6章 止まる音を聞きながら
「まだ寝ているんですか?」
「ええ‥‥。誰が起こしても全く起きなくて」
「脈は?」
「正常です。急激な変動もなく健康的だよ」
「何発か鳩尾に」
「やめてやめて!目覚めなくなるから!」
一体誰だろうか―――まだ、眠っていたいというのに。
「はぁ‥‥教員の方はなんと?」
「内出血とかの怪我も全治してるから、後は体力を戻して、自力で歩く事を思い出せば問題ないって」
「ん?車椅子が――」
「あ、昨日リハビリ室でずっと歩く練習をしてて、だいぶ無理をしたみたいなの。もう自力でベットにも上がれないぐらいへとへとだったみたい。襲撃科の人が押して戻って来てたよ」
声が聞こえる。ネガイとミトリだった。けれど、まだ眠い。もう少し、今日一日は眠らせて欲しい――。
「全く‥‥これだから。私がどうにか起こしますから、朝食をお願いします。無理にでも食べて貰わないといけませんから」
「わかった。じゃあ予定通り持ってくるね」
真横の椅子に、ひと一人分の質量が座った音がした。人の気配と視線を感じるが、カーテンから差した光が温かくて心地いい、まだ眠れそうだった。
「起きて下さい。昨日言いましたよね?明日来るって、ほら起きて」
体を揺さぶってくるが、体を心配してかあまり強くしてこない。ゆっくりとした揺れが寧ろ、更に深い眠りへと誘ってくる。
「これでも起きませんか‥‥。これならどうですか?私の手、好きなのでしょう?」
頬に何か柔らかいものを感じる。日の光よりも優しくて、日と同等に慣れ親しんだ温かな力だった。
「早く起きて下さい。これからの事について、話したい事があります」
そして目に柔らかい感触が移動してくる。まぶたが温かい。でもいつもの治療より物足りない。もっと欲しいと手に顔を押し付けるが、身を引いて行ってしまう。
「ふふふ‥‥、起きたらご褒美に好きなだけ手をあげますよ」
それは―――起きなければならない。惰眠を貪るのは、これお終いだと合図してきた。その上、そろそろ空腹を感じ始めていた。
ゾルで固められたような瞼を開けて、至近距離でネガイの手をつぶさに見つめる。
「起きましたね。そんなに手が好きですか?」
手に睫毛が当たって起きたとわかったのか、話しかけてくる。
「ネガイか‥‥。もう少し手を‥‥」
手の上に、昨日のように手を重ねる。そう、この温かさときめ細やかさだ。
「お、思ったより積極的ですね。そうですか‥‥弱ってる時はこうなるって、本当なんですね‥‥」
このまま二度寝が出来そうだ―――いや、ダメだとわかってる。そろそろ起きるよ、言われなくても。 そうだな、起きたら食事だった―――諦めて、起きよう。
「おはようございます。目が覚めましたね」
「ああ、おはよう。もう朝か‥‥」
手を貸して貰い、ベットに縛り付けられていたような上体を起こす。寝ぼけていようと、ネガイの容姿を見間違える筈がなかった。誰もが振りむく傾心の容姿を、欠伸を噛み殺しながら見つめ、肩と背中の骨を伸ばして凝りを取る。
「—――今何時?」
「8時です、寝坊しましたね。けど、もうゴールデンウィークですから授業もないので、しばらくゆっくりと過ごせますが」
「忘れてた‥‥もうゴールデンウィークだったのか―――」
長期休暇はオーダーにとっても休みであるが、中には稼ぎ時として一切休まない人間もいるので二極化している。また、療養中の人間も少なくないだろう。
「あ、起きましたね。どうぞ朝食です」
ミトリがワゴンで一人分の朝食を持ってきた。無駄に仕事を増やしてしまい、悪いことをしたと心苦しくなる。決して暇ではないというのに。
「ありがとう。悪いな手間かけて、頂くよ」
「はい、しっかり食べて下さいね。体力を戻すには、食事から栄養を取り入れるのが最善の一つですよ」
ベットに備えつけられている机の上に、ミトリは一汁三菜を置いて戻って行った。昨日より固形物があるが、ボリュームとしては昨日の夕飯に軍配が上がるだろう。
「一人で食べれらますか?」
「そこまで何にも出来ないわけじゃない。昨日だって一人で食べたんだ」
からかってくるネガイに抵抗して、味噌汁らしき出汁と箸を取って胃袋に流す。
「体調はどうですか?」
「とりあえずは腹は減る。それと少しだけ動きたいから、あとで付き合ってくれ」
「はい、わかりました。あ、それと忘れる前に―――これ、入れておきますね」
椅子の後ろから、ボストンバックを取り出した。
「それは?」
「着替えです。そろそろ、そのパジャマをどうにかしましょう。ずっと同じでは衛生的ではないので、勿論、下着の着替えも。また手伝いますから」
「前も言ったけど、そこまで世話される程、落ちぶれてない。だけど、そうか‥‥。数日眠り続けたんだったよな。確かに、そろそろ着替えるか。何持って来たんだ?」
「とりあえず、干してあったスウェットとTシャツ、あとYシャツも持って来ました。それとこの辺も―――」
「あ、ああ。助かった‥‥聞いていいか?」
「なんですか?」
小首を傾げる可愛らしい反応をとるが、なぜ部屋の鍵を持っているのだろうか。
渡した覚えはないというのに―――まさか、壊したという事はないだろうか。手先は器用だが短気な部分も持ち合わせているのを、経験上知っていた。
「鍵、どうしたんだ?」
「鍵ですか?サイナから買いましたよ。どうしました?」
「そうか。いや、なんでもない。本当に助かったよ、ありがとう」
まずは入手ルートから洗って、言い逃れ出来ないようにあの商人を追い詰める。サイナには少しばかりお灸を据えるとしよう。
前のネガイのように工房へと襲撃仕掛けるか?それは可哀想か――何よりあそこには俺の物がある。彼女自身に襲撃をかけるか。
「不思議な事を聞きますね。ふふ、変な所は見ていません、誰にでもプライバシーはあると知っていますから―――それとも見て欲しかったですか?」
自分で言っておいて顔が赤くなっている。
何を考えているか知らないが、こちらが最も気になってるのは鍵の売買の方であった―――けれど、今日はやけに、いや、最近見ない程に機嫌が良かった。
「勘弁してくれ‥‥」
「ではそうしておきますか。大丈夫です、あなたの主義趣向がわかってきた所です。多少逸脱していても受け入れる準備があります―――あなたに付き合えるのは、私だけですから。安心して下さいね。はい、まずは朝食を」
勧められるままに箸を操る。それを確認しながら満足そうに頷き、立ち上がったネガイは、クローゼットに衣服を入れ始めた。この光景には、心が揺れる。
「プライバシーってなんの話だ?引っ越しまだ一か月も経ってないから見られて困るものすら、あの部屋にはない筈なんだけど」
「では、これから揃えるとしましょう。先ほど言った通り、あなたの主義趣向はわかってきました。大丈夫、一緒に選んであげますから」
ボストンバッグの中身を全てクローゼットに入れたネガイが、勝ち誇ったように微笑んでくる。
ああ、やはり美人はずるい。どうしてこうも、言葉を失ってしまうのだろうか。しかも、それを知っているのだから尚更、厄介だ。
「ふふ、どうしました?」
「あぁ、いやなんでも―――それで話ってなんだ?」
「聞いていましたか。なら早く起きて下さい」
「早く起きてたら手で暖めてくれなかっただろう。 ご褒美、忘れてないからな」
先ほどから感じる好意が心地いい所為か、彼女の言葉に乗ってしまう。美人に弱いという部分の、自分の存外な単純さに嫌気が差す。
「‥‥っ!結構来ますね‥‥。でも後でまたしてあげますから‥‥少しは我慢して下さい。‥‥よし、では話をしますね」
気合いを入れ直して真っ直ぐに見据えてくる。けれど、まだ感情が抜けきってないのが、緩んでいる頬で見て取れる。
「昨日言った通りですが、あなたの目は時間の問題で羽化します。それは出来れば避けるべきです」
「この前の布みたいな奴と死ぬまで殺し合う事になるから。羽化が止められなければ、『目』に心臓を支配されて操られる―――もう散々言われた事だ。ちゃんと理解してる」
食事を摂りながら会話を続ける。味噌汁で言葉を呑み込み、舌を湿らせる。
「はい、その通りです。そこで考えた事があります」
「《《考え?」」」
「そうです、まずあなたには―――」
「あ、来ていたのですね」
扉を開ける音が聞こえる。だがミトリの声じゃない。この声は―――、
「マトイ‥‥」
「ええ、昨夜振りですね。しっかり起きていて安心しました。ふふ、あと数分早ければ私が起こしてたのに」
「そうですね、もう少し早ければあなたの時間でしたね。でも、今は私の時間です。早く見舞いを済ませて休日を堪能しては?」
会って早々にこれだった。面識があったのは知っているが、ここまで仲が悪かったとは、思わなかった―――ネガイは、見ているこちらが恐ろしくなる剣幕でマトイを睨みつけ拒絶の意思を伝える。
「怖いですね。そんな殺気では彼の身体に毒では?」
マトイの目を見て確信した。
—―――細い白目に、どこまでも黒い瞳孔でネガイを見下ろしている。
一触即発の今の内に止めるべきだ。そう、確信した。
「止せ―――ここでやり合うなら治療科が黙ってないぞ‥‥」
治療科は、間違いなく治療や看護を主目的にした科である―――だが、それと同じ優先度に患者を守るという部分を重きに置いている。
ここで始めるという事は病院を傷付けると同意義。
それはこの院内で拠点防衛に全力をかけている治療科を全員敵にする事になる。ここは彼女らの城であり要塞でもある。お互い、どちらにしても絶対的に不利だ。
「わかってますよ。あまりにも、そこの引きこもりが威嚇してくるので、ちょっとだけ‥‥遊んだあげただけですから―――ふふ‥‥」
「落ち着いて下さい。私もここで死人を出したい筈ないでしょう?それにあなたの食事中に、これの血反吐なんて見せません」
ネガイが机に置いている俺の手に、手を重ねてくる。あれだけ好きだったネガイの手が恐ろしかった。全く汗も震えもしていない。
目が合った瞬間、覚悟を済ませていたのがわかってしまった。淡々と作業として法務科マトイを始末する気だった。
「オーダーの殺しは厳禁だ。ネガイがいなくなったら、俺が困る」
「ふふ、そうですね。だって癒してくれる人がいなくなりますからね」
法務科マトイが視線を、こちらに移して微笑んでくる。ぞくりとした。昨日の事を思い出してベットに視線を移してしまった。
「それで?なんの用ですか?私はこれから忙しいので、手早く終わらせてくれますか?」
立ち上がったネガイが間に入って、もしもの時の為に射線から俺を守ってくれる。
「なぜ私があなたに用があると思う?」
「白々しい。昨日私の実験室の前で徘徊していたとカメラに映っていました。無理に開けようとしなかったのは、褒めてあげます。私の患者が世話になったようですね」
知らなかった、そんな物を仕込んでたのか―――実験室と呼んでいたのか。
「それは盲点でした、油断しました。彼を入院室まで送ったのは気にしないで下さい。私が、したくてしただけなので」
「知りませんでしたよ。病人に優しくするなんて考えが、あなた達にあったのですね」
「私は相手を選んでいるだけですよ。彼は特別ですから」
売り言葉に買い言葉で話が進まない。
ネガイにしてもマトイにしても珍しく熱が冷めない――だが、俺からは何も言えない。願わくばこの小競り合いが終わらないでくれと思っているからだ。
マトイの目的を知っているからだ。
マトイは恐らくネガイの拘束、取り調べをする気だ。例え俺がなんともなく日常を過ごしていたとしても、あの動きを出来る人形を個人で所持しているなど、オーダーの秩序を守るという本懐に確実に抵触する。
「彼も大変ですね。貴女が唯一の専門家で」
「何が言いたいんですか?」
また頬に手を当てて微笑んだ。
「あまりにも都合が良過ぎるのでは?貴女の目的はここからの逃走—――だというのに、彼の目にとって貴女は要たりうる存在となっているなんて」
「だから何ですか?彼と私はお互い納得して相互で助け合っています。他人にとやかく言われる筋合いはないのでは?」
「もしどちらかがいなくなったら‥‥困るのは彼だけ。本当ならそうでしょう?」
二人の会話に心臓が悲鳴をあげる。
俺は死ねない、ならここでネガイを守るべきなのだろうが―――だけど、そんな事が出来るのか?—――ネガイへの疑問は元々自分の中で生まれた。
あの夜に限った話ではない、本当に俺はネガイがいないと死ぬのか?という疑問。
マトイも同じ結論に至った、だからそれを俺に伝えてきた。マトイが言ったから俺はネガイを疑う―――そんなものはただの詭弁、誤魔しでしかない。
本当にネガイを信じていいのか、もしネガイが嘘を吐いていたとして―――その時、一体どこに身を振ればいい。
「そこまでにしとけ。少し騒ぎすぎだ、そろそろミトリが食器を回収に来る。大人しくしといた方が良いぞ」
しかも、マトイの目的が今ここに至っても、わからない。
俺の法務科への加入が目的だったとして、今更なんの為に欲しがる。
マトイの言う通り『この目』がもう使えないは嘘だったとしても、事実として今の俺では数秒、全力で使っただけでこの姿だった。
こんな燃費の悪い力を求めて意味があるのだろうか。マトイの力になりうるのか?
未だ『『一触即発の雰囲気で止まっていた》》二人の空気に水を差して、話を終わらせる。
「ふふふ‥‥」
「ちっ‥‥」
二人共とも、ようやく矛を納めてくれた。だが、まだ収まりきらない。
マトイの眼が能面のようで、ネガイは顔こそ見えないが、どこを刺すべきか目算を立てているのが顔の向きでわかる。
「それで、どうするんですか?私を拘束でもしますか?なんの罪状があって?法務科あなたの仕事なら、ここを取り囲む人数を呼んでもいい筈。だというのに、あなた一は人、これは個人的な捜査か何かですか?」
「それをするには証拠が足りないので今は出来ません。でも、近いうちに成り得るかもしれませんね。あなたに疑問を持っている人が―――私以外にもいるようですし」
「疑問?何ですか、それは‥‥」
「気になりますか?でも言えませんよ。情報提供者は守らないといけませんから」
こちらの方など一切見ずに、ネガイに言い放った。
「不思議な事を言いますね。あの場には私と彼しかいませんでした。それとも――――遠くから誰かが観測でもしていたとでも?」
ネガイがそんな人間いる筈ないと、胸を張って言い返した。
そんな彼女の―――信じてくれている彼女の後ろに、自分がいた。
「まさか、観測者なんていません。でもその人は、まだあなたの事を信じているようですよ」
彼女らしくない驚きを声に出して振り返った。
あの場には俺とネガイ、そして布しかいなかった。
情報提供者といえば、そこにいた者しかいないと誰であろうが気がつく。
「ネガイ、俺は‥‥」
「信じてきた存在に裏切られるかもしれないなんて、考えたくないでしょうね」
ネガイの目を見れない。今の俺に、見ていい資格があるのか。情報なんてマトイに渡してない、でもこの感情は――――、
「何を言っているんですか‥‥。だってあなたが—――」
「そうですね。きっと彼からあなたに助けを求めたのに」
言葉を遮るように、誰に言ったわけでもない言葉を発した。
そうだ。自分からネガイに助けてくれと言って、今の今まで守ってもらっていた。なのにネガイを、信じられなくなっている――――これは裏切りなのか、ならば何を信じればいい。このままネガイを盲目的に信じていいのか。
「マトイ‥‥あなたが彼に言ったんですね‥‥」
目を閉じて深呼吸した直後、腰からスカートにかけて仕込んでいるエストックに手を伸ばした。
これから襲う相手に手口を全く隠さない。ネガイも冷静ではいられなかった。
「元々、彼は貴女に対して疑問を抱いていたみたいですけど、そうですね。その認識で間違いはないと思います」
「わかりました‥‥」
自身がネガイに疑問を持っていた。
そう聞いたネガイは、手をエストックから離した。
「私も契約があります。ならば―――最後まで全うします」
ネガイが自身の契約の誓いを述べ、座っていた椅子に戻り、下を向いたまま何も言わなくなってしまった。
「俺は‥‥ネガイに感謝してる」
「―――私も虫が良過ぎる契約をあなたに強制していたとは、思っていました」
ただでさえ味がしない朝食がもう喉を通らない。無理矢理、重い冷たい石でも呑まされたようだった。
虫が良過ぎる?それは自分の台詞だ、結局ネガイの為に何も出来てないのだから。
ここからネガイを出すどころかあの夜、自分一人では確実に布からの攻撃で死んでいた―――玉砕覚悟で目を使っていても、廃人になっていた。
だけど、ネガイがいたから生きている。だが、それもこれも――――あれはネガイの自作自演だったのでは?という考えで塗りつぶされてしまう。
「わからないんだ。あの夜、俺は死んだ筈だ。なのに俺は生きてる、ネガイが治してくれたんだろう?」
「‥‥」
「なんで何も言わないんだ。助けてくれたんだろう?いつもみたいに‥‥」
幾ら呼びかけても、何も言わなかった――――ここで「あの夜、私があなたを治療しました」と言えばそれで済む。だけど、ネガイはあの布に掛り切りだった筈だ。
実際に制圧科と法務科が、布の一部をサンプルとして保管している。
「いつ俺を助けてくれたんだ。ここに来る時はもう治ってたんだろう。‥‥だって、ネガイは目が覚めた時に、」
「私が感謝しろと言ったのは、治療科にあなたの状況を伝えた事です」
不意を突くように目に手を当ててきた。反射的に眠気を誘ってくるが、反抗して手を払おうとするが、
「寝て下さい。リハビリには付き合えません」
「はい、お食事が済んだら病人は睡眠の時間です」
二人が体に手を押し付けて無理矢理ベットに寝かしつけてくる。ただ手を体と目に押し当てているだけだというのに――――まるで抗えない。
「やめろっ!また、眠らせて逃げるのか‥‥!」
いつもの、さっきまでの手とは違う。ネガイの手によって意識が吸われるように、体から力が抜けていく。
「早く眠って下さい。大人しく」
「大丈夫です、妙な事もしません。ただあなたは眠っていればいいんです」
足が言うことを効かない。ベットの机一つ蹴り飛ばせない、二人に肩や胸を押さえつけられ、血でも抜かれているような感覚さえしてくる。
まともに抵抗が出来ない。
「俺は――お前達を、信じてる‥‥!何で、俺はなんなんだ‥‥?」
抑える二人に向かって泣きながら叫ぶ。声を無視してネガイは何も答えない。
だけど、マトイだけが答えてくれた。
「嬉しい―――その言葉が聞けて良かった、ようやく私に堕ちてくれましたね」
マトイが昨日のように胸に手を当てた時だった、急激に胸の中が冷たくなり、息が出来なくなる。
「や、やめ、」
「マトイ!」
ネガイが叫ぶように、マトイのやろうとしている事に静止を求めるが、
「大丈夫ですよ。少し強引ですが、乱心している相手にはこれで。それに必要な事でしょう?」
寒気がするような声だった。
止めようとしてくれたネガイが、その言葉を聞いた途端に手伝い始めた。
そこで、ようやく違和感に気が付いた――――まだ胸の上に感触がある筈のマトイの手が、その手が何倍にも広がって体の中に入り込んでいた。
血の気が引いていくのも束の間、迷わず内臓を鷲掴みにされる。
体が異物を拒み吐き出させようとえずいてしまうが、マトイは構わずに胸に手を当てて、胃も肺も肝臓も腹にある内蔵をまとめて掻き回してくる。
「やめろっ‥‥やめてくれ‥‥」
もはや錯覚ではない。確かにマトイは俺の中で手を振り回している。
「苦しいですか?でもこれで終わり‥‥」
その呟きに耳を貸していた瞬間、身体の中に5本の爪を感じた―――抗う事など、そもそも出来なかった。一呼吸の間も無く内臓がまとめてを握り潰される。
「あぁ――――」
声を出せなかった。
たまたま喉と口で出来た空洞に、空気が流れて音らしき物が流れただけだった。
身体の中に一瞬だけ鉤爪が生まれ、それが身体を切り刻んだ。それが事実だった。
痛みは無かった――――だけど、内臓を抉る冷たい爪は、感じ取れた。
「落ち着きましたね。これで気絶していればよかったものを」
一瞬で口から液体が溢れ出す。
血だ、口から血が止まらない。舌に広がる鉄の味に、唾液など一切紛れていなかった。濁った血ではない、完全なる鮮血が口から溢れ出していく。
「俺、は‥‥。俺は、」
もう喋れない。血が喉に詰まってる。
体が無意識に、肺へ血が流れ込むのを避けようとして空気を流させてくれない。
自分の血で溺死しかけている。それでも何か喋ろうとするが血が吹き出てしまう―――確実に二人へも血を吐き出している。
だというのに、二人の手は肩から緩める事はなく、両側で抑え付けている。
「もういいでしょう。あなたは頑張りました」
「これ以上は危険ですよ、ネガイさん?」
「はい。もう暴れないで下さいね?死にますよ?」
目に付けているネガイの手から頭中の血を抜かれた。
それは比喩でなかった。一気に血を失ったせいで身体が飛び跳ねる。脳が冷たくなり活動中止を求めている。まだ見えていたネガイの手が明かりを消されたように見えなくなった。
それを皮切りにジワリジワリと、眼球が暗闇から血に染まっていくる。
血を吐いて、抜かれた。
体温を丸ごと奪われてしまい、熱の大元が消えて身体が震えてくる。
「急いで、彼の血を」
「わかってます」
もう心臓以外の内蔵を感じない。ただ心臓の鼓動だけを感じる―――だけど、これはマトイの手によって無理矢理動かされているに過ぎない。
内臓をまとめて潰した手を、そのまま心臓に移されているだけだった。
「眠って、もう眠って。あなたの所為じゃない」
「起きたら言える範囲で話すと約束します。だから今は眠って下さい」
もはや二人のどちらが話してるのかわからない。
指が寒い。腕の血管に血が通っていない。跳ね上がっていた足の筋肉が、いつの間にか止まっていた。
息を吸い込む余裕など既になかった。吐き出せるのは、血を歪ませて生まれる声。
「怖い‥‥、怖いんだ‥‥」
喉に焼けるような熱い血が溢れ続ける。その度に体が冷たく、体の血が通ってない場所の感覚が消えていく。先ほどあんなにも苦しかったのに、何も感じない。
体が切り分けられているのに痛みを感じない。
そんな漠然とした恐怖が身体を締め付けてくる。
目を開けているのか、これはネガイの手なのか、それすらわからない。視界が赤く染まっていて、もう判断が出来ない。
「泣かないで、何も怖くないですから」
「まずい‥‥血が足りない。吐かせ過ぎました‥‥!手伝って!」
二人の声が遠くに去って行く。
声を頼りに、藻掻き続けるがまるで追いつけない。どこまでもどこまでも遠くに連れて行かれる。俺を置いて、ふたりが消えていく。
「ネガイ‥‥マトイ、どこだ‥‥処分は嫌だ‥‥」
「喋らないで、私はここにいます。あなたは夢を見るだけ」
「あなたが眠るまでここにいます。目が覚めたら会いに行きます。だからあなたは一人じゃない」
身体が冷え切っていく。俺は、殺されている―――ネガイとマトイが、俺を冷たい場所に送ろうとしている。
赤いカーテンがいくつも見える、それらが天蓋のように被さって輝いていく。
これが死なのか―――。
二人に捕食されている。血と肉体を奪っていく。手足はもう無い。内臓も無い、既に心臓も無い。血も消えた。
心を守る肉体を失った―――凍えるような極寒を感じる。身体を自分の腕で抱きたい、でも、腕は無い。二人に取られたから。
もう抵抗なんてしないのに、二人とも腕を返してくれない。人間は残酷だ、もう自分を気遣う事すら許されない。
ああ、だけど、この二人がきっと―――もう名前も思い出せない美しい手の持ち主達を――きっと―――。
「手、握ってくれ‥‥。怖いんだ‥‥」
まだ奪われていない身体の一部に命令を下す。震えながら、血を流しながら、体を引きちぎって奪っている狂人達に最後を求める。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ両腕を返してくれた。
血流を感じる―――そうだ、この温かさこそが、手向けなのだろう。




