か?血が足りないという事は急いで血管を細める必要がある。これらの薬を使って一時的にでも血の流れを緩めたのか?


「病院で目が覚めるのは2回目なので‥‥もう麻酔明けにも慣れました」


「その若さで、か‥‥。それは将来期待出来る経験だな。まぁ、オーダーだったら誰しも通る道だが、君のそれは異質のようだ。薬慣れは、しないように」


 カルテを書き終わったらしく、先生は椅子から立ち上がって胸ポケットからスマホを取り出す。それを指で一度押すだけで閉まってしまう―――。


「先生、俺はいつ退院出来ますか?」


 正直今すぐにでもここから出てあの二人に会わないといけない。目が覚めたら話すと言っていた。話せる範囲じゃなかったとしても、全て聞き出さなければならない。


 高い確率で戦闘になるだろうが、それでも会わないといけない。


「まだまだ、と言った所だよ。正直言ってこんな短い時間で意識が回復するなんて有り得ないと思っていた。君の場合、ただの出血性ショックという枠組みに収まらないレベルの昏睡状態だった、まるで意識が戻ってくるのを何か強い力が拒否しているようなね。外傷もなく、ctスキャンでも骨は勿論内臓にも何の問題もない。この病院で出来る事は大量の輸血、それだけだったよ」


 先生は再度、呆れるように眺めてくる。


 ただの出血性ショック。確かに意識を失う時の感覚はまさしく血を大きく失う、だった筈だ。


「吐血以外で身体には異常がなかったんですか?」


「ああ、その通りだよ。緊急で搬送されてくる時の報告で、君が突発的に血を吹き出して死にかけている、という眉唾な症例そのものだった」


 確かに感じた、マトイに身体の中をまとめて潰された感覚を。そして実際に俺は血を吹き出した。あれは嘘じゃない――――なのに、体の中は無傷だった。


 ミトリにアイコンタクトだけで確認をする。


 先生がこう言っているという事は、あの二人については何も話していないらしい。


「仮にも君はオーダーなんだ、危険なドラッグとかはしていないでくれ。ああいったのはどんどん新しい植物やなかには動物を使っているから、どんな処置をすべきかすぐにはわからないからな」


「いいえ、俺はそんな危険なものを扱う程に、スリルを求めていないので」


 けれど、経験した黒い布に襲われた、という証言は決してラリっていないとは言い切れない話でもあるのは、間違いないだろう。


「ミトリ、今学校はどうなってる?」


「えっと、私はあなたに付き添っていたので詳しくはわかりませんけど‥‥少なくとも、今の救護棟は完全に部外者を排除しています」


「完全に‥‥」


「そうだろうな、私がいた時からあの学科は有事の際、異常な程閉鎖的になるから」


 先生が思い出すように、ミトリを遠い目で見つめる。日本にオーダーが出来てもう20年は経つが、やっている事はそんなに変わらないのかもしれない。


「救護棟内で事件か事故かわからない出来事が起ころうものなら、あそこは患者と治療科の人間以外は誰も入れない。例外があるとすれば‥‥まだあそこは研究室が幾らかあるのかい?」


「はい、あります。私も実技などで薬品を使う時は、研究室で授業を受けています」


 先生がミトリに学校内の事を聞いて、やはりといった感じに俺の方を見てくる。


 今の研究室は実験棟にあるが、一部を除いて救護棟にもある。先生もあそこの棟を使っていたのだから、ある程度知っていて当然だ。


「ならば、分析科の生徒なら許可を貰えるだろうか」


「俺は治療科や分析科に知り合いがいるので、俺も許可をもらえる事は出来ますか?」


 ネガイに会えるとしたら、やはりあの実験室だ。むしろ、あの場にいないとしたらネガイがどこにいるかわからない。寮にいる可能もあるが、何の用も無い日でも行くと実験室にいた。寮よりも高い確率であそこにいる。


「そうだな‥‥捜査の一環と言えば理由は通るだろうか。被害者の自分が自分の事件を捜査なんてオーダーでは珍しい事でもない」


 俺はこの事件の被害者だ、ならばこの件は他人の手で解決される事は無い。


 何より俺以外は関われない。殺した方法なんて本人が1番わかってる、あんな非現実的な殺人では俺の体感以外、証拠も無いだろう。


「ミトリ、30円貸して」


「えっと‥‥あなたが金欠なのは知ってましたが、そのレベルで‥‥」


「大丈夫だよ、ここへの入院費は救護棟が支払ってくれるから。何より君は襲撃されて倒れたのだろう?だったらオーダー保険が適用されて」


「電話だ!電話!自分の装備を回収したい。後、悪いけど車椅子を持って来てくれ、もしくはスマホを貸して」


「携帯での電話は場所を選んでくれ、他の患者の迷惑になるからな。では、私は行く、せめて今日明日はいてくれよ」


 興味もない、と言った感じに先生が出て行った。


 長くここで留まっているわけないとわかったのか、それとも患者が勝手に出て行くのはここの病院にとってそれほど珍しくもないのか。


 どちらにしても三日後には出ていい、というお墨付きが出たと考えるべきだ。


 だが―――二人で先生の背を見送った後、ミトリが話しかけてきた。


「私は治療科の生徒です」


「—――そうだ」


「本来ならあなたは絶対安静で、その呼吸器を外す事すら許されません。そしてその輸血もです。そんなに死にたいんですか?」


「その脅しは効かない――――もう二人に言われてる」


「私が食器を回収する時には、既にあなたは血に沈んでいました。だから、誰があなたをそんな身体にしたのかわかりません。不確実な事実から断定して味方を売るような行為を、私には出来ません」


 あの時、俺の病室にはネガイとマトイがいた。ミトリがネガイを案内してきたのだ、恐らく病室に入っていくマトイの姿も見たに違いない。


 どちらが、もしくはどちらもが犯人だと嫌でも考えつく、だがオーダーの味方はオーダーのみ、それに則ってミトリは二人を報告しなかった―――。


「‥‥あの二人を見てないか?」


「いいえ、見ていません。私はあなたの搬送に同乗していたので」


 ミトリが顔を振りながら知らないと言ったが、味方を売れないとも言った。


 もしかしたらミトリは嘘をついているかもしれない。更に言えば、ミトリがあの二人の共犯者かもしれない。あの二人の殺人が終わるまで待ち―――人払いをしていた可能性だってある。


「わかってます。私の事が信用できない、違いますか?」


 ミトリらしからぬ言葉だった。


 そんな言葉を引き出したのかと思うと、心臓が冷たくなる。


「私もあなたと同じ立場だったら、そう思います。なんで、病院で殺されかねないといけないのかと、怒りを覚えると思います。しかも私が出て行った直後にこんな目にあったんですよね‥‥」


 横になっている俺の隣にきて、腕に手を重ねた。


 瞬時に、この体の死期を感じた、ミトリの手を感じない。皮膚の痛覚が碌に機能していない。想像以上に――――死にかけている。


「すごい冷たいですよ。温かみを感じません」


「布団かけて。寒くなってきた。—――失血って、こんなに怖いのか」


「はい、血を失うと簡単に死ねるんです。あの先生から言われている事があります」


 ミトリが足元を覆っていた毛布をかけてくれたというのに、毛布の繊維すら感じない。しかも手で毛布を握っても感触がない―――寒気すら感じない。


「あなたをここから出してはいけない。ハッキリと言います、あなたは今、人間の姿をしていない。本当に死体みたいです」


 ミトリは小さい折りたたみ式の鏡を出して顔を見せてくれた。


 息を呑んだ。声が出なかった。自分の顔だと、思いたくなった。


「これが、俺なのか?」


「はい。これが今のあなたです」


 顔に血の気なんてない。片目が半開きで唇も色なんてついてない――そのくせ青い血管だけははっきりと見えて、皮膚が透明になったようだった。


 目も瞳の光が消えて、自分でもどうして見えているのか不思議に思ってしまう。


「酷いですよね。これが今あなたの全身に広がってます。ごめんなさい、酷いなんて言って」


 愕然とした。こんな姿で俺はあの二人に会おうとしていたのか。こんな姿で‥‥。


「わかりましたか?こんな状態で外に出れる訳ないじゃないですか‥‥私はどうすればいいんですか?あなたをここから連れ出すべきなんですか?それともここに縫い付けでも休ませるべきなんですか?‥‥もうやめて下さい。これ以上、誰も苦しめないで」


「ミトリ‥‥」


「私は治療科の人間です。あなたが救護棟に来た時、絶対に安静にしていち早く復帰させてあげようって思ったんです。でも、私は何も出来てません。結局‥‥私は誰も守れていません」


 俺がマトイと一緒にエレベーターから降りてきた時、ミトリはどう思っていたのか。いち早く治して復帰させてあげたいと思った人が夜中に歩きまわっていたなんて、彼女はどんな気持ちで背中を見送ったのか―――どうして何も考えてなかったのか。


 しかもそんな相手から信用出来ないなんて――何故、何も考えていなかったのか。


「あなたにこんな事言っても仕方ないって、理解しています。多分この件はあなた以外誰も被害者がいない、あの二人と話せるのも、あなた以外誰もいない事も知っています。そしてオーダーなら安らかにベットの上で死ねない事も知っています」


 オーダーにとって最優先は秩序だ。


 だが、今回善良な市民ではなく、オーダーの構成員の一人である俺が狙われた。だったらオーダーは俺一個人の為になんか絶対に動かない。今の今までプロの分析とやらが布切れ一枚調べられてないのも、たかだかオーダー一人の為に捜査するなんて馬鹿馬鹿しいからだ。


「それでも私はあなたを止めます。死にたいんですか?もうここでオーダーなんてやめて休んで、一市民として生活してもいいんですよ‥‥。怪我や病気でやめる人だっていますから」


 ミトリの手に血管が浮き出て皮膚が白くなった。


 重ねた手に力を入れて、強く腕を握っているのに――――まだ何も感じない。


「俺は―――ここを出ても行く所がない。それに」


「もうあの人はいない。だって、あなたを殺そうとして逃げましたから。そんな殺人鬼にあなたはまだ頼るんですか?」


「ミトリ‥‥だけど‥‥」


「もう休んで下さい、あなたは戦ってはいけません。それに‥‥言っておきます、もしあなたが今の救護棟に侵入するなら私は治療科の生徒として、あなたを全力を持って排除します。あなたが車椅子できても松葉杖でも同じです。でも安心して下さい、オーダーは殺人はしないので。もう一度、血の中で眠ってもらうだけです」


 ミトリの言葉に、幻肢痛を感じた。


 喉の奥から噴き上がってくる、もう失った血を――――内臓も何もかも吐きそうに咳き込んでしまい、慌てたミトリが胸元をさすってくる。


「ごめんなさい!本当に‥‥ごめんなさい、あの時を、覚えてるんですね‥‥」


 マスクを押さえて、呼吸しやすくしてくれる。それに従って目を閉じて大きく酸素を肺に取り込むが―――ミトリの顔が恐ろしくて、おぞましくて仕方ない。


 ミトリの言葉に恐怖を感じた。


 またあんな殺され方をするなら、もう諦めるしかないのかと考えてしまった。


 だが、マトイはどこにいるかわからないが、ネガイは救護棟の研究室階にいる。


 この目を診れる人間はネガイしか知らない。いずれ俺がオーダーに復帰したら会えるかもしれないが―――すぐにでも会いたい。


 だったら‥‥俺は一人で治療科の生徒を相手にする事となる。


 治療科の生徒は、確かに治療や衛生管理が主な目的だが、最前線で救護活動をする以上、射撃や体術は勿論、それらの技術は拠点の設営や防衛用に特化している。


「私だって今のあなたを撃ちたくなんてないです‥‥。でも有事の際には、私はあなたに銃弾を撃ちます。必要があれば何発でも」


 それでも、そうだとしても―――ここから出ないといけない。何故俺を殺したのか、あの布は何故俺達を襲ったのか、このままだと俺はどうなるのか。


 全て知らないと眠っていられない。それに、何より今。あの二人を求めている。


 まず自分の状況を再確認する。


 手は動く握る事も出来るが、銃や刃物を振り回す事はまだ難しそうだ。


 足は‥‥今のところ何かベットから蹴り落とす事は出来てもそれだけだ。自力では歩けない――――これは薬の効能がまだ抜けきってないからかもしれない。


 触覚は近く復帰すると祈るしかない。シーツを軽く指でなぞって質感を感じようとするが、まだ繊維の凹凸すら感じない。


 だが明日にでも杖か何か貰って歩行訓練をするしかない。血を身体中に流して神経を元に戻そう。そしてネガイやマトイに会う事よりも先にやる事も出来た。


「私はこれで帰ります。お大事に」


 ミトリが腕から手を離して、帰ろうとするので「待って‥‥」と声をかける。


「何ですか?もう私は必要ないでしょう?」


 突き放すようにこちらを見ずに言ってくる。それだけで苦しかった、普段の優しさに甘えていた。


「ありがとう‥‥」


「何で、お礼を言うんです?私は何も出来てないのに‥‥」


「ミトリが俺を見つけてくれなかったら、俺は目が覚めてなかった。ここで適切な処置もされなかった‥‥」


 確かに、食器の回収の為にミトリは来たのかもしれない。だけど俺の状態をいち早く見抜き、それを救護棟と、この病院に伝えた。


「何にも出来てない訳ない。俺はミトリが救護棟にいたから好きに歩いていられたんだ。ごめん、甘え過ぎてた。何かあってもミトリなら許してくれるって思ってた。そんな都合がいい話、あるわけないのに」


「反省してますか?」


 ミトリが振り返ってくる。ベットの側に来て見下ろしてくる。怒っているように見えるが、ミトリはいつも身を案じてくれている―――忘れてなんかいない。


 ミトリはいつも優しかった。こちらに来て、初めて優しくしてくれた人間だった。


「してる。今日は大人しくしておくから‥‥」


「今日はですか‥‥」


 呆れたような目を向けてきた。今のは悪かったと思い―――急いで訂正する。


「リハビリもしないで寝るから。もう眠いしな」


「仕方ない人ですね‥‥相変わらず――――明日また来ますね。リハビリ頑張りましょう。だから、大人しくしていてね。あとサイナさんにも連絡しておくので、ちゃんと起きていて下さい」


 いつものミトリに戻って、釘を刺すようにそれだけ伝えて病室から出て行った。


「しばらくは大人しくしていないと‥‥」


 そう呟きながら、心臓に命令する。手足に血を通して酸素を届ける。


「ゆっくり‥‥ゆっくり‥‥」


 急激に血を通して血管を傷つける訳にはいかない、詰まらせる訳にもいかない。


 心臓から頭、心臓から足の先。頭から足の先まで枝分かれしている血管をイメージをして鮮血を通す。


「—――熱い」


 汗が吹き出る。構わずにに鼓動を強くするが、そもそも血が足りない。思うように血を操作出来ない。けれど―――何度も続けて自分の身体を取り戻す。


 深呼吸をしてマスクから酸素を肺に取り込み、身体中を酸素で満たす。


「取り敢えずは、これで、」


 腕をあげて天井の明かりを手で透かして見る。こころなしか、白かった血管が赤に染まっていくように感じた。血が流れ込む感覚を強く感じる。


 足を上げて膝を曲げたり伸ばしたりも出来る。僅かながら、腹筋も使える。


「これもイメージ通り動いてる‥‥後は‥‥」


 目に血を通すイメージ―――だが、目の力は使わない。あくまで目のモヤを晴らす目的で血を使う。次にミトリが来た時の為、血を消さなくてはならない。


「戻ってきた」


 白いモヤが消えて、ようやく天井がはっきりと見える。壁のカレンダーやベットと反対側のクローゼットの木目調の柄も細かく見える。


 けれど―――急に目眩が襲い掛かり、視界が一気にズレる。急いで目を止めて天井を眺めて、目を落ち着かせる。


「これ以上は危険か。大人しく寝ないと」


 ベットに備えてつけられているリモコンを操作してベットの水平に戻す。だが枕元を見るが、明かりを消すリモコンはない。


 どこかと探すと、ベットエンドの上の壁にリモコンであろう物が垂れ下がっている。


 腕を伸ばしても届かない。ベットを操作しても届きそうにない。


 ナースコールでもするか、そう思ったがやめておいた。そんな事で呼ぶ訳にはいかない。


「この程度、自力でやらないと‥‥」


 肘をベットに立てて上体を起こし、壁にあるリモコンに手を伸ばすが届かない。仕方ないので、ベットエンドに寄っ掛かりながらベットに腰を下ろし、腕をあげてリモコンを取ると――――、


「あの‥‥もう寝てますか?」


 扉を叩く音とミトリの声が聴こえてきた。


「いいぞ入って来て」


「失礼します‥‥」


 忘れ物だろうか。ミトリは、気まずそうな顔で入室してくる。


「あ、もう座れるんですか?でもダメですよ。まだまだ寝てないと」


「でも、これが届かなかったから」


 明かりのリモコンを見せて、後ろの壁のリモコンがあった場所を親指で指す。


「すみません。出て行く時に私が消しておけば良かったのに‥‥」


「大丈夫だよ。これ位は自分でしないとな、それに、俺だって気付かなかったんだ。だから謝らないでくれ。いつでもミトリにおんぶに抱っこじゃ悪いから」


 リモコンを操作して明かりを消す。窓からの強めの月明かりが部屋を照らしてくるが、完全に暗いよりも、この程度の光量の方が良く眠れた。


「まだ明かりがついてるから、もう出て行こうとしているのかと思って‥‥ごめんなさい、心配性で‥‥」


「さっき約束しただろう?大人しくしてるよ。ごめんな。結局ミトリに心配かけてばっかりで‥‥」


「いいえ、気にしないで下さい。これは私がしたいからしているだけですから」


 ミトリが腕を取って脈を測ってくれる。その手が温かくて心地いい――――血を多く流し通した事で皮膚感覚が戻ってきたようだった。


「うん、正常ですね。でも、もう寝て下さいね」


「あ、ああ。大丈夫、もう寝るよ」


 ミトリの手の心地よさに眠気が誘われていた。危ない、本当に眠る所だった。


「はい、私もあなたをここで大人しくさせられて良かったです。もしあれだけ言ってもまだ動くようだったら、これをあなたの点滴に入れる手筈だったので。あ、顔に血の気が差しましたね」


 ミトリが優しく頬を撫でてくれる。今のは怖かった。お陰で顔でも感触を感じるようになった―――だが、ミトリが手に出したものから目が離せない。


 血清でも入ってそうな瓶だ。


「それは?」


「危ないものじゃないですよ。ただの睡眠薬です」


 青いラベルが見えた時、書いてある文字が読めてしまった。。


 ミダゾラム。睡眠薬の一つと言ってしまえば、それまで。効能がすぐに現れて六時間は効果が続く。そしてその効能の一つに―――、


「前向性健忘症か‥‥俺の記憶を飛ばす予定だったのか?」


「え‥‥知ってるんですか‥‥。でもそれは‥‥ごめんなさい、だけど‥‥ちゃんと分量を計って‥‥」


 前向性健忘症は単純に言ってしまえば―――投与した前の記憶があやふやになる。夢と現実の境を曖昧にさせて眠らせて、あわよくば誰がやったか忘れてくれれば―――そんな効力の持つ薬だった。


 誰もが、誰の顔であろうと、眠らせに来ている。


「俺はネガイと一緒に救護棟を出入りしてる。何も知らないと思うな」


 ミダゾラムはそれ単体での効果は勿論、全身麻酔の導入や、麻酔の維持の為に使う。そして副作用に心肺停止も起こりうる。


「俺を殺した殺人鬼だったか?この状態の俺に使おうものなら、お前が俺にトドメ刺すように見えるんだが?」


「でも‥‥これは、あなたの為に‥‥」


 ミトリが泣きそうな顔で見てくる―――その顔に、胸が締め付けられる。


 だが罪悪感とは、交渉事を有利の進める上で、定石の一手――彼女の特技だった。


「前にも言ったが、お前は俺にヒントを与え過ぎだ」


 ミトリのふりをした――――法務科が目を見開いた。


「残念です。気づかなかったら、また添い寝をしてあげたのに。この姿で」


 声が変わった。ミトリから、マトイに。それでも姿が未だにミトリのまま。


「お加減はどうですか?」


「見ての通り―――もし悪いと思ってるなら‥‥」


「思ってるなら?」


 マトイが枕元に来て、点滴や輸血パックの近くから酸素マスクを撫でる。


 何かあった時ようにナースコールの場所を見ないで確認する――――だが、それもどれほど意味があるだろうか。もしここで首でも締め上げられたら、何の抵抗も出来ない。できるだけ刺激しないようにすべきだが、彼女に会えて冷静ではいられない。


「全て話せ。なんで俺をこんな目に合わせたのかも含めて」


「全部は欲張りでは?それに、ある程度は予測出来てる筈です。答えを合わせていきませんか?」


 頭の隣、枕のすぐ傍に座ってスカートの布地の一部を顔に当てる。マトイの下半身の香りが鼻に届いた――――この匂いは救護棟の時と同じだった。


「病院で香料はご法度だろ?救護棟ならまだしも、ここでその匂いは後が残るぞ」


「でも、好きですよね?この香り。謝罪の意味も込めて付けて来たんですよ?」


 何の問題もないといった感じに、背中越しの至近距離で顔を覗いてくる。


 ミトリの姿をしたマトイの息が顔にかかり匂いも強く感じる。ミトリの大きい目と少しだけ茶色い瞳、鼻の高さまで全てさっきまでいたミトリと同じ―――目を使わずに我ながらよく気付いた。だが、そんな事よりも今は、マトイの香りを確かめたい。前にこの香りに包まれて眠った時に癖がついてしまった。


「マトイの香り―――好きだ‥‥」


「正直、ちょっと驚きました」


 急いで顔を離して、手で口元を隠す―――上手く先手が取れたようだ。


 マトイは悟られないようにしているが、驚きを隠せていない。だけど、この程度で話の主導権を握れたとも思っていない。


 それでも、あのマトイに一撃食らわせられたと誇る事にしよう。


「まず―――ネガイと契約があるな‥‥」


「はい、その通り」


 さっきの事など無かったように座り直して、マスクを再度撫でてくる。


 ネガイとマトイに殺される時、ネガイが「何を言っているんですか‥‥だってあなたが」と言った。あれは俺に対してではなく、マトイへの言葉。


 更に言ってしまえば、マトイが何かしらの契約違反の行動をした可能性があった。


 だから、ネガイが「マトイ‥‥あなたが彼にそう言ったんですね‥‥」と確認を取り抗議をしようとしたが、俺から生まれた疑問だとマトイは言った。


 その結果ネガイは矛を収めた―――恐らく違反に抵触しなかったのだろう。


「俺を‥‥二人で血を奪うのも契約の一つか?」


 身体中に冷たい針が突き刺さり、突き抜ける―――そんな嫌な感覚が生まれる。だが、それを無視してマトイに疑問を投げかける。


「ええ、そうです」


 血を奪う、もしくは俺から血を抜くのは目的だった。


 マトイは血を吹き出させた、それは血を抜く事が目的だったと言える。


 そしてネガイは――所詮、感覚に過ぎないが錯覚でなければ、手に血を奪われた。


 ネガイは俺の血を必要とした。


「じゃあ、どうしてあんなやり方だった‥‥」


 考えるだけで声が震える。


 身体中も震えて―――あの味と血を抜かれた悪寒を身体が思い出す。


「もう、あんな暗い経験をするのは‥‥嫌だ‥‥」


「—―――あのやり方には意味がありました。ただ、それだけです‥‥」


「俺を眠らせた後じゃあ、ダメだったのか?」


「はい」


「なら、俺の‥‥血を奪うだけが目的だったのか‥‥?」


「血を奪ったら、結果的にあなたは眠ると想定していました。でも、眠らせるのも目的でした」


「もうこの話はいい、次だ」


 もう考えられない。手が震えて、身体が冷たくなっていく――――あの感覚を思い出したくない。だから、もう言葉にしない――――そもそもの疑問が浮かぶ。


 なぜ俺を眠らせたのか?それは俺の血が関係している。


「気になりますよね?なんで自分が眠らされたのか」


 マトイは未だにミトリの姿のまま、枕元から見下ろしている。


 今はまだ、マトイへ投げかける下手な質問すら思い浮かばない。けれど。ある程度の想像は出来た。


 ネガイはその目が時限爆弾だと言った。


 時間の問題で目は羽化する。だったらそれを止めるために『宿主』を眠らせた、と考えるのが合理的かもしれない。


 血を奪ったのも目に血を奪われない為と言われれば、納得してしまう。


 しかもマトイは法務科の人間だ。


 俺が狂ってしまうのを避ける為にネガイが頼み込んで、秩序の為に二人で契約を交わした、と言われれば有り得ない話ではない。


 だが、マトイがそんな話を聞こうものなら―――確実に俺を始末しに来る。


 —――――しかし、今、俺は生きている。


「俺を眠らせると持ちかけたのは‥‥ネガイか?」


「半分当たりで半分外れですね」


 ならば、二人とも俺を眠らせると最初から決めていた―――生かさず殺さず、殺してはならないが、このまま放置しておくのも看過できない。


 そんな状況に置かれていたのかもしれない。であれば、ネガイとマトイの契約は、元は違うものの為に出来た可能性がある。


 理由は―――予想通りなら変える前の契約は、あまりにもマトイにとって好都合過ぎる。けれど、その契約の形を変えて、再度交わさざるおえない事件が起こった。


 そう考えるのが自然だ。


 二人とも目的は違えど、手順や手段が同じだったから、二人で―――手にかけた。


 それが、あの殺し方。


 考えが飛躍し過ぎた、元々の話に戻す。


 まず最初にネガイとマトイを繋ぐことになった要因であろうものは―――、


「ネガイが持ってきた依頼。あれは元はお前が用意したのか?」


「気づきましたか」


「当たりか―――今更だけど、おかしいって思ってたんだ‥‥」


 今の行政は、過去の行政の事件群が起こった時をまだ忘れていないし、有権者も覚えている。今の行政の人間に対してオーダーの宣言が出来ないのは、そもそも事件の数が少ないからだ。


 数少ない重要案件を一年に任せる筈がない。あの時、ふたり共も冷静ではなかったから―――根本的な部分で見落としていた。


「マトイが手伝って欲しいと言った仕事も、ネガイ宛ての依頼も偽物の案件。そして俺の都合に合わされると言ったのは、俺の目を目覚めさせて―――ネガイに制御させるのが目的だったから、そうだな?」


「やっとそこまで来ましたね。ちょっと気づくのが遅いのでは?」


「どこかの二人が―――俺を散々眠らせた所為で、考える時間が無かったんだよ」


「それは申し訳ありません。でも好きでしょう?」


 また目の上に手を乗せてくる。誰から聞いたのか、目に手を乗せて眠らせれば、静かになると思わかっている。


「顔、冷たいですね」


「やっぱりか。自分の事なのに、わからないんだ」


 体温が低い所為だ。普段冷たくて心地いいマトイの手が暖かく感じる。手を通っている血管の形すら顔で感じ取れてしまっている。


「本当に死体みたい。寒くないの?」


「わからない。でも多分寒いんだと思う。毛布をかけて貰ったら嬉しかったから」


 ミトリに毛布をかけて貰った時は――――本当に何も感じなかった。


 でもそうすべきだと思ったから頼んだ。


 もはや直感でしか体を案じる事が出来ない。


「次だ。マトイが、あの依頼をネガイに送った、という事は、ネガイは飛びつくし俺を誘うとわかってた。そうだな?」


「あの人なら、ここから出る為に受けると思っていました」


「俺とネガイが、あの日に二人で話す事も想像通りか?」


「あなたならまずネガイさんに、彼女ならあなたに相談すると思っていました」


 二人で話し合うとわかっていた。あの日、俺はネガイに話せなかったが、元々そのつもりで会いに行った。


 ネガイはマトイの想像通り、俺に依頼を共同で受けないかと持ち掛けた。二人で依頼や仕事を話し合うのだ、長い時間になる事は予測出来たに違いない。


「あの時間、俺達が遅くまで二人きりでいるとわかっていた。そしてどんな道順で帰るのかも」


「あなた達二人がバイクで帰るのは、誰でも知っている事ですから」


「まだ、そのままで‥‥」


「はい、ではそのように」


 マトイが手を離そうとしたから、急いで待ったをかける。マトイはそれも予想していたらしく楽しげな声で応じてくれた。


「気持ちいいですか?この手が」


 俺は、この手で殺された。身体に鉤爪を差し込まれて内臓をまとめて潰され、吹き出す様に血を吐いてしまった。目が見えなくなり何も感じなくなった。


 だというのに、頭だけは危機的状況だと、死ぬまで訴えかけていた。


 意識がある死を体験させられた。


 頭から二人は血を被ったに違いない。ミトリも部屋が一面血塗れだったと言っていたから。それを思い出すと、今も血が口に残っているように感じる。


 だけど、マトイの手は―――嫌いになれなかった。


「ああ、気持ちいい‥‥」


 心からの感想だった。


 ネガイの手しか知らなかったが、マトイの手も気持ちがいい。心が安らぐ。


「マトイ、またこうしてくれるか?」


「あなた次第です。もしかしたら、今晩で誰の手も感じれなくなるかもしれません」


 もうわかってしまった。


 マトイは、俺の口からそれが出るのを、躊躇わず吐き出されるのを待っている。


 最初から想像はしていた―――いくら法務科だったとしても、知り過ぎている。


 先ほど、目を目覚めさせるのが元々の目的だと頷いた。だったら、自分で目覚めさせるように追い込めばいい――――半端に殺した獣を、巣に帰らせればいい。


「あの時間、俺達が駐車場への道を通るように仕向けた。だったら待ち伏せも出来た筈だ」


「だとしたら?」


 言わないといけない。


 ここで殺されるかもしれないが、それでも答えを出さないとならない。


「お前があの布の正体だ。そして、俺達を襲った理由は、俺に目を使わせる為―――」


 目をマトイに隠されたまま―――言ってしまった。本当ならここでマトイの手をどかして何かしらの攻撃に備えるべきなのに。


「今の状況をわかっていますか?」


「俺は、マトイを信じてる、だったら目はいらない。目は必要ない」


 これが信頼の証なのかもしれない。目で人を見ない、この目を使って、見るという事はそれだけ相手を信用してないという意味になってしまう。


「例え蛮勇だとしても、危険を承知で言ったのなら賞賛に値します―――」


 目から離した手で、体を起き上がらせたマトイは、ベットから離れ後ろを向いた。


「いつ気づきましたか?」


 認めた。二人が契約した時期も同時にわかった―――あの夜に、俺が倒れた後だ。


 どのくらいの時間で制圧科が来たか知らないが、もし二人が契約したとすればあの時間しかない。それより前ではないだろう、もしあの依頼を偽物と知っていた上で、あの狂ったような激情をネガイがしていたとは思えない。


 やはり、ネガイは俺を治療していたに違いない。


 マトイは、その時には逃げていただろうから。


「確信を持ったのは今さっきだ。でも、あの夜に両目を使った時がキッカケだ。体格がお前だった」


 布を両目でしかも数秒とはいえ全力で見通した。


 布の揺れ方や光の照り返しで、中が若い女性だと頭のどこかで感じていた。それをあの夢で見た石像と仮面の方とを見比べていた事で思いつき、思い出した。


「それだけで?」


「ネガイが病室で、お前にエストックを向けようとした。あれはお前には銃よりも突きの方が効果があると知っていたからだ。後は、今の姿だ。マトイ‥‥それはただの変装か?それとも魔に連なる力なのか?」


 今もマトイはミトリの変装をしているが、これは異常だ。


 もしこの変装を特殊メイクやマスクを使ったものなら、ただ話し続けるだけで口元や目元に多少でも皺が残りマスクは元に戻れなくなる。


 だが、マトイは長く話しているのに――――全く何も残らない。


「随分と古い呼び方ですね」


 もしマトイがそれらの存在なら、あの布の正体はマトイだと言える。


 俺達を二人きりにしてあの時間、あの場所を歩くように仕向けて襲う。


 ネガイと自身の身を守る為に目を使わせる事で、あわよくばネガイは俺の目の『焦点』を合わせざるおえない状況になる。


 これらはあまりにもマトイにとって、都合が良い事件だ。


 手の打ちようがなくなった時、ネガイはマトイと契約結ぶ。マトイは俺の目と自分の為に敵の用意を、ネガイは俺の目の調整を――――これがマトイが当初予定していた契約だったのだろう。


「お前が教えてくれた布のサンプル。端から解けていくって言ってたな?それは基本中の基本だと言われた」


「それは随分とあなたに入れ込んでいる人がいるようですね。基本的な事であるのは間違いないですが、それは一子相伝や弟子にしか教えない事。まさか自力で知られるとは思いませんでした」


「だけど、調べようと思えば調べられる事だ。何故、解けるなんて教えた?」


 マトイがそんな事を言わなければ、そこで止まっていた筈だ。しかも今どこに布のサンプルがあるのかなんて知らない。


 更に言えば、サンプルがあるという話すら言わなければ良かった事だ。


「布の正体が、常識では量れない存在だと気づかせるように仕向けたな。それは自分の正体を俺に気づかせる為か?」


「そうですね‥‥」


 特別興味も無いような声を出した。


 だが振り返った時には、もうミトリからマトイの顔に戻っていた。これはなんなのかはわからない、催眠術の一つで俺に顔を誤認させていたのか?それともあの布のようなもので顔を覆っていたのか?やはり俺にはわからない。


「顔の変装を解く時は、あまり見ていて気持ちのいいものではないので。見たかったですか?」


「いや、大丈夫。それより近くに来てくれ。目にマトイの手を置いて欲しい‥‥」


 見ていて気持ちのいいものではない。それはマトイにとっても同じで、見せていて楽しいものではないという事だった。


「では正解のご褒美に」


 涼やかな声で俺の願望に答えてくれた。暖かい。俺の顔や身体が冷たい所為でもあるが、この暖かさには依存性がある。


「ありがとう‥‥」


「この程度でいいなんて、単純ですね」


 小馬鹿にしたような言葉だが、マトイの声が耳に心地いい。手に押されるように再度横になる。


「この程度なんて嘘を言わないでくれ‥‥。体温を移してくれてるんだろう‥‥」


 普段ネガイがやってくれてるような暖かさを感じる。目から痛みが抜けて、残るのはマトイの手の暖かさだけ――――それが何にも勝る。


「目にとっては昨日ネガイさんが既に処置しました。私のような素人ではなんの意味もありません―――けど、今のあなたには体温を上げることが必要。先ほどまでの状態で眠ってしまっては凍死してしまいますよ?」


 流石に嘘だとわかる。けれど、言われるままに大人しくしておく。せっかくマトイが手を施してくれているのだ、手を払いのけるような真似は出来ない――――素人なんて言ってるが、そんな事はない。


 手の熱に頭中が包まれている、もはや、これがなくては眠れない。


「あなたに教えた理由、それはあなたが無知だったから」


「俺は、何も知らなかったのか」


「はい、何も。彼女は実戦では初めてだったようですが、知識としてはあったのですね。あなたの言葉を借りると『魔に連なる者』にも何もさせない瞬殺が、最大の対処法。だから彼女は急かしていた‥‥」


 あの状況ではネガイのあの焦りようも仕方ないと思っていた、けれどそれは違った―――俺がネガイの邪魔をしていたのだ。


 そんな邪魔な俺をネガイは口にしなかった―――傷つけなかった。


 あの場での真実を話さないでいてくれた。


「あなたの目を目覚まさせる事が当初の目的でした。でも、目覚めさせても何も知らないのではすぐに死んでしまうと判断し、ネガイさんと話し合った結果、あなたへ小出しに情報を提供していく予定になりました。でも自分でそういった情報を仕入れてくるとは、考えませんでしたけどね」


「ネガイも合意したのか?」


「せざるを得ない状況に私がした―――こんな言葉に、なんの意味もない。けれど、私は狂っていた。踏み止まるという選択が、完全に消えていた‥‥彼女はあなたの生存の為だけに、もそういった知識が必要だと言って、私に任せました」


 これが当初の契約を変える事になってしまった事件。


 マトイの予想を超えてこの目は至ってしまった。


 この現象は、マトイも望むところではなかった。俺を眠らせるか、敵を用意して徐々に目を使わせるか、あの朝まで未定だったのかもしれない。


「最初はその予定だったかもしれないが、結果的に俺にその知識を教える前に俺を殺した。‥‥無理矢理殺す理由ができたからか?」


「はい、とだけ言っておきます」


 これ以上言う気は無いようだ。だが、正直に答えてくれた。多分‥‥俺の目は‥‥。


「この目はお前が思っている程、便利なものじゃない」


「彼女にもそう言われました。まさかあんなに感情的になるなんて‥‥」


 あの激情をマトイにも見せたようだ。何度か見ている俺が、未だに慣れず恐れているのだ。初めて見たマトイでは、命の危機すら感じただろう。


「‥‥これでわかったか‥‥なんで、そこまでして俺の目を欲しがるんだ」


「あなたが全力で目を使うとそれだけで命を縮める――――知らなかったなんて言い訳はしません。私は―――ただ‥‥」


「お前は何がしたいんだ?どうして俺の目にこだわる?」


「全ては秩序の為。私には武器が必要、それだけです‥‥」


 マトイの手の熱が増してきた。眠らせる気だ。


「眠って下さい。またあなたが眠るまで傍にいますから」


 優しげな聖女のような声で傍にいてくれると言った。手を血濡れにした本人だというのに―――その言葉に安堵を覚えてしまう。


「最初は、さっきの薬を俺に使うつもりだったのか?」


「もしあなたが暴れるなら、無理矢理にでも眠らせている所でした」


「なら、今日は診察か‥‥いらない。そんな薬、俺には無駄だ‥‥」


「そうですね‥‥。そうでしたね」


 強張っていた神経は、既に消えてしまった。今は、体がほどけるように、肺を手放してしまう―――すぐ傍に、思いを寄せている人がいる。この感情を捨てられない。


 でも、マトイは俺が起きる頃にはいないのだろう。だから言っておきたい。


「マトイ‥‥言っておきたい事がある」


「私には二度と会いたくないですか?」


 自嘲気味に笑った。


 夢の中では俺もそう思っていた、だけど、実際に会っている今、心が波打った。


「そんな訳ない。‥‥俺はまたマトイに‥‥こうして欲しい」


 マトイは目の上で手の熱を続けてくれている。これで‥‥安心して眠れる。


「傍にいてくれ‥‥。それだけいい‥‥」


「私はここにいます。‥‥おやすみ」


 今まで努力して起きていたがもう眠い―――まだ言わなくていけない事があるというのに。


「待ってろ‥‥迎えに行く‥‥」


「え、」


 最後にマトイの驚いた声が聞けた――確信した。ネガイは俺に嘘をついていると。


 俺の目はもう羽化している。そして、俺やネガイが想定していた中でも、もっとも悪しき方向に進んでいた。

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