3章 黒の帳
「ああ、フルメンテナンスで」
準備金が貰えるというので、早速ホーネットの整備を整備科に要請した。
マトイのポケットマネーだと聞いたが、車両の整備不足はオーダーの依頼どころか一般の交通にも多大な被害を起こしかねない。
金があるうちに整えておく必要があった。
自分では怖くて出来ないエンジンの分解という技術と経験が必要、おまけに値段が高い整備を注文した。
「どうしたよ?いつも道具だけ借りて、金なんて払わないくせに」
「まぁ、少しこれから使う機会が増えそうなんでな」
整備科の本拠地とでもいうべき工場に、ホーネットを運び整備の契約を結ぶ。
受付に知り合いがいたので「これの面倒みて」と言ったら二つ返事で工場の奥に持っていってくれた。
後学の為、少し覗いておきたかったが、それの許可はくれなかった。
「お前は整備に参加しないのか?お前が、勧めたから買ったんだけど」
軽く話し合っていたら、地下から立体駐車装置を使って白い車が出てきた。舞台装置の迫みたいに出てきたのは、整備が完了したらしいポルシェ・カイエンだった。
それを整備科の生徒が運転して、生徒駐車場へと向かっていく。
金持ってる奴は違う。憎らしい経済格差を、目で感じられた瞬間だった。
「今すぐやるって訳じゃないからなぁ。エンジン分解込みのメンテナンスだから人数がいるんだよ。放課後とかに俺ら一年がいる時に、整備の見学って事で先輩達がやる予定だ」
「そういうものか」
「そういうもんだ。それで、どこからこの金出てきたんだ?なんか良い仕事か?」
マトイという法務科が絡んでいる仕事だから、詳しくは話せない。
そして何より、もしマトイに俺がバラしたと知られたら―――満面の笑みか無表情かはその時になってみないとわからないが、容赦なく始末しっこうにくるだろう。よって口が裂けても言えない。
「秘密の依頼だ。誰にも話してはいけない奴」
「つまんねーな、俺も少し稼ぎたいんだよ。ちょっとでいいから関わらせてくれないか?」
「悪いな、それは出来ない。それにお前は整備なんだ、仕事だったら向こうから来るだろう?」
断ったら目に見えてがっくりしてる。だが、マトイの秘密を知ろうものなら、この悪友は明日にはいなくなってるかもしれない。
広義の意味では、これも人助けだ。
「それが出来れば苦労しねーよ、俺らみたいな一年は個人で指名されなきゃ稼げねんだよ。まぁ、さっきのカイエンとかエンジン分解は個人で指名されても結局周りに金払って仕事を頼むしかないんだけどな。あーああ、金払いのいいやつがいればなー」
「わかったわかった。これからちょくちょくお前宛に整備を頼むよ」
「助かるわ、いつも道具だけ貸せって言って、碌に金払わねぇ奴がいるんだよ」
「無礼な奴だな。顔見せたら言えよ、俺が口の利き方教えてやる。ていうか、お前整備科だろう?車両とか出して足で稼げんだろう。何かしらのチームとかメンバーとか誘って作れよ」
整備科は車両のレンタルをする別の顔も持っていた。だから早い段階で調達科や輸送科とチームを組んで、荷物の配送をやるのが古くからの伝統らしい。
最近では、車両を改造して装備科と電話一本でどこでも行くを謳い文句にした出張整備と改造もやっていた。
「まずは技術を磨くのが俺のやり方だ。それをするのは運転技術を先輩方から盗んでからだ」
「そう言えば、輸送科にも顔出してるんだったな。大変だけど、頑張れよー」
口ではこう言ったが、心底興味がない。自分には真似出来ない心意気、立派な心根だとは思うが、この人間の主義にはあまり興味がないので軽く流す。
「んで、俺のホーネットはどのくらいで納品予定だ?」
「ちゃんと契約書読んどけよ。3日後って所だ、代車としてバンディットを運んどくぜ」
「バンディット‥‥タンデムしにくいんだよなぁ。デザインは好きなのに――これからもタンデムを続けるなら400ccを買うか‥‥」
「けっ!あの美人の彼女さんと毎日くっつきやがって。俺はむさ苦しい野郎どもと一緒に、油まみれになってるのによ」
「整備科にだって女生徒はいるだろう。あと、ネガイは彼女じゃない」
「同じだろう!寧ろ彼女じゃないのにあんなにギュッと抱きしめ合って、なんだ?友達以上恋人未満ってか?」
「—――抱きしめ合ってない」
「これだから無自覚はよ」
やれやれといった感じに手を振ってくる。そうだったら、どれだけ良かったか。
「まぁ、それもこの数日出来なくなるぞ。残念だったな。バンディットはタンデムには向いてないぞ。しかもグラブバーもついてないからな!」
「仕方ないか‥‥ネガイにもっとくっつくように言っておかないと。運転しにくいんだよなぁ」
「クッソ!あー言えばこー言いやがって!俺だってな!」
整備科の女子は、須くガテン系で自身の好みではないらしかった。
恐らくは、それは向こうも望む所だろう。その上、そもそもで言ってしまえば、この人間など眼中にないに違いない。
もっと考えれば、何故、整備科にガテン系以外の女子がいると思ったのだろうか。
字面や自分の事を理解しておけば大方予想は出来ただろう。
「俺はもっとこう‥‥清楚で大人しくて。それでいて色気があってだな!」
「そういう人を探せばいいだろう?全部を網羅するなんてありえないだろうが、清楚だけとか、色気だけとかならいるんじゃないか?」
「俺だってな、探したんだよ!そういう人を!なのに、なのに‥‥飛行機の整備工場の見学は無理って言うんだぜ、俺にどうしろと!」
「落ち着けよ、いずれそういうマニアが現れるかもしれないだろう?待ってれば良い人は来るよ、きっと―――」
飛行機整備とは、それはそれはヒットする人は少なそうだ。仮にいてもコレをそっちのけで見学に熱中しそうなのだから、チョイスが悪い。
趣味に付き合わされるのは、つまらないと知らないようだ。
「そうだよな‥‥何度も誘えばきっとわかってくれるよな!」
「ああ、だが良心で忠告しとくと、もっと窓口の広い事で誘っておけ。いきなりそれはマニアック過ぎる」
だが、こも言葉などもう聴こえていないらしく、次の作戦とやらを熟考し始めた。話がズレている気がするが、馬の耳になんとやら、説教の真似事などただただ無意味だった。
「てか、誰を誘ったんだ?」
「お前には言わねーよ。あの子は俺にとっての癒しなんだからな」
「じゃ、いいや。どうでもいいし、何よりもどうでもいい‥‥」
「聞けや!知りたいだろう!?知りたいって言え!」
教えたいのか、教えたくないのか何方なのだろうか。矛盾した心は、理解できない。だが、この人間には度々世話になっているので――――。
「教えてくれ」
足を組んで、その上に肘を突く、考える人の格好で聞いてみる。意外と安定する。
ロダンもこの格好が楽だったから、あのブロンズ像にしたのか?そういえば、考える人とは地獄の門、ダンテの叙事詩の神曲に出てくる‥‥これもどうでもいい。
「そうか〜そんなに聞きたいか〜。なら教えてやるよ、‥‥お前、捜査科って知ってるか?」
直感が訴えかけた。この話は危険だと。
捜査科は事件や事故が起こる前に活躍する科で自分の探索科とよく仕事をする。
そこの女子には一部ある条件が設けられ、それをクリアしなければ所属出来ない学科があった。単純に言えば美人。
「あそこの女子はやめとけ。先輩が言ってたが、あそこにはいつも男の亡骸が転がってるって。お前の葬式は面倒そうだ」
「それは他の女達だ。俺はあの、優しくて、美人で、いい匂いのあの子を知ってる‥‥」
気持ち悪い。そう口を衝いてしまいそうになった。
女っ気が全く無いと思ってたが、こういう所が悪いと教えるべきかだろうか?思ってても言わない方がいいと。
「で、その子って?」
「そんなに気になるか?」
「—――表出ろ」
「そう怒るなって。あの子だよ。あのマトイさんだよ」
「あばよ。達者で」
思い出した。美人な子が中等部から高等部に上がって、早々あの学科から誘われたと。けれど、マトイはあの学科だっただろうか。
「ま〜待て。お前にはネガイさんがいるだろう?マトイさんが誰かといい仲になったら嫌なのはわかるが、別に構わないだろう?」
立ち上がろうとした俺の腕を掴んでなだめようとしてくる。
――――いろんな意味で危険だったので、言っておくべき事ができた。
「なぁ、友人として言っておいてやる。まず第1にあの学科はやめとけ、これは歴史が証明してる」
「でもよ、あのマトイさんは特殊捜査学科じゃないぜ。断ったって言ってからきっと大丈夫だ」
なぜこうもポジティブなのだろうか。こういう奴が早死にするのだろう。覚えておかなくては。
「第2に見た目で判断はやめとけ。オーダーなら相手を観察して隠し事と庇っている部分を調べろ」
やれやれといった感じに両手を挙げてくる。ただ、心配は不要かもしれない。あのマトイが、この人間に、簡単に正体を見破られる事も無いだろう。
「第3に。これが最大の理由だ、よく聞け」
「なんだ?手早く頼むわ。」
「もし今も誘ってるなら。俺を決して巻き込むな、俺が殺される」
マトイに、もしこの愚人が散々誘ってくる裏に、俺がいるなんて勘違いをされたら―――必ずや俺を笑顔で殺しにくる。
「大丈夫わかってるって。ネガイさんの手前、もし浮気でもしてるって思われたら大事だもんな」
「ならいい」
色々と大きな間違いをしているが、構わない。マトイも、流石にこの人間相手に何かしらをけしかける事はないだろう。もししても、俺には関係ない―――。
その後しばらく話をしていたらバンディットは排気量の問題で、既に生産終了をされているとわかった。バリオスは大分前に終了していたと知っていたが、バンディットはつい数年程前らしい。
「そろそろ行くか‥‥。じゃあ、バイク頼む。またな」
「おう、またな。次は休み中だな」
そう言って、手を振って工場から挨拶をくれる。いい奴なんだが、頭が足りない。
「はい、じゃあ横になって下さいね」
ここに来たら、挨拶より早く目の検査、調整と治療から始まる。
一瞬だけモニターが置いてある机を見ると、淹れたてのコーヒーがある。前々から思っていたが、コーヒーが好きのようだ。
「どうだ?」
「ここ最近多用してないようで、上々ですね。褒めてあげます」
珍しく褒められてしまった。明日は雪か?と期待を寄せていると「今何か失礼なこと考えましたね?」と言われたので、聞こえないフリをした。
軽い会話を続けていると、まぶたに手を乗せて治療を始めてくれる。
「それで、何故予定外の日に?—――もしかして、顔を見に来たんですか?」
「あー実は‥‥仕事の件で相談をと思って‥‥」
「そういう事ですか。もしかして私を便利な女と思っていませんか?」
仕事を強請りに来たと思ったらしく、怪訝そうな顔をしているのを感じる。同時に背筋が凍りつきそうな雰囲気を醸し出してくるので、
「まさか、そんな事ないさ。最後に頼れるのは痛い!」
言い訳をする暇も無く、当てている手の爪で顔を刺してきた。
「そういうキザな言い方似合いませんよ?寝ている時に‥‥いいえ忘れて下さい。少し時間をかけるので静かにしていて下さい。寝ててもいいですよ」
そう告げた後、目に手を当てて何も話さなくなった。
指示に従って、静かにしていると、先ほどの痛みも引いて行く快感に意識を手放しそうになるが―――この施術を受けていると前から聞きたかった事が浮かぶ。
「なぁ、聞いて良いか?」
「何ですか?」
「この消えた痛みが、ネガイに移る‥‥とかないよな?」
「—――本気で言ってるんですか?本当に知らないんですね?全く‥‥ふふ、大丈夫ですよ。これは貴方の治癒力の一部を高めているだけですから、私になんの損失もありません」
質問内容が気に入ったのか長く笑い続け、触れている手が小刻みに揺れている。
「心配性ですね」
「気になってたんだ。前に目以外の治療をしてもらった時もあったから」
「ふふ‥‥」
何も問題ない、そう気丈に振る舞っているが、感覚的に自身の体温を使って、この体に呼びかけている気がする。なにも損失がないと言っていたが、恐らく体力は使うのだろう。これは、紛れもなくネガイの体温に包まれていた。
「今度何か差し入れするよ‥‥」
「期待しないで待ってます」
小馬鹿にするような言い草で、また笑ってくる。センスが無いと思っているようなので、後でスマホで調べると決めた。
治療を受けるまで全く眠く無いのに、今はすでに睡魔と戦っていた。完全に寝る前に――――答えを聞くことにする。
「それで仕事の‥‥」
「患者の懐具合を診察するのも私の仕事ですか。仕方ない人です、でも丁度よくもありますね。まずは目の治療が終わるまで待っていて下さい」
色々と修正したい話ではあるが、目の治療が優先との事なので、後は任せて寝る事にした。
「聴こえてますか?」
「聞いてる聞いてる‥‥」
まだ眠い目を擦りながら、ぼんやりとネガイの顔を眺める。
治療が終わり、起こされた後に直近で行う仕事をネガイに教えてもらっていたが、頭がスッキリしない。目の熱が頭を動かすのを邪魔しているように感じる。
気が付いたら、ベットから降りて近くの丸椅子に、ネガイはデスクに備え付けられている背もたれがついた椅子に、それぞれ座っていた。
「全く‥‥もう一度説明しますね。今回私が受ける依頼は大きな仕事です。この仕事には人数が必要なので、私に必要な人員としてあなたを協同契約者の枠に扱う事にします。つまり私の手下です。ここまで良いですね?不服そうですね?」
「不服も何も、手下なんて言葉が使われている事に不安を感じてるだけだ—―」
マトイといい、ネガイといいかなり危険な事をさせられた過去がある為、今度は一体どんな危険な事させられるのか恐ろしくて仕方ない。
現状マトイ宛に整備費用を提出すれば最低ラインの金は貰える。だが準備金という名のマトイのポケットマネーに頼り過ぎるのも悪いので、少しでもまとまった収入が必要なのも、また事実だった。
「お願いします‥‥」
「ふ、仕方ない人です、相変わらず」
返答が予想を超えて情けなかったのか、機嫌がすこぶる良くなった。二人乗りしてくるガソリン代も含まれてるんだぞ、少しは払えって言いたいが「じゃあ、さっきまでの治療費と今までの費用を払え」と言われかねないので、静かにしておく。
「それで、何か探すのか?」
「はい、この依頼によると探すそうです。教導に後で行くつもりですが」
「詳しい事は現地で説明か?無いわけじゃ無いが、そういった仕事は大体怪しい仕事だぞ。まぁ‥‥教導から説明されるなら、適切な依頼として受理されてるみたいだけど」
「はい、本部公認の仕事だと、思います」
「思うか。意外だな、そんな怪しい仕事をやるのか?」
「その予定です。文句あるんですか?」
「いいや、無いよ。それで書類と現場はどこだ?」
ついさっきまでは、上機嫌だったのに、もう不機嫌になった。不可思議だ、どうしてこうも人間は、その時々で性格が変わるのだろう。
下手に突っ込んで聞いたら、また撃たれるかもしれないのでこれ以上は聞かない。
「ここですよ」
「ん?あぁ、書類は今あるのか。出してくれ、今、サインを‥‥」
胸ポケットと内ポケットを漁ってペンを出して、ネガイから書類を受け取る。
書類から現地を確認する―――場所は、行政機関が集まる街だった。
「もしかして?」
「はい、現場はここです。‥‥実は私もワクワクしています。初めて行政側の人間に対しての仕事ですよ―――」
数秒前まで続けていた不機嫌な顔が消え、八重歯が浮き出る捕食者の顔となる。
そこからみるみる内に目の色が変わっていく。
これほどまでに感情が変わるのは、むしろ自然だった。理由は初めて権力者にオーダーが宣言出来る。オーダーとしての本懐が成し遂げられる。
自身の復讐が、ようやく始められる。
「あなたがここに仕事を求めに来て良かった。呼ぶ手間が省けました」
書類束を奪い、ペラペラめくる度に呼吸が荒くなっていく。
「さぁ、やりますよ‥‥。これで私達の目標に一歩近づきました。ふふ、これでやっと近づけます‥‥!」
俺達の目標の一つ、それはここから外に出る事。俺は目によって、ネガイは血によってこの土地に縛りつけられていた。
「やっとだな‥‥長かったか?」
「えぇ、ええ!オーダーに入ってもう10年ですよ!やっとです。ああ‥‥ああ!早く‥‥早く出たい!あっはははははっ!」
一息も吐かずに立ち上がり椅子を蹴り飛ばす。更にヒステリックな笑いを天井に向かってぶつける。そのまま振り返り、息継ぎもせずにデスクに書類を叩きつける。
デスク向こうの窓に自身の姿が映ったのか、窓の外を見ながら自力で落ち着こうと、胸を両手で抑えつけ始める。
「落ち着けよ、まだネガイのに関わってる奴って事はないだろう?」
「はぁ、はぁ、‥‥はぁっ、そうかもしれません。でもこれは大きな一歩ですよ!嬉しくないんですか?私はこんなにも楽しみなのに!やっと、やっとなのに!あなたは嬉しくないんですか!?」
落ち着こうと机に手をついて、もたれかかりながらのコーヒーを口に運ぶが、興奮が止まらないままカップを床に叩きつける。
「私は!今ここにあなたを置いているのは、ここから私を出してくれるって信じたからですよ!違うんですか!?なんとか言って下さい!」
頭を振りながらこちらに向き直し、髪を振り乱す。
それでも収まらないで、こちらを睨みつけて同意を強制してくる。
違うと言ったら殺されかねない。事実殺す気の様で懐に手を入れて、銃器の感触を確かめている。
だが、銃なら完全に狂った訳じゃない。
「‥‥」
首に汗がつたる。慎重に言葉を選び―――ネガイに静かに同調する。
「まさか‥‥俺も嬉しいに決まってる。これでオーダーに入った意味が出来た。これでやっと俺は、俺達は外に出られる」
返答に満足したのか、懐から手を出して目をつぶり祈るように両手の指を組み、荒げた息を落ち着かせていく。
詳しくは知らないが、これも精神を落ち着かせる方法、瞑想と言うらしい。
「—―――すみません、取り乱しました。‥‥今、片付けます」
「いや、俺がやるよ。座って休んでろ、まだ酸素が足りないんじゃないか?」
「でも‥‥」
「構わないから、少しゆっくりしてろ」
視線でベットを差して言いつけると、自覚があったのか、これ以上の失態を見せるのは嫌だったのか、大人しく離れていきベッドに座った。
見た目以上に強く叩きつけたようでカップは粉々、取手の部分だけ原型があるのみ。
「あの、気をつけて、‥‥下さい」
「わかってる。淹れ直すか?」
「大丈夫です」
激情はなりを潜め、普段の傲慢さも消え、こちらを気遣ってくれた。普段からそれぐらいお淑やかならと思ってしまうほど、小さくなっていく。
まずカップの破片を拾えるだけ拾い、二重のビニール袋の中に入れる。その後に拾えない破片の上へ、デスクの上にあった緑の箱に入った紙を被せてコーヒーの残りを吸い取る。
「‥‥すみません」
「いいって、少し寝てろ」
語気を強めに出してしまったらしい。下を向いたままピクリとも動かなくなった。
一連の掃除を申し訳なさそうに見られていて、やりにくいからそう命令したが、いつもならこんな言い方したら不平不満の一つや二つでも飛んでくる。
だがこういう日は、弱々しくてただ謝ってくる。
会った時は今より無表情でほとんど感情を表に出さなかった――――だが目の治療をしてもらう内にこういった今の行動を見せてしまうようになった。
もしかしたら昔はもっと感情的な性格だったのかもしれない。
—―――これはその片鱗のような気がする。
「終わったぞ。今日は—――依頼の話があるみたいだけど、俺はもういい。ネガイはどうする?少しだけでもいいから、聞きに行くか?」
「いいえ‥‥私も、今日は帰ります」
この返答を聞けた事で、気付かれずに安堵する。
今のネガイの見た目が、ホラー映画の怨霊よりも怨霊で、連れて教導まで行き説明を聞くのはほとんど無理そうだったからだ。前に聞いたが、幽霊役は美人じゃないと務まらないらしい。今のネガイならば、どこの女優賞の一つでも取れるだろう。
「‥‥先に帰って下さい」
「その前に何か飲むか」
返事をする気力も残っていないようで、首ひとつでコクリと頷く。普段の彼女からは想像出来ないほど、か弱くて毎回心臓が掴まれてしまう。
カップはもう一つあるが、流し近くの棚から紙コップを二つ、サーバー、ドリッパー、コーヒーフィルターを用意する。
普段、ネガイがやっているドリップを見様見真似で実行してみる。
「いい香りだな」
「‥‥はい」
喧騒が消えた部屋には、コーヒーの香りだけが立ち込めている。
彼女が個人的に選んだブレンドらしくインスタントでは醸し出せない香りがする。
そうか。ネガイがコーヒーばかり飲んでるのは、心を落ち着かせる為でもあった――――毎日、あの激情に耐えているとしたら、並みの精神力ではない。
「ありがとう、ございます‥‥」
コーヒーを入れた熱い紙コップを、両手で受け取らせる。
先程、蹴飛ばされた椅子を拾って、普段ネガイが座っているデスクの前に座る。いつもと逆となった。
「‥‥」
「‥‥」
二人、無言で飲み続ける。暗い彼女を慰める世間話の一つでもするべきかと考えたが、そういうのは求めていないと思った。こうやってただ側にいるだけしか出来ない。目を使わなくても、これはわかった。
「‥‥ごめんなさい」
またあれを見せたのが自分でも相当ショックだったようで、殆ど声を出せないで、泣きながらコーヒーを飲み続けていた。
「ごめんなさい‥‥」
「誰だって好きにどこかに行く権利はあるだろう。ネガイは悪くないに決まってる」
「ありがとう‥‥でも違うんです。私はただの我侭なのに‥‥私はここを出たいって、そうしたらあなたは‥‥あなたは―――」
「いいよ、俺だってただの我侭だ。それにネガイがここから出られるなら、俺もここから出れるって事だ。俺はネガイに感謝してるし、契約もある。だったら俺はそれを守る、それだけだ」
数少ない目を診れる術者。現段階かつ現状では、三日に一度はネガイからの施術を受けないと、目を御せなくなる。
「それに、前にも言っただろう。目を完全に支配出来れば、こんなに短いスパンで診て貰う必要はなくなるって。本当なら今すぐ焦点を合わせてもいい筈だろう?でも―――ネガイは俺からの依頼を守ってくれてる。俺が弱いから」
焦点を合わせる、それはこの目と向き合う意味。どちらが主人か、目と俺で主導権を決める争い。それをするには今の俺では弱すぎる。
――――「その目は生きています」、ネガイに初めて目を見せた時に言われた言葉だ。最初は何のことかわからなかった。でも、全く理解出来なかったわけじゃない、寧ろ納得してしまった。
この目は俺の意思に関係なく、俺とは違う意識を持っている。
彼女にそう言われて、疑いが確信に変わった。
「あなたの目は、まだ繭の状態なんです。最初のうちは宿主である貴方が死なないように目から力を引き出せる、貴方にとっての障害を打破する為の臓器。心臓が三つあるって言っても良いと思います」
三位一体。回回教の教え、トリニティ実験としか知っていなかった。
別に俺の中に神が宿ってるとかじゃない、そもそも三位一体など聖書に出てこないらしい。
「でも、‥‥その目はあなたを蝕んで行きます‥‥。思想や思考を、そして心臓も、いずれあなたはあなたではなくなる。そうなりたくない‥‥目を眠らせる方法を探すそれがあなたの依頼だったはずです。契約、破る気ですか?」
調子が戻ってきた。少しは落ち着いてきたか。
「わかってるよ。でもそれが無理だと判断したら目の主になる方法を探す、こうも言っただろう?」
楽観的だと思われたのか、目頭を抑えながら首を横に振ってきた。
「変わりましたね。目が怖いから助けてくれって泣きついてきた人と同一人物とは思えません」
バツが悪くて苦笑してしまう。あの時の俺を思い出すと顔が熱くなる。
「それに、忘れてませんよね?本当にその目と向き合うなら多くの経験が必要になります。あなたより強い人をその目で捉えて目を養う。目で死ぬか、人と殺し合って死ぬか。そんなに死にたいんですか?」
「死にたいわけじゃない。だけど、これを放っておいても俺は死ぬんだ。そうだろう?」
目に心臓を奪われる。
これはネガイから言われる前から頭のどこかでわかっていた事で、そんなに驚かなかった。だが、思考や思想を奪われるという現実は一時期、その恐怖を痛いほど理解した。もうあの時には戻りたくない。
諦めながら受け入れているように感じる、だから彼女の「あなたは目に殺されます。」という突飛な話をそのまま信じてしまっている。
だが、彼女曰く決して珍しい事でもないらしい。特別な目を持っている人間は目によって苦痛を受ける、目によって生死の境を漂う事は寧ろ多い。
中には扱いきれない目を摘出する人もいるにはいるらしい。
そんな中で彼女の提案が目を常時眠らせて無力化し、最終目標に完全に目の力を消し去る事。その見返りに俺は彼女をここから出す。
それが俺達の契約の一つ。
「忘れてるわけじゃない。ただ、俺は‥‥」
「もしかして、目が惜しいって考えてるんですか?」
心臓が一瞬だけ跳ね上がった。
「もし、それが私の為ならやめて下さい。私はここから出られればいいんです。その後は自分でどうとでもなります」
「それはあれだ、自意識過剰だ。俺はそんな聖人君子になれない。‥‥もういい時間だ、そろそろ帰るぞ」
窓から外を、空を見ると想像以上に長い時間話し込んでいたようだ。
外は文字通りに、夜の帳が降りて街灯以外の明かりが完全に消えていた。ずっとこの部屋にいたのも理由だが、ここは治療や入院を主目的にした棟なので夜でも常に生徒や指導教員がいる。だから完全消灯はない為、時間に気づかなかったようだ。
「そう‥‥ですね。少し待って下さい、今片付けます」
アームレンズとPCの電源、コーヒーに使った機材などを片し、部屋を出る。
棟を出て真っ直ぐに生徒駐車場へ足を向けるが、話しかけてこないのに当然のように後ろを付いて来る。やはり今日も後ろに乗るつもりらしい。
まだ五月の為一律冬服、ブレザーのポケットに入っている鍵を確認しながら校舎の裏を通る。救護棟から生徒駐車場は距離があった。
そもそも救護棟は本校舎からかなり遠く、喧騒から離れるように建てられている。
また生徒駐車場もそれぞれの校舎から離れるようにある為、学校の敷地でもあるのに歩いて向かうだけで、かなりかかる。
それなのにネガイは結構の頻度でバイクに二人乗りをしてくる。
学校の敷地だというのに、今歩き続けている道は木々に囲まれ、事実上の森となっていた。あらゆる棟—――整備棟、実験棟、射撃棟の裏を突き抜けるように作られた道には、街灯がぽつぽつとある程度。当然、森全体を照らし出すには到底足りない光量はただただ頼りなかった。
一応救護棟にも駐車場はあるにはあるが、それは緊急車両が使う為、場所を開けて置かねばならい。
そんな夜道を突き進み、駐車場も近くになった所で話しかけてみる。
「なぁ、いいか?」
「‥‥」
無言だが悪い空気ではないので、このまま続ける事にした。立ち止まり後ろへ振り返りながら、周りに他の生徒の姿が無い事を確認する。
「ここを出たらどうする気だ?」
「オーダーは続けます。私にとってこの資格は生きる為に必須ですから」
前にも同じ事を言われた。ここを出れるようになってもオーダーは続ける、ここは出たい場所でもあるけど、同時に居場所でもある。彼女にとって、今の状況は首輪を付けられていると言ってもいいのかもしれない。
彼女に許されている移動場所は、この学校と寮ぐらいのもの。だからこそ、
「そうじゃない」
少しイラッとしたため強めに否定した。それが不意打ちだったのかネガイはビクリとして混乱した目を向けてくる。
「えっ、どういう意味ですか?」
「え、じゃないだろう。ここを出られたらどこに行きたい?って聞いてんだよ。連れて行ってやるよ。前にどこかの写真をネットで見てただろう―――どこに行きたいんだ?」
「いいんですか?ほんとに‥‥」
ビクビクしながら不安そうに聞いてくるが、契約した時から言うと決めていた。
「もう散々後ろに乗せてるんだから、今更だろ。もし思い付かないんだったら考えとけよ」
暗い夜道の影が、ネガイの笑顔を恐れて消えていく。卑怯だ、そう思ってしまう程の本当の美人だ。揶揄ではない、本当に光り輝いているように見える。
「わかりました、考えておきます。ふふ、あなたも私を後ろに乗せて外を走れる事を光栄に思っておいて下さいね。誰よりも自慢できますよ」
機嫌が完全に治ったらしい。いつものわがまま度が復活したから。
「よし、それじゃあ―――」
その時、ネガイの瞳が開かれ足払いを掛けてきた―――だがそれはいつものお仕置きではない、緊急に頭を下げる必要がある時だけ使う誘導だった。
俺の足を払いながら、ネガイも一緒に倒れるように体勢を低くする。俺は首を全力で振って、上と背後を見るよう倒れながら誘導に従う。
倒れながら――――ついさっきまで首があった場所を一拍遅れて小さい黒い影のようなものが飛んでくるのを、視界の隅に収める。
二人で倒れながら俺にとっての前を、ネガイにとっての後ろを―――それぞれ前転後転をし、地面に片膝付きながら影が飛んで来た方向へ懐から出したS&W M&P、ネガイのsig proを向ける。
「‥‥っ」
しくじった―――ここには遮蔽物がない。
周りには街灯ぐらいしかない。それどころか飛んできた方を見ると襲撃者がいる筈なのに何も見えない。ネガイへ目配せだけをして、目を少し使う。
暗い事には変わりないが、それで襲撃者の輪郭がやっとわかった。
敵は俺達から見て右手側、道から外れ木々に隠れるように―――黒い布のような物を被って立っている。
あれはなんだ?長い黒いローブなのか?シスター服と言われれば納得しそうだが、やはり頭の上から黒いシーツを被っていると感じる。
それに、布で体格がわからない―――背も誤魔化してるかもしれない。顔も完全に隠した姿。手も袖が長すぎて全く見えない。
だが、持っているものは見えた。刃物だ。
「あれを投げたのか‥‥」
クラウディス。ローマの剣闘士や戦争で使われていたような分厚い、ナイフと比べなくてもわかる長大な刃渡りを持った剣だった。どう見ても投げるには不都合だ。
エジプトあたりの曲剣コピシュだったら投げるらしいが、眼前の刃を投げるとは思えない。
剣には装飾もない、実用的ではあるが時代錯誤な武器だ。俺の目線で位置がわかったようで、ネガイもおぼろげながら敵が見えたようだった。
「飛ばしてきたのは、あれではありません」
予想通り違った。後ろに振り返って飛んできたものを見たいが、目を離せない。
「なんのつもりだ!喧嘩でも吹っかけてきたつもりか!」
「‥‥」
無言でクラウディスを上げて、こちらに向けてくる。街灯に照らされた刃が美しく輝く、まだ確証はないが十中八九—―真剣だ。
「今すぐ顔を見せて武器を捨てろ!さもないと発砲する!」
警告の為にそう宣言するが、襲撃者は聴こえてないのか、挑発のつもりか木々の間からクラウディスを向けたまま道に出てきた。
ネガイは今ので完全に臨戦態勢に入った。殺す事は許されない、だから狙いはクラディウス。武器を破壊するか武器を弾き飛ばす。
「チッ‥‥!やりにくいですね‥‥」
布を頭から足の先まで被っている所為で、手元が見えない。
どこからどこまでが腕か予想は出来ても判断が出来ない。
もしかしたらあの布で手に武器を結んでいるのかもしれない。もしかしたら柄の部分が見えてないが、本当は槍のように長いのかもしれない。
いっそのこと布に防弾性があれば容赦なくネガイは撃つだろうが、もしなかった場合の為—――クラウディスに向かって撃つしかなかった。
「警告に耳を貸さない以上、お前は無力化しなければならない!武器の投擲による傷害未遂に銃刀法違反、そして校内への不法侵入でお前を逮捕、抵抗するなら制圧させて貰う!武器を捨てろ!繰り返す!武器を捨てろ!」
オーダーの宣告。オーダーを学校内するとは思わなかった。
必要な形式として、武力解除を命令するが聞く耳を持ってない布は、ジリジリと迫ってきた。
「もういいです。やりましょう制圧です」
ネガイの声に寒気を感じる、恐ろしい程、淡々と冷静に言ってくる。だが、ネガイは焦っているのか、やけに早い段階でそう言ってきた。
「わかった。だけどセオリー通りだ‥‥」
ツーマンセルで一人を無力化する方法は、単純に挟み撃ち。銃口を敵から離さないで円を描くように動くふたりで、間合いを造り出す。
射線にお互いは入らない場所で、ふたりの射線の中心に敵を置くように誘い込む―――十字掃射の構え。
セオリー通りの十字中心点—―――直前に、布はクラウディスを俺達が元いた場所に向けたまま、動かなくなった。
「始めましょう‥‥」
その声に頷き、少し早いが制圧最終段階を開始する。
本来ならここで武器を捨てて跪き、両手を上げろって言うところだが、もう襲撃者は殺す気で武器を放ってきた。優しくする必要はない。
「そのまま動かないで下さい。でないと撃ちます」
これから距離を詰める為にネガイが一言警告する。あとは後頭部などの急所への一撃と手錠をかける――――それで終わりのだった、
「避けて!」
襲撃者が前触れもなくクラウディスを投擲、俺の胸辺りに突き刺そうとしてきた。
僅かな布の動きで腕が動くとわかったのか、ネガイの言葉で身を翻して転びながら避け、後転—――同時に銃声が響いた。ネガイのsig proの音だった。
一旦距離を取り、後転が終わった瞬間にM&Pを向けるが、
「これは―――」
布がネガイの両腕に飛びつき纏わり付いて、銃口を空に向けさせていた。当のネガイも何が起こっているのかわからず、思考が一旦停止してしまっていた。
距離にしてまだ10メートルはあった―――布は自身の一部を、その距離を無視してネガイの腕に飛ばして、締め上げていた。
長い腕を使ってネガイの銃を無効化していた。
「逃げろ!」
客観視している俺の方が先に我に返り叫ぶ―――けれど、抵抗しようにも腕をきつく縛り上げられているようで全く逃れられない。それどころか振り回されるように布の方へと引きずられ、すぐ近くに引き寄せられる。
遂には吊り上げられてネガイの足が浮き、完全に自力では動けなくなる。
ネガイが足で布を蹴り上げるが全く効いていない、表面が動きはするがダメージを与えている様子がない。
「撃てない‥‥」
今、俺の射線上に布、ネガイがいる。ここで撃てばネガイに当たる。だたでさえ原型が見えない『布』に撃ったら、そのまま通り抜けてしまうと考えてしまった――。
しかも、俺が撃とうとしたと考えたのか。
布はネガイの盾にした。振り回され手首の骨に負荷がかかったネガイは苦痛の表情を浮かべる。自力で脱出する為、掴んでいる布に足をかけて逆上がりをしようとするが、それを見越し――――ネガイを振り回す。
移動して射線からネガイを外そうとしても更に振り回し、更に盾にする。移動すればするほどに苦痛を与え続けてしまい、その顔を見たら足が止まってしまった。
限界だとネガイの顔付きでわかった。
歯を食いしばり、手首の骨が擦り合わされる激痛に耐えている。だというのに―――布の正体がわからない。人間かどうかも。
人以外の襲撃、野生生物の対応方はある程度習ったが、これはそもそも生きているのかさえわからない。
銃も刃物も使えない。暗闇で布との間合いを見極めなければ、ネガイにも―――。
考えている間もネガイは振り回されている。逃げようと蹴りを続けているが威力が目に見えて下がっていた――――手首の、動脈の血流が止まっている。
それに気づきネガイの手を見ると―――もう白ではなく青に変色していた。
さっきまで俺の目を暖めてくれていた手が。
大人しくなったネガイを確認してから、布は背中から何かを取り出した。
「—――殺す気ですか‥‥」
一瞬俺には何か分からなかった‥‥だが、街灯に照らされて分かった。短刀だ。
それはオーダーで市販されている得物より長くて、刃が黒く染められている。それを認識してようやく理解した―――そのままネガイの腹を刺すと。
頭に浮かぶ。
吊り上げられたまま腹を刺され、制服を血に染めて白く青くなっていく顔を――。
「舐めないで、貰えますか‥‥私もオーダーです、刺される覚悟ぐらいあります‥‥」
自力で避ける事さえ出来なくなったネガイが、布の操られるままとなった。
殺される―――だから使う。覚悟してしまった時には、もう止められなかった。息を呑み、心臓から両目に血が通る様子を想像する。
「決めたぞ―――おまえが目の餌だ―――」
声が聞こえたネガイが首だけで振り向いた―――もう遅い。
自分の意思で焦点を合わせ第二第三の心臓を動かす。一息で世界が変わっていく―――今まで頭を縛っていたものが解かれ、思考が解放される。
人はものを見る時、両目を使う。両目に入ってきた情報をクロスさせて色や距離をはかる。今まではネガイによってそれを敢えて外し、目を誤認させていた。だけど水晶体を血流を使って毛様体、毛様体小帯の血管を通してネガイから許された限度を超える。
焦点を合わせて、 あの布切れを見通す。
血が頭を駆け巡り全てが目に集まる。
目の表面を血が蠢めいていく。目では足りず耳にも血流の音が聴こえてくる。長く使えば、血が他の臓器に届かなくなり壊死する可能性もあるとネガイは言っていた。
だからなんだ?もはや遅い―――使う、使うと決めた。
眼球が血で染まる。視界の大半が血で見えなくなる。だけどまだ敵が見えるネガイが見える。それだけで充分—――。
「待ってろ‥‥」
右目を使う。
自分の外、今起こっている状況を常時視覚でデータとして引き込み、布の攻撃範囲、攻撃手段を予想する。
左目を使い、右目で得た情報を元に自分の内側を支配し、布とネガイ間に割って入るために必要な脚力、手の拘束を外しネガイを解放するために現時点で俺に行える方法を仮想、仮定、脳内でシュミレート—―――それら形而上の力を形にする命令を下し現実に出力―――実行に移す。
これらの下地の血液操作。これが本来の心臓の力。鼓動を操作して臓器や筋肉に血を通して機能を一時的に向上、下降させる。
一度命令し実行に移せば、後は体がほとんど自動的に動いてしまう。だが、状況は常に変わるため無意識では行えない。
危険な動きで体が悲鳴を、脳が危険信号を出そうが動いてしまう。
強制的に筋肉に血を通して瞬く間に膨れ上がると、体の中の内臓を圧迫、本来向かう筈の血が詰まる。
1秒毎に酷い筋肉痛と足りない血を流せと脳が命令して酸素が足りなくなる――――だが、それらの命令や危険信号を全て焼き捨てる。
最速で目的地に向かう為に、必要な体勢の角度をつける命令を足に下す。
―――見えるのは舞い上がる埃、火花を散らす刃、切り裂かれる布の一本一本。
そして、切り裂かれる己が身を見た布がようやくこちらに振り返った。
ようやく、この布は俺を敵だと認識した。
両方使える時間は数秒。
自力で血を目に集めている時のみだった。よって時間を無駄には出来なかった。
「使いましたね。仕方ない人ですね‥‥」
「ごめんな‥‥」
顔に何かが垂れて伝る‥‥血涙だ。もう限界だった―――。
吊り上げられていたネガイを後ろから左手で抱きしめて、身の乗り出し場所を交代する―――移動中に手に持った自分のククリを下段から振り上げて迫っていた短刀の角度を弾いて変え、その勢いのまま拘束しているネガイの手首辺りの布を切り裂いて救出し抱える。
そしてククリを逆手に握り直し―――胴を振り下ろし気味に一閃、その勢いで一気に滑りながら身を翻して離れる。
その動きの代償として―――ククリはあっさりと折れた。
一瞬で終わらせたが、もう限界だ。今のでかなりの血を代償に目に願ってしまった。目に血を捧げてしまった。
ただ手首を、ククリで傷つけない—―――布だけを切り捨てるだけで。
布自身もネガイ自身も無意識で動いてしまう、それを見越し更に右目を用いて一刻一刻と変わる状況を確認し、左目を稼働させて自身の手を完全にコントロールする。
絶対に失敗出来ない重要臓器の手術の過程でメスを使い、悪性腫瘍付近の血管を傷をつけないように切除する感覚。
それを一秒にも満たない時間で行う。
お陰で手の毛細血管の多く切れたらしく手首が真っ赤に腫れ上がっていた。
代償は大きい、戦場でもう戦えない俺はネガイにとって荷物だ―――だが、わかった事がある、あの布は自分で強度を変化出来ると。
しかも、それを行うには時間をかけて意識を向ける必要がある。
ネガイを捕まえながら蹴りを受けてもビクともしなかった。捕獲と蹴りの防御は同時に出来る。
だが、刃物の防御と捕獲は同時には出来ない。本来なら両方出来るのかもしれないが―――――刃物の防御には一瞬だが時間が必要。
そして、ネガイの弾丸を撃つ腕を邪魔した。
つまり弾丸は防御出来ない可能性がある。
「何が、見えましたか?」
数分とはいえ、動脈が完全に絞められていた顔は白かった。手に血液を差す為に拳を作っているが、操り切れない指が痺れて震えている。
気丈に振る舞おうとしているが、おもちゃのように振り回され、三半規管が狂って視線が傾いていた。
お互い限界であり、満身創痍なのは変わらない。けれど、自分が最後に出来る事は、ネガイを抱えたまま布へと振り返る事だけだった。
立場が変わった—――今度は布が攻めあぐねいて距離を取っていた。
「あれは布じゃない‥‥」
理由はククリナイフの手応えだった。
救出した時の事、初撃は滑らかな荒縄といった強度であったが、一瞬で手応えが切り替わった―――鋼鉄で作られた幾本ものワイヤーに当てた手応えと変わった。
刃物で救出する為と、一気に間合いから離脱する目的で刺さないで大きく振った事で、感じ取れた。布の用途モードを変えたのだと、今なら分かる。
その上、二撃目の手応えは、あまりにも違った――――ククリの刃が繊維を切り裂かないで布に沿って滑ったのだから。あれは、ただの布ではない。
「見た目は繊維を編んだマント、だけどあれは真っ直ぐな糸の集まり髪の毛に近い」
視界の血が晴れない。色彩感覚が狂ってきた、街灯も布もネガイも赤く染まって見える。だけど今なら見える、一連の奴の姿を目に取り込み頭の中で再生する。
そして、改めて理解した。
髪の毛が靡くような一本一本の線が、段々と街灯に照らされているのを。
「必要に応じて硬度を変えられる―――ER流体に近いものかもしれませんね」
ある程度復帰してきたから離せと、胸を手で押して来る。それに従ってを下す。
「完璧な防弾防刃性ではないようですね。つまりは、点の貫通は防げない―――」
呟いたネガイは自分の刃物、短めの十字エストックを背中とスカートの裏側から左手で取り出す。布がそれの認識した時、一歩—――下がった。
仮にあのマントがセラミックやスペクトラ、ケブラーの防弾防刃性だったとしても銃弾以上の重量を持った、鋼で造られているエストックは防げない。
例えあれが自衛隊で使われているジェラルミンの盾でも容赦なく貫く。重量がある貫通力を主目的にした武器はそれ程までに、恐ろしい。
「もうあなたの間合いは知れました。覚悟して避けて下さい、動脈に刺さらないように」
右足を前にした前傾姿勢。エストックを自分の顔の位置まで上げ、切っ先を布に向けた―――仕留める構えその動作には、何者も割り込めない。
ほんの一息、その時間を許してしまった。それを後悔する間の与えず、踏み出す。
一歩目は水平に飛ぶように軽やかに、だが二歩目に足を伸ばした瞬間—―――足音を残して影すら消える。
縮地、元の故事によれば土地自体を縮めて距離を詰める、仙術。
そして、彼女の動きは仙術だと言われれば信じてしまうほどの、瞬間移動。
突然現れた場所は、捕まった距離より更に接近して肉薄。布のほとんど懐の中。
その手にはエストック、姿勢はフェンシングの選手に近いかもしれないが、それよりも低い姿勢。狙いは喉、完全に殺す気だった。
ネガイがいた空間を地球の公転によって世界が移動させた。そう説明されれば万人が納得しそうな程の歩法。
けれど、布の動体視力も人間離れしたものだった。一瞬で状況を理解し、頭を捻りネガイの一撃を避ける。
「いい判断です。殺す気で狙いましたから」
楽しそうなネガイの言葉と笑顔、それを見た瞬間、布は更に動く。
足と腰を使い、顔を背けずに後ろに飛んで転びながら、アスファルトでも構わずに肩と顔の側面を使って受け身を取る。続け様に林の中に突っ込んで、更に後ろに逃げ―――体を横にして転がり、木に背中をぶつけて強引に止まる。
「でも、一手私が上手でした。逃げようとする人はいくらでもいますから」
布の顔であろう部分にエストックを向けているネガイが、既にいた。距離にして軽く20メートル、全力で逃げた布を追い抜いて先に林の中に着いていた。
「—――俺の見様見真似じゃ‥‥届かない」
救出時の動きはネガイを真似た物、だから察してしまう。アレになろうとしてはいけない。決して届かないから、と。
ただ足が早いという理由ではないのは明白だった。相手の思考を推察、目的を想像し、相手が最も考えそうな行動を予想する。
少なくとも今ネガイが言った、一手など当然に予想していただろう。
「あなたには黙秘権があります。だから大人しくして下さい、これ以上公務執行妨害を取られたくないでしょう?」
エストックを向けられ、数秒まで絶対的有利にいた布が全く動けずにいた。
理解したのだろう。
少しでも抵抗しようものならネガイは、躊躇なく刺すと――――。
「そのマントを脱いで両腕を出しなさい。それともそのマントはあなたの文化、誇りなのですか?だとしたら謝っておきます。あなたのアイデンティティを差別、非難するつもりはありませんでした」
最後通告として相手の権利を話す、あとは手錠をかけて然るべき組織、この場合はオーダー本部か法務科へもしくは双方に連絡するだけ。
終わった、そう思って気が緩んだ。
「血が―――苦しい‥‥」
血液をコントロール出来なくなった。そのせいで両目を使った事への代償により、視界ひかりを奪われる。同時に心臓の鼓動が止まらない所為で、息が出来ない。
突き刺されるような痛みが、頭を駆け巡る。
前屈みになり、意味もないのに手を心臓に当てて、立ち上がろうと、抵抗しようとしてしまう。
「ここで、倒れられない‥‥。まだオーダーに‥‥連絡を‥‥」
今の有利な状況は俺が常にあの動きを、かつネガイが迷わずに刺せるという立場があって、ようやく成り立つ。
だが俺達は現在満身創痍、俺は目が見えなく今すぐ倒れかねない、ネガイも気取られないないようにしているが、まだ血が巡りきっていなくて肩で息をしている。
もう縮地は使えないであろう。
急いでポケットから救助要請機を手の感覚だよりに引っ張り出すが、握力が抜けてポケットの底に落としてしまい、肺の空気を変えられなくて酸欠になり体勢を維持出来ない。
爪が割れる勢いで指をボタンに突き刺し、電子音がオーダーに通信成功したと知らせてくる。
息をする間もなく電子音を聞きながら――――意識を手放した。




