5章 夜の先
「助かった、お前が履修中で」
「あははは、僕もまさか君が入院しに来るとは思わなかったよ」
リハビリ室にて杖の補助を使わず、手すりにも頼らずに自力で歩いていた。必要ないと思ってはいたが、念のため何かあった時用の人を呼んで。
「そうそうゆっくりとでいいから、しっかり足を地面につけてね。君はしばらく眠り続けていたから筋力が相当落ちてるはずだから、あまり無理はしないように」
実の所もう限界だった。リハビリ室には自分の為と思って、歩いて階段を降りてきたが、もう足は膨れ上がり―――体の中身が飛び出しそうになっている。
ゆっくり歩けば内臓も大人しくしていたが、僅かな振動だけで動けなくなるので人を呼んで良かったかもしれない。
「寝てただけで、なんでこんなにキツイんだよ。腹、突き破って内臓が溢れてきそうなんだけど‥‥水も飲む気にならない‥‥」
「それは力の入れ方を体が忘れているからかな?横になり続けているって、人体にとってそれだけ不自然な行動って事だと思うよ。はい、とにかく歩いて。姿勢はまっすぐに、すり足にならないで足をあげて」
ただ何もない床を足をあげてテンポ良く歩く、たったこれだけで汗をかいてしまう。だがこれも自分の為と割り切る。
今も手拍子で、タイミングを教えてくれてこそいるが、今の体調にとってかなり厳しい事を軽く言っている。交互に足を踏み出すタイミングも、気持ち早く感じる。
「‥‥これ、いつになったら楽になる?」
質問に答える為か、右手で顔の下半分を隠すような仕草を始める。
「んー?そうだね‥‥君の場合はただの疲労と激しい運動によって引き起こされた酸欠だから正直後数日で元に戻るよ。でも、しっかりとしたリハビリは必要。あ、一応言っておくと僕は明日で履修が終わるから。放課後に何かあった呼んで、リハビリなら付き合うから」
「涼しい顔で、言ってくれるな‥‥」
「あはははは」
笑いながら言うが、これは襲撃科の人間。オーダー内で最も頭が飛んでいると評判であり、逆説的に言えば飛んでいないと成り立たないと言われる科の秀才。
ネガイやマトイと同じ、敵に回してはいけない人間だった。
「その時は頼むよ。出来るだけ早く復帰したいから」
「お!君にしては珍しい‥‥失敬。オーダーらしい考えだ」
襲撃科どころかオーダー内でも、稀に見る謙虚で礼儀正しさだが――襲撃科だった。
二つ返事でリハビリの手伝いをしてくれ、歩きのフォームを指示、確認して貰っていた。自分では気付かないが、どこか庇いながら歩く癖がつくかもしれない。
それは―――後々面倒な事になる。もし潜伏や身分を隠す仕事をする時、歩き方でバレるなんて間抜けな失敗は起こせないからだ。
「そいつはどうも‥‥」
「あはは‥‥怒った?」
返事のキレが悪くて心配そうに聞いてくる。単純に疲れてきたから話すのがつらいだけだった。
「別に怒って‥‥待て‥‥今なんて言った?」
「ごめん、気にした?悪気はないんだ。すまなかった」
珍しいという言葉が俺の勘に触ったと思ったのか、立ち上がって頭を下げてくる。だけど気になったのはそこじゃない。
「違う、それじゃないんだ。俺はなんて名目で入院してる?」
「え?どうしたの‥‥急に。疲れてきたかな?少し休もうか」
質問の意味がわからないらしく、キョトンとした顔をしている。俺もこんな事入院中の奴から聞いたら、遂にどこかおかしくなったのかと考えてしまうだろう。
「いや、そうじゃない。俺は今なんで入院してるんだ?俺の体は今どこが悪いんだ?」
この入院はあの布相手に無理な血液操作、目の力を酷使した結果—――目と脳に血が集まりすぎて死にかけた。だから重要な機関の血管に穴が開いていてもおかしくない。無茶な命令を下し過ぎて心臓が千切れてもおかしくなかった。
それをネガイが治したから俺はここにいる。酸欠はオマケに近い扱いの筈だ。
「心臓疾患とか、そういうのじゃないのか?」
「え、まさか‥‥!君は何者かに襲われて、それをネガイさんと撃破して、その結果倒れた話だったけど。‥‥もしかしてソイツからどこかを強く殴られた?外傷がないか必ず確認する決まりがあるから、搬送された時に診て貰ってると思うけど。気になるならctスキャンとか―――」
話が噛み合ってない。お互いの認識に確実な隔たりがある。
始まりと過程、終わりまで全て同じだが、結果が違う。
どういう事だ。もしこの人間の言う通りだとして、いや、言う通り、俺は布との戦闘の結果入院している。そこは正しい。
「俺は搬送されて来た時ってどんな感じだった?」
「どんなって‥‥そうだね‥‥。まず担架で運ばれて来て、そのあとすぐに緊急治療室に入って行って。こう言うとなんだけど、普通だったかな」
「誰が俺をここに連れて来たんだ?」
なんで俺は―――こんな事を聞いてる。
制圧科か治療科が運んで、ネガイが治療したに決まっているのに。
「要請が来て治療科の人間が現場まで行って搬送したんだけど‥‥。搬送されて来た時に君は意識不明で病状は、その時は僕にはわからなかったから、君に呼ばれて調べたらさっき言った通りの病状だったんだけど」
ならネガイは、いつを治療した?当時の自己診断が間違っていたのか?だが、紛れもなく俺は本当に死にかけていた筈だ。
心臓に異常をきたしていたのだから。
あの状況を報告したのは間違いなくネガイだ、あの場では確実にネガイに対して何があったのか聞かれる。
だったら‥‥ネガイが俺の状況に、嘘をついたのか?
あの場で、ネガイは布にエストックを向けて身動きが取れなかった筈だ。もし俺がただの疲労で搬送されたのなら、ネガイは制圧科が到着する前に治療した事になる。
制圧科が到着するのは、どう見積もっても最長でも10分程だ。
しかも布から俺までの距離は相当あった。
これでは、ネガイは布がこれ以上危害を加えないと知っていて俺を治療したことになる。もっと言えばわざと布の中身を逃した事になる、あんな刃物だらけの怪人を。
「—――大丈夫かい、もう休んだら?顔色が悪いよ」
「‥‥ああ、大丈夫大丈夫。少し考え事をしてただけだから」
考え込んでいた最中、話しかけられてようやく我に帰った。病院にいると緊張感が抜けてしまう。
「本科的に脳と心臓が気になるなら手配してくるけど。ちょっと待ってね、今車椅子でも、」
「大丈夫だ、俺の思い過ごしだと思うから。それにそんな異常があったらここの教員が見逃す筈ないだろう?」
自分の診断書を読んでいないからわからないが、恐らく疲労と診断したのはここの教員に違いない、それが普通だからだ。
「それもそうだね。うん、少し僕も焦ってたみたいだ。あ、ただもうそろそろ時間だ、ここを施錠しないと。車椅子の用意をしてくるよ」
「流石に、そこまでは―――それに必要にしちゃいけないだろう。この程度で」
「自覚ないかなぁ?君さっきから大分顔色悪いよ。あと数時間で履修期間が終わるとしてもそんな顔の人を一人で歩かせられないよ。待ってて水と車椅子を持ってくるから」
強めに言いわれたので、大人しく待っている事にした。そんなに顔が青いのか?とリハビリ室の姿見を見ようとするが、
「やっぱ苦手だ」
昔から鏡が嫌いだ、自分の顔か嫌いなのか、鏡自体が嫌いなのか不思議と自分でもわからないが。
鏡を見ずに顔を手で触ってみる。これで何か分かる訳じゃないが、顔が冷たかった。もしかして本当に大分酷い顔なのかもしれない。
自分の状況を確認して悟った、汗が冷たくなって体が冷えて体調がよろしいとは言えない。確かにこれは心配されるかもしれない。
車椅子と水の到着を待ちながら、襲撃の夜の事を思い出し、今後の事を考える。
「何が起きてるんだ‥‥」
天井のLEDを眺めて座り込む。ネガイには感謝している、目や心臓が苦しい時いつも助けて貰っている。それは紛れもない真実だ。
目が覚めた時だって最初に目に入ったのはネガイの顔だった。きっとこの数日様子を見てくれていたのだろう。
「ネガイが嘘をついたのか?なんの為に‥‥」
ネガイの真意がわからない。治療と脱出の契約、ただそれだけの繋がり。
それだけだった。
「病院食‥‥あんまり期待出来ないよな―――体が弱ってるのは俺自身、重々承知してるし、わがまま言わないでとにかく食べるか‥‥」
「おまたせ、車椅子持って来たよ」
先ほどの襲撃科の秀才が、リハビリ室へ車椅子を押しながら入ってきた。件の車椅子には、しっかりと自力で操作出来るハンドルがついている、気を遣わせてしまったらしい。
「悪いな、面倒ばっかりかけて―――なぁ」
「ん、何かな?」
「病院食って旨い?」
「祈っておいて、きっと想像通りだから」
今の体調で重い物を食べれる筈もないが、それでも味だけはと期待してしまう。だけど、祈りとは神に捧げる物。そして、総じて神とは応えないものだった。
「味がしなかった。減塩っていうか、塩使ってねぇだろう」
絵に描いた餅、絵にも描けない美しさ、などなどの文言がある。けれど、新しい絵に関する言葉が俺の中で生誕した――――そう、それは、
「絵に描いたような病院食《」。使う機会があんまりないか」
歯ざわり皆無なお粥、ほうれん草のおひたし(塩を感じない)、豆腐(醤油なし)、卵に出汁を使ってスクランブルエッグにした感じ(風味だけで味がしない)コーンスープみたいな汁(具なしでやけに甘い)などの微塩料理、もちろんおかわりなし。
飲み物として、スポーツドリンクが提供されたが、これが1番美味しかったかもしれない。
「早く退院する理由が出来た。早く外に出て何か自分で作ろう。どうせあと1日2日で退院だし、寮の冷蔵庫の中身も問題なく使える。とりあえずマトイに連絡しとくか。仕事断る事になるかも」
あなたの都合に合わされると、言っていたが、それでもこのザマだった。
既に知られているだろうが、現状を教えておく。また『あの布』の足跡を何か知らないかと情報を求め、足取りが掴めたら自分で始末すると送る。
メールを送り終え、ベットに身を任せる。
リハビリ室での運動と、量こそ少なかったがしっかりとした食事。健康的で健全な営みを、この数日できなかったからだろう。
体自身が体力を回復させようと努めて眠りを求めてくる。
「まだ早いけど、寝てもいいか」
明かりを消し布団を被る。
外の廊下を忙しなく歩きまわる治療科の生徒達の声を聞きながら目を閉じる。
ここは安全だ、何かあれば人が来る、何よりここはネガイの部屋がある場所から目と鼻の先。
だけど、先程のリハビリ室での考えが頭に渦巻き、心で疑念を抱いてしまう。
「ネガイ、今いるかな」
今の時間ならば、高い確率でネガイは寮に帰っているだろう。通常通りなら施術が終わり目が覚め、一緒に寮へと帰っている時間だからだ。
「行くか‥‥」
目を開けてベットの側にある車椅子で廊下に出る。いない確率の方が高いが、それでもじっとしていられなかった。
廊下には明かりがまだついていた。急患こそ今晩はいないが、教員からの指示のもと、定期的な巡回を帯銃をしながら行っている治療科の生徒がいるからだ。
「あ、もうそろそろ消灯の時間ですよ。夜中に歩きまわってたら捕まえちゃいますよ」
部屋の外に出た瞬間、見つかってしまった。けれどミトリなので構わず廊下に出る。
「前から気になってたけど。その銃は殺菌とかしてるのか?」
看護服のようなデザインの制服で腰には銃のホルスター。あまりにもその光景が似合っていなくて、浮いて見えていた。
「勿論ですよ。薄くて見えないかもしれませんが、院内での治療科の銃には袋を使っているので、問題なくお世話が出来るんです。どうですか?」
少しだけ自慢するように、己がデリンジャーを見せてくる。
確かに薄い袋、というより薄い膜が銃全体を包み込んでいる。知らなかった。
「ミトリも大変だな。昼間は学校で、夜はここで実習か?休む暇ないだろう」
「そうでもないですよ。夜勤の実習は週に二日って決まってますし、しっかりと申請すれば昼間の座学が免除されたりします。それに帰るのが面倒だったらここに宿泊出来る部屋もありますから。結構色々あってゲーム機とかもあって楽しいんですよ」
ニコニコと子犬のように、楽しげに話しかけてくれる。
「それでも他の科よりも忙しんだろう?体に気をつけてくれ」
「入院中の患者さんに言われるとは思いませんでした、ふふ、私はこれから巡回があるのでこれで」
「ああ、また後で」
軽い挨拶を交わし背中に向け、その車輪あしでエレベーターに向かうが、確かにそろそろ消灯時間だった。廊下を歩き回る人足は、皆治療科の生徒達。
流石に車椅子の患者を、いきなり捕まえるような事はないだろうと、信じる事にした。
「その時はその時か‥‥」
自分でそう誤魔化し、車椅子のハンドルを回しながらエレベーターへ乗り込む。ネガイの施術室がある研究階に到着した時、甲高い音を立てて廊下を突き進む。
思えばこの時間を一人で進むのは初めてかもしれない。いつも帰りをネガイと共に歩いていたからだ。夜道は、いつも彼女と一緒だった。
「‥‥」
ネガイの個人部屋は、治療科の救護棟にあるが正確にはこの研究階の一室にある。
ここは簡単な手術の実施訓練なども行なっている階でもある為、今は誰も歩いていない。廊下に明かりこそついているが、休憩エリアの自販機の音しか聞こえない。
ほぼ無音だった。
「そう言えば、ここは病院か。夜中に一人なんてホラーだったらいいカモだな」
誰に言うでもなく呟いてみる。自身正直言って不安だった、ここに出るかもしれない彼方の住人よりも―――これから向かうネガイの方が。
いつも通りの道順で研究階の最奥、廊下突き当たりの部屋の扉に着いた時—――息が止まる。
だけど、押し黙っていても変わらない。必ず声をかけなければならない。
「ここには金目の物なんてないぞ」
「そうですか?以外と掘り出し物があるかもしれないのに、ふふ」
夜の病院、という異界の扉の兆しを感じてしまう場所に――――何人もの幽霊を生み出しかねない女ひとがそこにいた。
「どうしたこんな時間に。ネガイに用か?」
最も今の状態で会ってはならない人。
だがもう見つかってしまった以上、逃げる事も出来ない。逃げ場を失った車椅子を回して近くに向かおうとするが、マトイは優し気な表情で歩み寄ってくる。
「体はどうですか?」
こちらの質問に答えず、質問で返してきた。答えてくれないとは思っていた。
「上々。今はこのこの通りだけど、あと数日で退院だ。これは久しぶりに歩いた弊害って所らしい」
「じゃあ、明日にでもお見舞いの品を持って来ますね。リクエストはありますか?」
「特にないから、マトイのセンスに任せる――――妙なものは仕込むなよ」
「そんな無粋な事はしません、ふふ‥‥」
片手を頬につけて微笑する。場所が場所だけに恐ろしくもあるが、何かしらの代償を払ってでもずっと見ていたと願うくらいに、自覚ある美人顔を余す事なく見せてくる。自覚がある美人とは、これほどまでに恐ろしいのか―――。
「あなたはどうしてここに?」
「俺はネガイの患者だ。患者が主治医に頼るのは当然だろう?後、内容は言わない、体の悩みはプライバシーがある」
キッパリと突き放したが―――急に目を見開いて一歩下がった。思わず振り返ったが、薄暗い廊下があるばかりで、背筋を撫でる何かはなかった。
「放課後はいつも一緒にいると思ってましたが‥‥そういう関係でもあったなんて。なんでしたっけ‥‥ナイチンゲール症候群?」
「なんだそれ?なんでイギリスの看護師がここで出てくるんだ。まぁ、丁度良い。俺の事はメールでも送った通り。1週間後には問題なく仕事が出来るだろうが、目の方は諦めてくれ」
メールには目の事も送っておいた。準備金は無くなったが、緊急用予算を使ってサイナや整備科に払うつもりだった。
それでしばらくはどうにかなる―――ここへ来る時に渡された金だった。
「それは残念。でもあなたの口座に幾らか送っておきますよ」
「それはありがたいけど、なんでだ?俺はもう戦力外だろう」
「あの布のようなものを撃退し、しかも一部を確保してくれたのですから。法務科や私からの早めのお祝い金として」
「有り難く受け取っておくぞ―――で、その布はどうなってるんだ?もう何かしらの情報は出てるんだろう?」
「本当に復讐する気?もう目は使えないのに‥‥秩序の一員として、そんな自殺願望には手を貸せませんよ」
「俺の武器はそれだけじゃない。思っている以上にしぶといぞ」
ネガイは目は使うなと言った、だったらまだ心臓は使える。心臓に関しては俺とネガイ、数える程しか知らない力。マトイにも話していなかった。
「どうなんだ。あれは?」
「正直、分析科も手が出せないようですね」
「そんなに壊れやすいのか、あれが?」
煮え切らない答えに冗談で返してみるが、予想に反した顔をマトイが見せてきた。
「誰からか聞いた?」
当たってしまったらしい。驚いた顔は何度か見たが、これは見た事がない種類の狼狽だった。その顔に、ちょっとだけ優越感に浸ってしまいそうになったが―――、
「口の軽い人がいるようですね。オーダーたり得ない人物が紛れ込んでいるなんて」
聞くや否やスマホを取り出して高速でタップ。顔を切り裂く震え上りそうな笑顔を浮かべたまま、どこかに何か送ろうしているので慌てて止める。
「待て待て待て!それは俺が思って言っただけだから‥‥沸点低すぎるだろう」
操作している手を急いで握りしめてスマホのタップを止める。一体なにをどこに送ろうしていたのか、想像もできない。
「これはオーダーの守秘義務上、破られてはいけない鉄の掟です。本当に今、あなたの思いつきで言った事ですか?」
銃こそ向けてこないが、これ以上無い位に目を研ぎ澄ましてくる。正直、恐ろしい―――これで、また敵として認識されたら夜道を歩けなくなる。
だが、もしこれで罪もない他人が処罰されたら目覚めが悪いので、しっかりと否定しておく。
「ああ、間違いなく俺が言った事だ。言わせて貰うけど、そう思うようなヒントを与えるなよ。俺以外でもそこに辿りつくだろう」
ただの思いつきで辿りつく奴なんてまずいないだろうが、お前の責任でもあるのだぞと念を押しておく。
「そうですか‥‥、わかりました。これは確かに私の責任でもありますね」
スマホを仕舞ってくれた事で胸をなでおろす。
元々、厳格主義とでも呼ぶべき性格をしている時があった。一体、どのような経緯で法務科に所属したか知らないが―――ここまで徹底しなければならないなんて。
幾らかマトイから話を聞けたが、今回は無駄足だった。
扉の前にマトイがいるという事は、ネガイはもう帰っている。何より、ここにマトイがいる――――この状況こそが、すぐにでも帰るべき理由となった。
「俺は戻る、そろそろ消灯だから」
片方のハンドルだけ回して振り返り、早く病室に戻ろうとするが、
「私が押しますよ。看病されるのがお好きなようですし」
背中の手押しハンドルで押してくる。
「別に看病をされるのが、好きな訳じゃない。誰からか聞いたのか?本当に布に関しては何もわかって無いのか?」
「ええ、分析からはそう言われてますよ。ただ私も現物は一度しか見てませんから断定はできませんけど、見ている端からほころんで空気に溶けていくようでした」
室温で溶ける程融解点が低いのか?手術で使う糸は人の体温や血で解けるが、空気で解けるなんてドライアイスか氷のようだ。
直接触れた訳ではないから確証はないが、少なくともあれは――――氷やそれらに類する固形物には見えなかった。
「当然、分析の方々は省庁に任されたプロです。これは公的な事件になってますから」
「だから失敗なんてしないか?事実として、時間の問題で証拠は無くなっていくって事だろう?何も出来てないじゃないか。それで、なんの用だ?自分から押すなんて殊勝な心がけ、ただでするわけないんじゃないか?」
自分で回すのとでは力の入れる角度が違うせいか、車輪の回る音が少し違う。
正直冷や汗をかいている、この状況は致命的だった。
銃や防弾服、何より自力で動くには限界があるこの体調では、階段から突き落とされでもしたら重体は免れない。
言葉を発するどころか、視線を向ける余裕もない時間を過ごしてながらマトイに押されてエレベーターホールまで辿り着く。階段の前を通る度に心臓が跳ね上がった。
「そんなに怖がらないで。私はあなたの為に押しているだけだから」
無防備に背中を晒しながら一歩前に出てマトイが、エレベーターのボタンを押す。
「私はネガイさんについて、あなたと話しておきたいだけですよ。何か危害を加えると思いましたか?」
「前に撃たれた事、まだ根に持ってるからな」
「怖い怖い」
再度後ろに回り、ただただ楽しそうに笑いかけてくる。
どちらが怖いかなんて、誰が見ても明白だった。廊下に木霊するマトイの声に背筋を冷たくすると同時—――美しい調べに、心を惹かれてしまう。
「どうしました?」
「‥‥なんでもない」
「ふふ‥‥」
エレベーターはすぐ来てしまった。マトイは車椅子を操作して後ろに向かせ、後ずさりをしながらエレベーターに入っていく。先客などいる筈もなく、俺とマトイの二人だけ、完全なる密室となった。
「そう言えば、目はどうしましたか?」
「メールで送った通りだ。もう使えない」
「では、使えなくなった時、彼女はどこにいましたか?」
同じ結論に至っていたマトイが、確信に触れてきた。
「マトイが気にする事じゃないだろう」
自分もわからないので、下手な嘘を吐かずに回答を避けるが、
「でもあなたは気になったから、この時間でも来たのでしょう?隠しごとが下手ですね」
とあっさり看破される。こうした言葉遊びに一勝も出来た試しがない。嘘は勿論、碌に隠し事すら出来ない、許されないという事だった。
気付かれないよう額に汗をかいて次の言葉を考えていると、マトイの髪の匂いが漂ってきた。香水を使ってるのか、それともマトイ自身の香りか、匂いがエレベーター中に充満していく。
その香りのお蔭で落ち着いて思考を整えられた。完全な密室で身動きが取れない現在では、何か余計な事を言って後ろから車椅子ごと刺されてはたまらない。
静かにして、聞かれた事にだけ答えるように徹する。
「お気に召したようで嬉しいです。この香りの時は、いつも瞳孔が開いてますから――――あなた好みかと思って」
その言葉に視線を上げる。エレベーターの扉の一部が鏡のように顔を映していた。
対象の仕草、生理現象、呼吸の強弱の観察。それらはオーダーにとって命綱なり得る技術だというのに――――決して、今の自分は冷静などではなかった。
「いつもそうやって観察してるのか?」
斜め下を向いて目を覗かれないようにする。幾つも上手だったマトイに、敗北感を受けてしまっただけではない。マトイの色香に惑わされていると、気付かされた。
「恥ずかしかった?でも意外と男性の目線はわかるもの、これから気をつけては?」
顔を見ることが出来ないが、確実に小馬鹿にした顔をしているのは間違いない―――なぜだろうか。誰も彼もが、俺を子供扱い、人間扱いしない。
目的の階に着いた時、何も言わないでエレベーターから降ろされる。
意外と、エレベーターの扉が開いている間に、自力で車椅子を操るのは腕力を使うので、人に押してもらうと楽だった。
「ありがと‥‥」
「ふふ‥‥」
口を衝いて生まれた言葉に、マトイは何も答えなかった。
「あ、そろそろ消灯ですよ。早く部屋に戻って下さい。」
「ああ、わかってる。今戻るよ」
ミトリにまた捕まってしまった。本当なら強制的に部屋に戻されるのだろうが、後ろにマトイがいるのでお咎めはなかった。
「大丈夫です、私が連れて行きますから」
マトイがにこやかにミトリにそう伝える、だがミトリの顔は優れない。当然だった。本来ならもう面会時間は過ぎているのに何故部外者のマトイがまだここにいるのか?と訝しむに決まっている。
「本当ですか?彼は体力の回復に努めないといけない体なんです。無理矢理外に連れ出そうとするなら、治療科としてあなたを拘束せざるを得ないですよ?」
「ええ、連れて少し話したらすぐに出ますから。ふふ‥‥」
ミトリの通告も、特段気にした様子もなく部屋へ連れて行こうとする。
「大丈夫だよ、俺もすぐ寝るから。巡回の時にでも確認してくれ。またな」
「はい‥‥お休みなさい」
どこか不服そうなミトリのすぐ横を通り過ぎようとした時、急にマトイが、「ただ‥‥」と、そこで言葉を止めて車椅子を押す手も緩め、ミトリのすぐ側で止まる。
「何ですか?」
「これから二人きりでしたい事があるので、決して覗かない下さい」
急に鶴の恩返しの一文のような事を言い出した。覗くな?確かに会話の内容上、聞かれてはいけない話だろうが、それは重要な事を話すと言っているのと、同義では?
「そ、そういうのはここでは!第一彼にはそんな体力、今は‥‥」
マトイの言葉にミトリが目に見えて狼狽し始めたが、急に静かになり小声となる―――情緒が不安定だった。
確かに治療に専念して、もう寝ているべきなのだから、治療科としてミトリは正しい事しか言っていない。だとしても、何故そんなに、この体が気になるのだろうか。
そんなミトリの様子も構わず、マトイは更に続ける。
「大丈夫ですよ。彼は毎日ネガイさんと遅くまでいたでしょ?彼はそうしないと夜眠れない、だから私が同じことをするだけ何も問題ない、すぐ終わりますから。それと―――多少声が聞こえても気にしないで。彼であれ私であれね」
「え!?‥‥こ、困ります。ここはそういう場所では‥‥あ、でも、それも医療行為なの‥‥?」
混乱し始めたミトリの言葉を、最後まで聞かずに颯爽と俺を押して部屋に向かう。
もしかしてマトイも、ネガイのような手の治療が出来るのだろうか。
「いや、単純に手で少し治して貰ってるだけだから―――また明日‥‥!」
「手、手で‥‥。それは、その‥‥あの、手がお好きなんですね‥‥。大丈夫です、私も作法は知ってつもり‥‥です‥‥」
落ち着かせようとしたが、ますます混乱させてしまった。どうしたものか?と考えていたが、マトイはどんどん離れていく。
「いいのか?なんかすごい頭抱えてるぞ」
後ろに振り返ると、顔を隠すように両手を目元に押し付けていた。けれど、チラチラとミトリは指の間からこちらを覗いている。
「いいんですよ。私もなんであんなに混乱しているのかわかりません」
自分で混乱させておいて、もう興味がないっといった感じに振り返りもしない。
「—――なんで俺の入院室を知ってるんだ?」
「法務科には入退院したオーダーの情報が全て取り揃えてあります。しかもここは学内ですからね、調べようとすれば幾らでも」
「その調子だと、買い物とか行った場所までも、全部の個人情報が法務科にはありそうだなぁ‥‥」
「想像にお任せしますよ―――勘が良い所も、高得点です」
入院室に戻ってきたが、明かりも点けずにベットまで連れて行かれる。怪訝に思う必要もないと思い、手を借りながらベットに横になりマトイの顔を眺める。
「月明かりの密会、というのも良いものでは?」
マトイが窓まで歩き、カーテンに手をかける。
「さて、ではお話をしましょう?」
一切の躊躇もなく、引き裂くような勢いで窓を晒した時だった。月明かりにのみ照らされた部屋の空気が、一瞬で変わる。空気さえ瞬きの間に取り換えられ―――まるでマトイの体内に招かれたように錯覚、完全に目をマトイから離せなくなった。
「暗示――」
一言、それだけを呟けた。
月明かりを背に受けたマトイは神々しく、人間離れしたカリスマ性を感じさせる。
―――カリスマと呼ばれる人間の魅力は、英雄的な資質を持ち合わせている事が必要らしい、これは元のギリシア語に由来する。
それらの条件のひとつに、容姿端麗が上げられる。
一緒にいるだけで人を惹きつける容姿も、また必要な要素であった。
法務科の人間にして、月の住人にも似たマトイからカリスマ性を感じるのは必然だった。
「まずお聞きします。あなた達が襲われた夜、あなた達は何故そんな時間に歩いていたのですか?」
髪に月の光を受け、後光を纏った彼女が、黒い瞳孔で眼球を刺し貫く。視線に縫い止められた目が、マトイの顔から背けられない。
ここは裁判所であった。そして被告は俺自身の心—――
「あの日は俺の目の治療と、仕事の話、俺達の契約について話してた。それだけ‥‥」
嘘は見抜かれる。本能でそう感じた。銃を肝臓に向けられているわけじゃない、刃を心臓に押し当てられてるわけじゃない。それなのに、マトイの声に抗えなかった。
「いつもこの時間になる?」
「たまになる、だけどそうある事じゃない」
不可思議だった。
どうして、聞かれるままにマトイの質問に答えているのだろう。
決して嘘をつけない。マトイの目にも力が宿っているのかもしれない。嘘をつかせないという隷属の呪いを―――マトイにかけられている。それを、受け入れている。
「あなたは目を戦闘中に使いましたね。‥‥何故使ったのですか?」
質問の途中でベットに座り、左右の耳に両手を添えてくる。マトイは瞬き一つしないで、目を覗き込んでくる。
間違いない—―――魅了の目だ。きっとそうだ。だから俺は、こんなにもマトイという存在に心地よさを感じている。抗い難い呪いを受け続けている。
「それは‥‥ネガイを助ける為に使った」
「その時、彼女にはどんな危機が迫ってましたか?あなたは目を使って、どのような行動をしましたか?」
「ネガイは、その時、布に手首を掴まれて‥‥動けなくなっていて‥‥」
目が熱い。ネガイの熱とは違う、目と脳が状況を処理できなくなってきた。もう気絶しそうだった―――上体を起こしていたが、もう耐えられない。
ベットで横になっている体が、馬乗りにされる。マトイの体温が心地よくて―――傍らに誰かがいるという安心感が、思考をほどいていく。
お互いの下腹部から感じる温かさを重ねる行為に、抗えない。
「動けないネガイを、布が、短刀で、刺そうと‥‥」
「ゆっくりと話して‥‥あなたは何も悪くない。あなたを守れるのは私だけだから‥‥」
現実なのか夢なのかわからない。この目と香りと体温から逃れられない。
「目を使って、わかったんだ‥‥。布には、弱点があった。あれは‥‥刃を防ぐには時間がいる。だから俺は目で‥‥目で‥‥」
「目で?」
「目から力を借りて、ネガイを掴んでる‥‥布と、短刀を、弾いて‥‥」
「その行動は目がないと出来ない?」
「ああ‥‥」
「もう目は使えない?」
「後、一度は出来るけど‥‥使ったら‥‥。目が羽化して、俺は、操られて‥‥」
「目に?操られるとどうなるの?」
「血を‥‥求めるって、言われた‥‥」
何もかも全て話してしまう―――今、俺はどんな姿をしている?身体中がドロドロに溶けて、内側の隠さなければならない部位をマトイに全てを見られている。自分の恥部を、おぞましい本能を、もっとマトイに見て欲しい。
「それを言ったのは、彼女?」
もう喋れない。もう声に頷く事しか出来ない。
「捕まっているネガイさんは、本当に危機的状態でしたか?」
抱えてきた謎だった。あのネガイが布で捕まった、だが――――俺はネガイが捕まった瞬間を見ていない。もしネガイがワザと捕まったとしたら。
「あなたの目を診れるのは彼女だけなのでしょう?そして、あなたに目を使わせる事になった理由は―――彼女にある」
ネガイの為に、目と心臓を使った。
それがどのような末路を辿るかわかっていながら―――予想は的中した。
ネガイは後一度でも使ったら、俺は目に心臓を奪われると言った。俺もそれを今までの経験を元に鵜呑みにした。
「あなたと私の仕事の契約を、もし彼女が知っていたとしたら?彼女はあなたの目を独占して誰にも、あなた自身にも使わせたくなかったとしたら?」
体の上に、マトイが重なってくる。動けないように膝を足と足の間に入れて、抱きしめられて―――耳元で囁いてきた。
「彼女の事を信じられますか?今までの発作だって、彼女が意図的に引き起こした可能があるのでは?三日に一度の診察だって‥‥本当はあなたを手元に置いておく為の嘘だったりは?」
制服越しでも感じられるマトイの柔らかい体が、全身を包み込んでくる。
これは催眠術だ。俺とネガイの離れさせて、法務科に移籍させる目論見なんだ。そう考えないと、さもないと―――、
「目の治療が本当だったとして、その夜あなたは昏睡するほどに目を使った。なのにあなたの診断表には目や脳、心臓についての記述は無かった。あなたが倒れた後、彼女はあなたを治療した。—―――だけどその時、布はどこで何をしていた?あなた達も襲わずに」
きっと、その時、ネガイは布を気絶させて、でも布に中身は―――
「あなたももう理解している。あの夜は自作自演だったのでは?あなたに目を使わせて、後一度で死ぬと言ってあなたを自分から逃れられないような状況に追い込んだ、そうは思いませんか?彼女は遊びのない人間です。どんな手段を使ってでもここを出ようとする、あなたが1番それを知っているのでは?」
聞きたくない‥‥やめろ。
「此処さえ出る事が出来れば、あなたなんてどうでもいいと思っているのでは?」
「やめ‥‥ろ、やめてく、れ」
碌に回らない舌を噛みながら口を動かす。
だけど、考えないようにしてきた思案を読まれただけだった―――。ネガイは、眠らせるでも支配するでもどちらでもいいと言った。
それは、どうせ、ここから出たら俺なんてどうでもいいと思っているからか?どうせ彼女がここから出る時、俺は死んでいるからか?
「つらかった、怖かった、恐ろしかった。誰も死の恐怖からは逃れられない、それは人であるなら当然の帰結。あなたは間違っていない」
冷たい手を病院着の中に入れて、胸に差し込んでくる。
もう何も考えたくない、このまま心臓を貫いて欲しい。だというのにマトイは、続けて事実なぞを投げかけてくる。
「あなたは生き死にをあの人に掴まれて、あの人の望む通りに目と身体を使うしかない。その結果、あなたを使い捨てられる」
彼女は、俺は目に支配されると言った。だけど、今の俺は彼女に支配されている―――ネガイは俺の心を知っているから、俺が断れないと知っていたから。
「彼女がここを出る時、彼女の隣にあなたはいますか?あなたの隣に彼女はいる?」
ネガイがここからいなくなる時‥‥その時、俺は、俺は‥‥どうなっている?
どうすればいい。どうすれば――もう捨てられないで済む―――。
目から熱が溢れる、これは血じゃない。涙だった。
耐えきれない熱に抗う為、無理に閉じ込めた目の上に何かが置かれる。
マトイの冷たい手だった。マトイの手は火傷をしそうになっていた目を冷やしてくれる―――知らなかった、これ以上の快楽を自分は知らない。
「泣かないで‥‥。私がここにいるから」
上から降りたマトイが添い寝をして、一緒に布団を被ってくれた。
冷たい手によって目と頭の熱が奪われる。それだけではない。自身の体温を捧げて、身体の中に受け入れてくれる。吸い込まれるような睡魔に身を預ける。
「今晩はここにいます。あなたが寝付くまでずっと‥‥。忘れないで、あなたは‥‥どこまでも一人だから、あの人がいても。でも、私が傍にいるから‥‥」
もう、何も考えられない。あの夜よりも頭が空白になっている。
脳に一滴も血が通っていなのか、考える行為を全身が拒否している。
「マトイ‥‥俺は‥‥俺は‥‥どうしたらいい‥‥ここにいてくれ――」
自分で声を出せているのか、心の中で叫んでいるだけか、もはやわからない。
背筋が寒い、頭が熱い、何も考えたくない。このままマトイに眠ってしまいたい。
――――手を握って体温を分け合う。逃がさないよう、身体に腕を回して胸で抱いてもらう。心地いい心音に、意識を溶かし―――肺の膨らみを求める。
「眠って‥‥。あなたは誰にも渡さない」
この声の振動が耳に届く。そしてこの香り、これは花—――
「おやすみなさい‥‥」