才媛
「トートさん、もう朝でしてよ!」
粗末な布団をひっくり返されると、彼――――――トートがふげ、と情けない声を上げて床とキスをした。
わざとらしく鼻を擦りながらトートは彼女の顔を見る。どうやら彼は随分寝ていたのか、表情はだいぶ険しい。これは三度ほど起こそうとしたぐらいだと経験則で判断しながら、また布団を引っ張り上げて自分から簀巻きになってしまう。
「いつも朝早いね~、じゃあ私は寝るから朝御飯は自分で適当に――――――」
「起きてください、次はありませんから」
冷ややかな声に今は久しい死の予感。白すぎる顔を更に青くしながら飛び起きる。
よろよろとまるで酔っぱらいのような覚束ない足取りで机に向かう、八年前とは大違いの手入れの行き届いた床にまた不思議そうな顔付きになる。
「いや~、私は此処までやって欲しかった訳では無いんだけどね…………」
「トートさんがいっつも酷いお部屋で生活しているのがおかしいんです! 根を張っている木の皆さんにも迷惑ですのよ!」
にょろにょろ、とリリィの頬の側まで伸びてきた根がサムズアップの形を作る。どうやらトートのだだ漏れの魔力に当てられて魔物に近い性質を持ったらしいが、今ではすっかりリリィの味方である。彼に逃げ場など無い。
綺麗な木の皿に、程よく火の通ったパン。彼女が墓地で始めてしまった家庭菜園製のサラダに、コーンスープまでついている。彼は正直食事など無くても問題ない身の上だが、半ば無理やり毎朝食べさせられる始末である。
「君はてっきり多少のことは我慢して魔法を教われるような、そういう強い女の子だと思ってたんだ」
早速パンをちぎって齧ると、呑み込んだ後に大きな溜息。
「強すぎだ。全部自力で改善してしまうと来たんだから…………ああ、私の薄汚く、じめじめとして、心地よい我が家は何処へ…………」
「変な事を仰る方ね、私は普通の女の子ですのに」
――普通の女の子は魔法を教わりに押しかけてこないし、持ち主より家の衛生環境に気を配ってお説教したりしないんだよ?
言ったらまたお説教が始まる、とすぐさま口を閉じて朝食に耽ることにする。
さて。リリィが噂を聞きつけトートに弟子入りし、中途半端に達成したあの日から八年後。
立場はほぼ逆転していた。今後トートが女性を自分の近辺に置くかと言うと、多分彼の心情的にはリリィで手一杯だ。
【そうか、また彼は夜中までふらふらとほっつき歩いておったのか。馬鹿だな、ワシが言わねば体調管理も出来ん】
「本当です。トートさんが此処まで魔法以外で頼りないとは私も思い至りませんでしたわ」
老樹に手を当てて悩ましげに頭を抱えるリリィを他所に、トートは命じられるままに家庭菜園に水をやっていた。ちゃんと墓石を取り壊さないように場所を確保しているから少々いびつで、水やりはちょっと面倒くさい。
――気づいたら『彼女』とも喋れるようになってるんだからおっかないなあ。私の過去をべらべらと喋っていないと良いのだけど。
別にリリィの会話能力については彼は関知していない。本当に知らない間に喋るようになっていたのだ。
長い間思案にふけって手の止まっていたトートだったが、意を決したように彼女に向かって声を張る。
「…………やっぱり君は魔法に近すぎる! 手筈は何とかするから街に帰りなさい、あの街は駄目でも遠い所なら君は生きていけるよ!」
「変な事を仰っている暇が有ったらお水をあげてくださいね?」
「は、はい…………」
――どうしてこんな事に。
完璧に服従する姿勢が身についてしまっている彼は言い返せなくなってしまった。しょぼくれた様子でしゃがみ込みながら水をやるなり、新芽と会話を始める。
一方、リリィも世間話をしていた訳ではない。
というのも未だに語られていない空白の八年についてだが、トートは一度も魔法は教えていない。
【それで、やっぱり彼は教えないか】
「ええ、全く」
リリィはともかく、『彼女』――――本人曰くスプラウトと言うそうだが、彼女の声はトートには届いていない。
どうやら二人の会話方式というのは別物らしい。トートのそれは意識を繋いでいるものに近く、要するに「共有」。
リリィのそれは「対話」、本来此方こそが魔法使いとして妥当だそうだ。あくまでスプラウトがトートから教えられたことでは有るが。
――じゃあ彼は、一体何なのでしょう?
決してリリィはトートを咎めようとは思わない。だが、事実が気になるだけ。自らの経験で真実を知らないと満足しない質なのだ。
【ワシはあれの魔法を根が腐り落ちるかというほど目にしておるが、やはりお主がワシに伝えるものとは別物だ。それは薬学に近く、要するに偏っている】
「言いたいことは分かりますわ。彼は『私は六百年を生きているんだ。どれだけ掛かってあそこに到達したか、というのはまあ分かって欲しい』と言って掛かった年数すら教えてくれませんもの」
ほう、とスプラウトは考え込むような唸り声を出す。
とはいえ彼女も鳥から又聞きしたものも含めばある程度博識であるとは言え、魔法についての知識はトートがぼやいたものばかりのあやふやな形だ。実際のところ彼がどうやって、何を以て魔法を行使しているかははっきりと分かっていない。
リリィも顎に手を当てて一頻り唸っていたが、ダメそうだと分かると諦めてにへらと気の抜けた笑いをする。
「とはいえトートさんがただイジワルをする方にも見えませんし、根気強く待ってみることにします」
【気の有る男だからと言ってあんまり警戒せんのもワシには危うく映るなあ】
途端に陶磁の肌が真っ赤になる。苫東のように茹で上がったリリィにかたかたとスプラウトが大笑いする。
【あれは難しいぞぉ? いや、男の趣味ははっきり言ってワシも分からん故。其処はどうこう言わぬがなあ…………】
「そ、そういうのじゃありませんからね!?」
【いや、同棲してる時点で言い訳できる要素が見つからんと思うのだが?】
「彼がそうして欲しいと仰ったんですから!?」
――いや、今街に戻れと言われておったろうに。
あんまりにも前後の滅茶苦茶な言い訳に苦笑すると、リリィは拗ねたようにスプラウトから手を離してしまった。
「今度は火の担当まで精霊かい? 敵わないなあ、君には」
子供のような、長さでは言えば人差し指ほどの小人。紅く燃えるような姿をした其れとにこにこと会話をすると、小人がフライパンの下に火を噴き出す。背丈の数倍は有る大きな火だが、リリィが注意をするとすぐに火の勢いが弱くなる。
――待っておくれ。というかまた素通りしそうだったけど、私は召喚なんて教えてないよね。
通り過ぎそうになった台所に早足で戻ると、トートは何とも言えない引きつった笑いでリリィに尋ねる。
「あの、リリィ? 私、召喚の方法なんて全く教えてないよね?」
「え? 最近彼らの方から話しかけてくるようになったのですが…………方法が違ったのかしら」
「違うどころじゃないんだけど」
――予想外すぎるよ、君は数百年に一度の大魔術師か何かの才能が有るとしか思えない。
魔法というのは一般的に実体を持たない精霊、思念の類に依代を作って扱う召喚。単純に運命や存在に影響を与える護符作成、唯の未来予知や未来決定に傾倒した占術。他には悪魔と呼ばれる存在を呼ぶ喚起。
これらが有る。これはあくまでトートの見たこと、もしくは触れたことの有るものと縛ればだが。
彼はこめかみを抑えて混乱した表情をする。
「確かに私は魔法に通念した理論をある程度君に教えたとも。応用すれば魔法の構築も可能だよ? だけど君は、それが何年も掛けて行われる『発明』と呼ぶに足るものか分かってるかい?」
それはまさに発明だ。幾ら基礎理論を理解しようが、それから魔法を寸分違わず間違いを起こさず。尚且つ再現性を持たせ。たった一度成功させるには、何年もの試行錯誤と研鑽は必要になる。
理論通りでも予期せぬ事態が失敗を招く。一つ間違えれば恐ろしいことが平然と起きる。その点、最近発展しつつ有るという「科学」と大層変わるものではないとトートは考えていた。
さもすればリリィの平然と行う「未完成の魔法」は世界を成り立たせる理論を破壊していると見えてしまう次元だ。世間の発明家がこんな荒唐無稽に発明をしていれば、他の凡才の科学の関係者は商売上がったりではなかろうか。
「発明はほんの少しと努力と偉大な閃きからなるものですわ」
「それはそうだけども…………」
――まるで偉人のようなことを。
とはいえトートにはその理由の検討はついている。早くなんとかせねばと急いでいる所もあった。
火の精霊の「依代」を彼が吹き消す。それは物体的なものと言うより、簡単に言えば「リリィが知覚し、そして『こういうものだ』と形作った仮初の概念」。もっと噛み砕けば、リリィの中での精霊の思い込みの形。
思い込みを魔法にする苦労がわかっていないリリィは、これを吹き消す偉業も理解できない。ぷんぷん、とでも言いそうな怒った様子でトートに詰め寄る。
「可哀相ですよ! 何をしていらっしゃるのですか!」
「お、怒らないで欲しいんだ。リリィはあまりこういう事をしない方が良い、これは私の老婆心から出てる助言だよ」
「魔法を使えるようになってはいけないのですか!?」
トートの鮮血色の瞳が咎めるような色を帯びる。リリィはぴくりと震えると背筋を伸ばした。
――あんまり怒るのは得意じゃないし、好きじゃないから辞めて欲しいんだけどね。
とはいえ感情を持つ相手同士の関わり合いには欠かせない要素になる。彼は諦めたように表情を切り替える。
「駄目だよ。私は正しく学び、理解された力を行使することにとやかくは言わない――――――――ただ、リリィのは有り余る才能を無闇に振り回す行為だ」
分かりにくいか、と自分の回りくどい言い方にトートは小さく自省すると言い直す。
「力のないひ弱な青年が剣を持って、戦場で偶々獅子奮迅の活躍をしていたとするね。彼は背も低く、頬は痩せさらばえる如何にも不健康な様子だ。正式な兵士だったら、リリィはどうする?」
それを想像するだけで彼女には答えがすぐに出たのだろう、少し義憤に駆られたような険しい顔付きになる。
「勿論止めます! いつ命を落としてもおかしく無いわ。何より秩序もない戦場で誇り有る死すら与えないだなんて、それは敵の方への最大の失礼ではなくて!?」
――そこまで掘り下げて論じるとは思わなかった。まあ、君はやっぱり私には扱いかねる善良な娘だね。
とはいえ今の話とも通じる所は有るし、真っ直ぐとした公平な価値観を持つリリィらしい回答に少しだけ柔和な笑顔を見せた。
だからこそ、と彼女の眉間に人差し指を押し当てる。不躾なぐらいに近くなった彼の顔は冷たく、また生気と人間味に欠ける。
逃げようとしても、あっという間に背中が壁とぶつかる。リリィは化物に魅入られたような恐怖と、その暴力的な美貌に感情を激しく揺さぶられていく。
気づけばトートを振り払おうとした右腕を、彼はそっと壁に抑えつけている。弱い力なのに抵抗が出来ない、本能が彼を恐れている。
「そうだね。分かっているということさ、君も」
「魔法も同じだよ、それは苦労を重ねた正しい魔法への立派な侮辱だ。そして同時に、無闇に才を振り翳すことは危険でもある――――――――分かったかい? リリィ・フォン・カラキア嬢」
彼の瞳は時折六芒星を映す。意味はないのだろうか、それはリリィにも分からない。
けれどそれは正しいし、彼女が失念していたことでも有った。怖気立つような冷える空気感に震えながら、リリィはそれでも真っ直ぐと言葉を返す。
「ごめんなさい…………そんなつもりではなくて」
「――――――ああ、やり過ぎた」
軽い足取りで彼が距離を取ると、何時も通り穏やかな表情を見せる。強張っていた身体が途端に荒い息で肩を上下させ始める。
「ごめんね。でも、大事なことだからちゃんと言わないといけなくて…………怖かったかい?」
「いえ、少し慣れてきました」
これは彼が本当に伝えるべき言葉を重ねるときだけの、奇妙な雰囲気だった。
――慣れている、というのは嘘ですけど。
それは恐らくトートも分かっている、慣れていれば手など出るはずもないから。
けれど此処はリリィの強がりと言うか、気遣いに乗っておこうとでも思ったのか。困ったように笑って
「そう言ってもらえると助かる」
と返すと、また部屋の奥へと歩いていってしまった。