隠者の竜4
男は動けなかった。
恐怖は感じてはいない。ただ、目の前の存在の迫力に圧倒されていた。
大きな竜だ。自分一人くらい軽々とその鋭い牙と爪で引き裂けそうなほどに。
そして自分一人くらいなら、易々とその背に乗せて飛べそうなほどに。
しかし、竜は負傷していた。もうかなり古い傷であろうが、両目が塞がっていた。
両目があった部分に刻まれた裂傷の跡が何か遺跡のように見える。
遺跡。そう、竜はおそらくかなり老齢なのだろう。その大きな体躯を覆う鱗は、かつては知らないが
今は艶もなく色褪せてきている。それでもその竜としての威圧感はかなりのものだけど。
男は黙って竜が水を飲むのを眺めていた。すると、喉を潤し終えた竜が、水面から顔を上げ、
鼻を動かしながら顔をこちらへと向けた。
「これは珍しい」
喋った・・・。
その事実に単純に驚く。なんと竜は人語を話すことができるのか。いや、竜と人の言語がたまたま同じなのだろうか。どちらにせよ、竜と人は会話ができるのだ。
不思議な感動を感じている間に、竜が一歩、こちらへと近づいた。
竜が地面を踏みしめた衝撃で、男の身体が軽く揺れる。
「何とも珍しい。ここで人間に出会うとは。一体いつ振りのことか。本当に珍しい」
近づいてきた竜の鼻先が、男の眼前に迫る。
竜は鼻を動かして、匂いを嗅いでいる。どうやら目が不自由な代わりを鼻や他の器官で補っている様子だった。
「人間の男・・・。兵士、か?血の匂い、がするな。まだこちらの世界は戦争をしていると、見える」
どうして匂いだけでそんなことがわかるのか。男は素直に驚き、それをそのまま口にした。
「すごいな・・・。竜というものは、人より五感が優れているのだな」
男の言葉に、竜はピタリと動きを止め、少し首を引いて男の顔をまじまじと見た。いや、正確には
見たように見えた。
「はっはっはっは!」
そして、その敏感な鼻から盛大に息を吐き出して、笑った。その鼻息の風圧で、男はよろめく。
「人間に会うのも珍しいのに、お前は何とも珍しい男だな。この、俺の姿を見て、ここまで近づいていて、
よくそんな間の抜けたことを・・・!面白い!実に面白い!」
竜は男に興味を持ったのか。まるで見えているかのように男に向き合い、さらに話す。
「何故お前は、こんな場所へとやって来たのだ?戦の途中ではぐれたのか?」
男は全部話した。話していくうちに、胸の内が少し軽くなった気がした。
それは、溜まりに溜まっていた嘆きや憤りややるせなさや、誰にも自分の気持ちを吐露することができずに
我慢していた間に固まってしまった何かが、ほぐれて柔らかくなった感覚。
自分でも驚くほどに饒舌になりながら、男は竜にこれまでの経緯を話した。
竜は黙って男の話を聞き、そして尋ねた。
「では、お前は俺を捕らえるのか?捕らえて国王とやらに、俺をつきだすのか?」
男の返答は速かった。
「いや。俺はもう国に帰る気はない。正直、俺にお前が捕らえられるとも思えない。だから」
「だから?」
「だから、お前がこの辺りに詳しいのなら、どこか寝起きができるような場所を知らないか?
知っているなら教えてほしい。俺はただ、体を横にしてゆっくりと休めたらそれでいい」
そう言った男の顔を、竜はじっと見つめた。見えるはずのない両眼で。少しの間、そうしていた竜は
また、愉快そうに鼻息荒く笑った。
「はっはっはっは!お前は実に興味深い人間だ。兵士なら持っているはずの功名心や欲がなく、
ただ心底、休みたいだけなのだな・・・!はっはっは!!いいぞ、少し行った先に雨風をしのげそうな
洞穴がある。そこへお前を案内しよう」
そう告げて、竜はズシン、と体の向きを変え、男について来いと促すようにゆっくりと歩き出した。
確かに、俺は変わっているのかもしれない。竜などという空想上の生き物だと思っていたものを目の当たりにして、感覚が麻痺しているのかもしれない。
でも、それならそれで何も困らない。それならそれで、いいと思った。
自分の世界が変わるのなんて、こうした風に、いきなりで、でもさりげなくて、一瞬のことなのかもしれない。
男はしかし、己を取り巻く世界がほんの数時間前とは全く変わったことなど気づかず、地面と空気を揺らして歩く竜の後ろをついていった。