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ペルセウス・エヴァンズ

作者: 岡華乃

人間に人間は、救えない。

皆から忌み嫌われていた男の、孤独とかなしみとは…?

 まだ馬場千紗季が、看護大学の1年生の時である。初めての病棟実習。無事に午前が終わり、昼食から戻った時であった。ナースステーションに彼女の指導者である看護師が見当たらなかったので、千紗季は近くでカルテを記入していた男性看護師に、話しかけた。

「あのー、暁さん(千紗季の指導者)ってどこにおられますかね?」するとその彼は、こちらを振り向いたかと思うと、ものすごいしかめ面で、

「は?さあ?自分で探せば?」とつっけんどんに言った。

 まだうぶな学生―何しろ1年生で、初めての実習である―であった千紗季は、彼のその対応にすっかりおびえてしまった。彼女はその後出会えた指導者、暁さんにそのことを話した。暁さんは、

「ああ、須藤君ね。運が悪かったね、あんな人に話しかけちゃって。彼はいつもあんな感じだから。気にしないで。あんまり関わらないほうがいいよ。彼は実習生やインターンに来た学生だけでなく、同僚にも上司にも、看護助手さんにもほかのコメディカルにも、さらにはドクターや患者さんとその家族にまで、意地悪で、冷たいんだから。」と、言った。

 実習も無事に終わり、学生控室で指導者たちとカンファレンス(話し合い)をしていた千紗季たちは、ナースステーションから、ものすごい怒鳴り声を聞いた。その声の主は、例の男性看護師、須藤正士のものであった。

 どうやら、看護助手がまだ飲食開始の許可がなされていなかった患者に対し、お茶をくんで渡してしまったらしい。その患者はもう今日の午後から飲水が許可・開始される予定で、初めて水を飲むときには、看護師の見守りのもとで飲んでもらう予定であったようだ。それが、何の手違いか看護助手がその患者にお茶をくんで渡してしまい、看護師が知らないうちにその患者は手術後初めてのお茶を飲んでしまった、というわけである。そのことで彼は、怒っていたのだ。

「なにも、あんなに怒鳴らなくてもいいのに。よりによって、大勢の看護師やスタッフのいるナースステーションで。ねえ?」指導者の1人が、千紗季たち学生に同意を求める。

「彼はこの病棟の、ううん、この病院の鼻つまみ者だから。患者さんからの評判も悪くて…陰気で、冷たくて、傲慢で、強情で。無口で、何を考えているかまるで分からなくて、いつも不機嫌で苛々していて。人という人に、それが上司であろうと医者であろうと、たとえ患者さんであろうと、何か気に入らないことが一つでもあれば、食って掛かる。一体どうして、看護師になったんだか…」

 千紗季は、(こんな人とは、絶対に同じ職場で、一緒に働きたくない)と思った。ところが運の悪いことに、彼女はここの病院の奨学金をもらっているのだ。つまり彼と、須藤正士と同じ職場で一緒に働くことになる可能性がある、ということであった…


 その後の実習で、千紗季が須藤のいる病棟へ行くことはなかった。だが彼のうわさを聞いたことはあった。なんでもあの後、須藤はオペ室勤務へ異動になったらしい。生身の(というのもおかしいが)、意識のある患者と関わることはあまりない(術前訪問、手術前日にオペ室勤務の看護師が患者の病棟を訪れ、手術について説明するときなどに関わることはある)が、その分看護師、外科医、麻酔科医、薬剤師、診療放射線技師、臨床工学技士、臨床検査技師といった医療従事者たちとは濃厚に関わり、彼らと良好な関係を築いていかなくてはならない部署である。

 千紗季はそのことを、3年生のインターンの病院見学の時に、オペ室に見学に行った同級生(と後輩)から聞いて知った。(ちなみに千紗季はその時循環器病棟を見学していた)彼女はインターンでの見学場所を、オペ室を第一希望にしていたのだが、須藤がオペ室にいたこと、しかもそこでのインターンの学生や、他の医療者に対する態度が悪かったことを聞き(態度の悪い男性看護師がいた、とオペ室に行った学生から聞いたことで須藤正士と特定できた)、そこに行かなくてよかったと胸をなでおろした。

(じゃあ、オペ室を希望しなければ)千紗季は思った。

(あの人と、一緒にならなくて済む…!)

 それなのに、ああ、なんという運命のいたずらか。千紗季は希望していなかったのに、全く希望していなかったのに…大学を卒業し、病院に就職した千紗季は、オペ室勤務となってしまった!(この年は特にオペ室を希望する新人看護師が少なかったらしい)

 こうして、馬場千紗季は、病院一の鼻つまみ者、須藤正士と共に働くことになった。


 最初の数か月は、何が何だかわからないまま過ぎた。何しろ大学では、手術室看護の勉強は座学だけで、実技、つまり演習はやらないのだ!3年後期の、成人急性期看護学実習でほんの一日、手術室を見学しただけである。(ちなみにその時は、別の病院で実習を行った)だから文字通り、簡単な器械出しから一から勉強しなくてはならなかった。

 須藤は本当に、陰気で無口で冷たくて、そして厳しい人間であった。初めて同じオペ室で勤務した日、千紗季はひたすら彼を恐れ、おびえた。なにせ彼の千紗季に対する第一声が、手術前、手洗いを念入りにしている彼女に向って

「いつまでやってんだ、このノロマ」であった。憎々しげな声で、しかも舌打ちまでしたのである!


 須藤が冷たいのは、看護師や医師を始めとする医療従事者たちに対してだけではなかった。彼は、人間という人間に対して、冷酷で、むごいのである!

 先輩看護師から、千紗季が聞いた話である。術前訪問で、須藤は前立腺がんの手術を受ける70歳の男性を訪問した。その患者は、

「手術したら、もう、できないのかい?」と恐る恐る聞いた。70歳といえども、男としてものの役に立たなくなるということはやはり悲しいのであろう。すると須藤は、いともあっさりと

「ええ。もうできませんよ。勃起はしますけどね。でも、そこからイクことは、気持ちよくなることは、もう二度ありません」と言った。言っていることは紛れもない事実なのだが、それにしても、彼の口調には患者への気配りや思いやり、共感といったものがみじんもなく(仮にも、同じ男だというのに!)、まるで患者の落胆する反応を、楽しむかのようであったという。さらに、

「まあいいじゃないですか。もう70なんだし。奥さんも喜ぶと思いますよ。妻としてのお勤めから解放されて」

「…私の妻は、まだ40代だ!」(その患者は、妻と26も年が離れていた)

「じゃあ、ますます喜んでいるんじゃないですか。これで他の若い男と、浮気ができる…」などと、世にも残酷なことを言った。

 患者は絶望し(当然である)、「手術をやめる」と叫んだという…


 医療従事者ではない病院スタッフ(受付や事務、清掃や食堂、売店の職員)に対しても彼は冷酷であった。

 ある時など、院内のコンビニでバイトしている女の子にまで、ねちねちと嫌味を言っていた。買い物して1万円札を出したが、そのお釣りが千円足りなかったという。その嫌味があまりにも酷く、しかも須藤は千紗季が買い物してその子にレジを打ってもらっている真っただ中に割り込んできてお釣りが足りないといってきたので、千紗季は思わず

「十いくつも年下の女の子に対して、何もそこまで言うことはないでしょう。彼女もわざとじゃなかったんだし、お釣りも返ってきたんだから、もういいじゃないですか。これが仮にも、人を救う立場にある、看護師の態度ですか」と言った。言ってから彼女自身も驚いていた。あの須藤正士に、こんな口を利くなんて…!

 千紗季に対し、須藤は

「人間を救う?看護師が?」と鼻で笑い、

「貴様は、馬鹿か?人間に人間は、救えん」と、言い捨て、その場を離れた。

買い物を終えた千紗季は須藤を追いかけ、なおも食い下がった。

「じゃあ、何故先輩は、看護師になったんですか?」須藤は追いかけてきた彼女を一瞥し、非常に苛立った声で答える。

「…決まっているだろう。金と居場所のため。それ以外に何がある?それに…」と言って彼は一度言葉をきり、軽蔑と嫌悪、苦悶が入り混じった表情を浮かべる。

「…コンビニの仕事がどれほど嫌で、耐え難いものかは、身をもって知っているわ…」


 ある時、手術中に患者の容体が悪化して亡くなった。その患者は、まだ10代であった。

 千紗季にとって初めての患者の死であった。彼女はショックのあまり、ただただ泣き崩れた。

 患者の家族の嘆きは言うまでもなく、執刀医をはじめ手術に立ち会った医療者達も、悲痛な面持ちをしていた。その中でただ一人、須藤正士だけが全くの無表情であった。

「…そう、泣くな。よくあることよ。患者の死をいちいち嘆き悲しんでいたら、きりがないわ。遅かれ早かれ、生命あるものはいつか必ず死ぬのがこの世のさだめ。そう思ってあきらめろ。どうせいつかは、自分だって必ず死ぬのだから…」須藤が慰めとも、皮肉ともつかぬ言葉をかける。

「…何て、冷たい…!あの子は、まだ…まだ、16歳だったんですよ…やりたいこと、いっぱい、あったろうに…」千紗季が、泣きながら反論する。須藤が、鼻を鳴らす。

「それがどうした?…お前は、あの患者に同情しているだけにすぎん。お前が涙を流し、同情することであの患者が、生き返るとでもいうのか?患者の家族に寄り添う、という点では多少の悲しみ、同情はいいかもしれん。だが、いつまでもそれを引きずっていては、まだ生きていて治療を、看護を必要とする他の患者に迷惑がかかる。さっさと気持ちを切り替え、まだ生きていて、オペを待っている、次の患者の看護に専念するべきだ」

「…」

 須藤の言っていることは、全くの正論である。反論の余地もない。しかし、初めての患者の死に遭遇した千紗季の悲しみは、そうすぐに切り替えられるものではない。

「…初めての時は、無理もない」須藤の口調が、幾分和らぐ。

「その感情は、忘れるな…」

「…看護師は」千紗季が、口を開く。

「一体、どれほどの死を、見なくてはならないのですか?…やがては人の死に、慣れてしまうのですか?」

「配属された部署にもよるが、まあ、数えきれんほどだ」彼女の問いに須藤は、淡々と答える。

「…そして」須藤は続ける。

「…人の死に、慣れることは決して、ない。俺は…俺が今までに看取った死は全て、俺が救えなかった者達の死だ」そう、抑揚のない声でつぶやくと彼は千紗季のそばを離れた。


 千紗季が病院に就職して、半年以上が経った。大分仕事にも、須藤の皮肉や嫌味にも慣れた。

 そんなある日のことであった。千紗季は須藤とともに、遅い昼食をとるため食堂の列に並んでいた。

「チキン南蛮定食」カウンターで、須藤は注文する。

「あ、私も」千紗季も同じものを頼もうとすると、厨房のおばちゃんは

「ごめんなさいね、チキン南蛮、この人で終わり」と申し訳なさそうに言った。

「えー」千紗季はがっかりした声で言った。

「じゃあ…カレーライスで」

「いいよ。俺がカレーで。彼女に、チキン南蛮をやってくれ。」

「ええっ?」これには、千紗季も食堂のおばちゃん達も驚いた。須藤が、あの須藤が、こんな優しさを見せるなんて…

「あ…ありがとうございます」

「別に」そっけない態度で、須藤はその場を離れた。あとに残された千紗季は、ただ呆然とその後姿を見送った…

「あの、須藤先輩が?あんたに定食を譲ったあ?マジで?」後日、再び食堂にて。千紗季の同期でかつ同じ大学出身の友人、現在はNICU(新生児集中治療室)で勤務している藤井佳織が驚きの声を上げる(須藤正士の悪評は、病院中に広まっている)。

「うん…未だに信じられないけど。雪でも降るんじゃないかと思ったけど、降らなかったね」千紗季はしみじみと答える。

「…ひょっとして、彼、千紗に気があるんじゃない?」

「ええっ!冗談!やめてよ」

「なーんてね。ありえないし。だって、あの人が恋するとこなんて、想像つかない。人を愛したことのない眼だよあれは。ってろくにアイコンタクトとったことないけど。でも、皆噂している。彼は、血も涙もない、蝋人形みたいな人だって…」後半のくだりは、佳織は声を潜めて言った。

「…私、よく分かんないけど、でも。」千紗季は言った。

「…一緒に働いてみて、私は、あの人は、皆が言うほど意地悪で、心の無い冷たい人じゃ、ないと思う…」


 さらに、このようなことがあった。千紗季と須藤が、病棟を歩いていたとき、道に

迷ったのであろうか、ふらふらと廊下をさまよっている、1人の看護学生とすれ違った。

「あ、あの子…」と千紗季が声をかけるより先に、須藤のほうが彼女に近づき、

「どうした?急性で来ている子だな?(急性期看護学実習の手術室見学で、須藤が器械出しをしていたところに来たらしい)どこへ行きたい?」と尋ね、学生控室まで誘導した。

「…ずいぶん、優しいですね?私のときと違って」千紗季が、皮肉る。

「…急性の実習は、辛いからな…記録が…まあ、もっとも俺は、最終日の提出期限が16時のところを、十三時半で終わらせたけど。それに俺も、学生の小児の実習のとき、病棟であの子のように道に迷って、看護師に助けてもらったことがある」須藤が、つぶやいた。

 ふと思いたって、千紗季が尋ねる。

「…先輩って各論実習の順番、どんな感じだったんですか?」

「小児、急性、精神、慢性。4年は老年スタートの在宅、母性、それから5週間の公衆衛生。お前は?」今度は須藤が、彼女に聞き返す。

「逆パターンです。慢性始まりの老年、在宅、母性、小児、急性、精神。」と、千紗季は答える。

「…慢性始まりは、きついな。俺らのとこは、保健師グループ(保健師課程20数名は彼らの中だけで実習グループを組まれる)の中では(各論実習の流れ的に)恵まれた方だったと思うけど…いきなり母性とかから始まるよりは。でも」と、急にここで顔をしかめ、須藤は続ける。

「俺らと同じクールで実習していた、保健師じゃないグループは小児、急性、3週間休みからの慢性後冬休み。保健師が授業している2月の三週間で精神(保健師課程以外のものは、基本12月で三年後期の実習が終わり、2月は休み)。四年は老年、在宅、一週間助産所行ってからの2週間休みで産科病棟、で夏休み…最高じゃないか?何なんだあのグループは?恵まれ過ぎじゃないか?辛い実習(各論実習の3大山場は、母性、急性、慢性)の後には、必ず休みが入る…しかも担当教員にも恵まれていてな…俺らはハズレばかりだったのに…」

「…し、知りませんよ…」


 また別のある日、いきなり須藤が千紗季に、こんなことを話しかけてきた。

「…エイトが、新曲出したな?」

「はい?…エイトって、∞worldのことですか?」∞worldとは、ちょっと、いやかなりマイナーな、7人組ロックバンドグループのことである。

「ああ。新曲『アデュウ』お前LINEミュージックに入れただろ?」

「な、何で知っているんですか?」

「手術室のLINEグループで見た…俺も早速ダウンロードした。いい曲だな?特に歌詞が」千紗季は大いに戸惑いつつ、

「そうですね…」と彼に同意し、「∞world、好きなんですか?」と尋ねた。

「ああ…昔、ある人が教えてくれた」

「私も…昔好きだった人から、教わりました。間接的に」千紗季が∞worldを好きになったきっかけとは、大学二年のとき、看護学部二年の忘年会で、当時彼女が好きだった男がカラオケで∞worldの曲を歌っていたことである…

 まあ、それはともかくとして、何故かこの後、千紗季と須藤は∞worldに関する会話で盛り上がる。

「(∞worldの)どの曲が好きだ?」と須藤。

「えっと…『儚い、しかし永久の、愛』…」と千紗季。

「…『とわ』と読むんだ。永久と書いて」須藤が、皮肉を帯びた口調で訂正する。

「…え、私えいきゅうって言いましたっけ…ごめんなさい『とわ』です、永久」

「…先輩は、何が好きなんですか?」今度は千紗季が、須藤に問う。

「『0-Life』」

「えー、私、それはあんまり…」

「そうか。分かり合えんな」

「い、いや、それも、いい曲ですけどね。でも私、あのアルバムなら『十年後の君へ』の方が好きです」

「…あれか。あの曲、歌詞の中に『象』って出てくるのに」須藤が言う。

「シングルのジャケット、何故かライオンなんだよな…」


 千紗季の大学時代の恩師である小児看護学の教授が、ここの病院の看護部長兼副院長として戻ってくることになった。彼女の名は檀明子といい、もとはこの病院の小児科で、看護師長をしていたという。

 彼女の看護部長・副院長就任式及び歓迎会が開かれ、千紗季と須藤も参加することに

なった。

「檀先生、お久しぶりです。11回生の馬場です。看護部長兼副院長就任、おめでとうございます」会が開催されてから二時間後、やっと千紗季は恩師に挨拶することができた。

「馬場さん?お久しぶり。今オペ室にいるんだって?オペ室には絶対行きたくないって

言っていたのに」

「…まあ、何とかやっています。手術看護も、やってみると色々奥深いものだなあと。患者さんとじかに触れあうことはあまりないけど、やっぱりオペが成功して、元気に

なってくれると嬉しいし。逆に手術中にお亡くなりになってしまうと悲しい…ドクターを始め色々な医療職種の人との関係を円滑に行うことも大切だし…」千紗季が、熱く仕事を語っていると、そこに須藤が割り込んできた。

「師長、お久しぶりです。この度はおめでとうございます」

「ありがとう、須藤君…何年ぶり?あなたが小児から消化器外科に異動して、そのあとすぐ私が大学の方に行っちゃったから…」

「10年ぶりです」

「そう…あれからもう、10年経つの…」

「ち、ちょっと待ってください。先輩、小児科にいたことがあるんですか?」千紗季が、思わず口を挟む。

「就職して最初の3年は、小児にいた」須藤が、感情の無い声で答える。

「意外…よくその性格で、小児科が務まりましたね。子供、嫌いじゃないんですか?」

「あら、馬場さん、彼はこう見えてとても子供好きでね。子供達にも、とても人気があったの」檀が答える。

「…子供好きだった、です。正しくは…」須藤が訂正する。

「…あんなことさえなければ、ねえ?」

「あんなこと?」千紗季が聞き返すと

「…もういいでしょう、昔のことは」須藤は話題を打ち切り、その場を離れた。だが、檀はこっそり、

「…また今度、教えてあげる。彼の秘密を」と彼女に耳打ちした。


 それから1か月後。千紗季は檀看護部長兼副院長と会っていた。

「全部は話せないよ。全部言うと怒られるから。怒られないとこだけね」と前置きして、檀は千紗季に、須藤正士の過去を語り始めた…

「須藤君は、優秀な看護師だった。子供好きで、子供の扱いも本当に上手くて…

ほら、演習とか実習で経験したと思うけど、小児って成人と違って、バイタルとるだけでも一苦労じゃない。成人なら血圧測りますっていうだけですぐに腕を出してくれるけど、小児だとそうはいかなくて、色々と分かりやすい言葉で説明したり、あやしたり、遊んだり…でも、彼はそういうのがとても上手だった…入院以来、治療も、何をするのも嫌がって泣いてばかりいた子が、彼の介入のおかげで治療を進んで受けるようになった、ということもある。何でも、学生時代から海外とかで、子供と関わるボランティアサークルをやっていたらしいね」そう言って、檀は1枚の写真を見せる。そこには、学生時代の須藤の姿が写っていた。仲間や子供達と、屈託のない笑顔を見せる、須藤…今の、彼の暗く、冷たい表情とはかけ離れた顔だ。こんなふうに、笑えていた時代もあったのか…

「かっこいいでしょ、学生時代の彼。そうでもない?まあ、顔はともかくとして、どこか、独特の色気があるよね、彼。背はそこまで高くないけどシュッとしているし、低音で甘めの声もいいし、頭もいいし―学生時代の成績は常にトップクラスで、国試の成績も優秀だった―性格も生真面目で、ちょっと世の中を斜にみるような、ニヒルなところはあったけど、ひねくれたユーモアの持ち主でね…男子の少ない看護大学のこと、学生時代はきっと、モテていたんじゃないかな…」檀がしみじみと、過去を振り返る。

「…いつから、いつからあの人は、あんな風になってしまったのですか?」

「彼が看護師になって、3年目のことだった」いよいよ話が、核心に触れる。

「彼は原因不明の、下痢と脱水症状で入院した、3歳の男の子を担当した。その子はとても人見知りだったのだけれども、須藤君にはよく懐いていた。彼もとりわけ、その子のことを可愛がっていたし…その子の母親も、ほぼ24時間ずっと我が子に付き添って、熱心に看病していた。子供の病気の原因が全然わからなくて、症状も良くなったり悪くなったりで不安だろうに、文句ひとつ言わず、スタッフに対してもすごく気を使ってくれて…完璧な、病気の子供を持つ母親、だった。須藤君は母親のことも気に掛けていた。その母親と同い年だったこともあって、よく話を聴いていた」

「全く病気の原因がわからなくて、治療しても、と言っても対症療法しかできなかったけど、良くなったり悪くなったりの繰り返しで…母親が子供に付き添っていないときは一旦良くなるのだけど、彼女が子供のもとに戻ってくるとまた悪化して、ってことが何度もあって、そしてさらに母親のできすぎた態度、ひょっとしたら代理ミュンヒハウゼン症候群(児童虐待の一種。養育者が子供の怪我や病気を故意にねつ造し、その子の病気を心配したり、看病をかいがいしく行うことで、周囲の注目や同情を集めようとする)なんじゃないかって声も上がった。須藤君はそれを強く否定した。そんなことはありえない、彼女は、そんなことをするような人じゃないって。でも…実際はやっぱり、代理ミュンヒハウゼン症候群だったの。母親が子供に、下剤や利尿剤を飲ませていたの。おかげで子供は酷い脱水と、低体重で…3歳なのに、その子は体重が10キロくらいしかなかった」

「どうして、代理ミュンヒハウゼン症候群だと分かったのですか?」千紗季が尋ねる。

「その母親が、自殺したの。その母子は小児病棟の個室にいたのだけれど、だから下剤とかをこっそり飲ませたりすることができたのだけれども、その病室で、首をつって自殺したの…息子も、首を絞められて、死んでいた…息子に下剤を飲ませ、病気に仕立て上げたのは私ですっていう、遺書を残して。午前3時過ぎで、第一発見者は、夜勤で巡回に来た、須藤君だった…」檀はそういって、ため息をついた。

「それはもう大騒ぎになってね。マスコミにも散々叩かれたし…あの当時の関係者は全員、小児病棟を去った。ここの病院でまだ働いているスタッフもいるけど、須藤君を含めほんの数人。もうこの病院で、あの事を知っている人はほとんどいない。彼は奨学金の関係で、最低四年間はこの病院を離れることができなかった。あの後すぐ、別の病棟、消化器外科に異動した。そして私も、大学で教師の職を得た…」

「それからなの。須藤君が変わってしまったのは。彼が心を閉ざした、意地悪で冷たい人間になってしまったのは…」 

 千紗季は檀の話に衝撃を受け、深く考え込んだ…


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 俺には、7つ上の兄がいた。兄は白血病だった。俺は兄の骨髄移植のドナーとなるための、いわゆる「救世主兄弟」としてこの世に生を受けた。だが、俺は兄の救世主となることはなかった。兄弟であれば4分の1の確率で骨髄の型は合うはずなのだが、それが俺と兄では合わなかったのだ。

 そして、兄は俺が3つになる前にこの世を去った。

 両親は物心ついた時から不仲だった。兄が死んでから、2人の仲はさらに険悪になった。

 互いに兄が死んだのはお前のせいだと、罪を擦り付け合っていた。母は父の人格、能力を言葉でなじり、父はそんな母に対し暴力を振るった。俺はそんな2人を見ていつも泣いていた。泣いている俺の姿を見て、俺の存在に気が付いた両親は、兄が死んだのはお前のせいだと俺を責め、お前なんか生むんじゃなかった、生まれてこなければよかったのにと言い、俺を殴りつけた…

 両親はいつも喧嘩ばかりしていて、俺の面倒はろくにみようとしなかった。食事も服もろくに与えられず、風呂にもあまり入れてもらえなかった。おかげで、チビ・ガリガリで、いつも空腹でボロボロの服を着た、垢だらけ、フケだらけ、シラミだらけの子供だった。

 そんなわけでいつも、他の子どもたちに苛められ続けてきた。中学の時の苛めが、特に酷かった。

 殴る、蹴る、悪口を言われるのは序の口で、物を隠されたり机に落書きをされたりというのも、可愛いものであった。トイレの便器に顔を押し付けられる、掃除中に雑巾の入ったバケツの水をぶっかけられる、家でやってきた宿題が落書きされたり、びりびりに引き裂かれたりする…

 それでも、俺は学校に通い続けた。家は家で、俺の居場所がなかったのだから。周りの大人はおそらく、俺の状態に気付いていたであろう。でも、誰も助けてはくれなかった。この世に、俺の居場所などなかった。そう、どこにも。

 何故、俺はこのような目に合わなければならないのか。何も悪いことをした訳ではないのに。いや、俺は兄を、救えなかった。それが俺の罪だ。俺はこの世に、生まれてくるべきではなかった。俺の存在自体が、罪なのだ。いや、違う。俺は特別、そう、特別なのだ。あいつらとは違う。他の者とは違う。だから迫害されるのだ。俺は特別、特別なのだ…

 だから…一人で生きていくしかないのだ、正士。

 …そう思わねば、生きてゆけぬ。


 あの日はちょうどテスト前で部活がなかった。放課後、教室の隅で水をたっぷり張ったバケツの中に、顔を押し付けられていた。苦しくて、死ぬのではないかと思った。それでもいいと思った。いや、むしろもう死にたかった。この世界に、俺が存在し続ける意味など、ない。価値など、ない。俺が生きている必要性など、どこにもない。俺は兄の命を救うべく、この世に生まれた存在だ。だが、兄の命は救えなかった。兄と骨髄の型が合わなかった時点で、俺がこの世に存在する理由は、無くなったのだ。だから、彼女があの日苛めっ子たちを止めなければ、たとえあの場で助かったとしても、俺は自らこの命を絶っていただろう。

 彼女、江原百合は、こう言った。

「やめなよ!」その言葉に一瞬、苛めっ子は俺の頭を押さえつけていた手を放した。そのすきに俺は水面から顔を上げ、息を吸うことができた。

「は?江原お前、何言ってんの?お前こいつのこと好きなわけ?」苛めっ子のボスの言葉に、周りはどっと笑った。

 「…これ以上やると、彼、死ぬよ?あんたたち、人殺しになってもいいわけ?」彼女の言葉に、さすがの苛めっ子たちももう俺の頭を水面に押し付けることはしなかった。代わりに、

「江原に助けられたな。スド菌」と、バケツの水を俺にぶっかけ、笑いながら教室から出ていこうとした。そんな彼らの後ろ姿に、彼女は

「何故、彼を苛めるの?この人があなたたちに何をしたっていうの?」と叫んだ。

「そうだな、強いて言えば、こいつの存在そのものが、ね…」笑いながらそう言い捨て、彼らは教室から出て行った。

 一連の様子を遠巻きにしてみていた他の連中も出ていき、あとには俺と江原百合が残された。俺は水で濡れた床を拭こうと、よろよろと乾いた雑巾を取りに向かった。

「待って」彼女が俺を呼び止めた。

「まず、これで頭とか拭いたら?…こんなハンカチじゃ、大して拭けないけど」彼女はそう言って、自分のハンカチを俺に手渡した。俺はそれを受け取らずに、

「…どうして、俺なんかに、かまうんだ?」と、苛立ちながら聞いた。

「ごめんね」何故か、彼女は謝った。

「もっと前から、助けて、あげられなくて…」

 その言葉に、俺は大いに感動を受けたが、

「…余計なお世話だ。お前なんかに、助けてもらう必要なんかねーよ!」と、舌打ちし、そのまま教室を飛び出した。


 それからしばらく経った、ある日のこと。昼休み、俺は図書室にいた。椅子に腰かけて本を読んでいると、目の前で突然、

「須藤君」と、江原百合に声をかけられた。

「…お前か。俺なんかに、何の用だ?」

「別に。本を返しに来ただけ。用がないのに、話しかけちゃダメ?」

「…俺に用もなく話しかける、物好きな女は、これまでに一人もいなかった」

「図書室には、よく来るの?ここなら、あの連中が来ることもないものね」

「まあな」

 この後も彼女は、「今何読んでいるの?」とか「どんな本が好き?」とか色々と話しかけてきたが、人から、まして女子から話しかけられることに慣れていない俺はいい加減な返事をしていたので、彼女はやがて俺のそばを離れていった。だが、この日を境に、俺と彼女は時々、昼休みに図書室で言葉を交わすようになっていった。


 彼女は、百合は、俺に初めてできた友人で、理解者であった。彼女は俺に、家や苛めのことなど根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。俺に同情しているようではなかった。むしろ俺に共感、シンパシーを抱いているようであった。俺達はいつも、他愛無くとりとめもない話をしていた。彼女の笑い声を聞くだけで、笑顔を見るだけで、彼も思わず、笑顔になった…

 ∞worldを教えてくれたのは他でもない、彼女である。彼らの生み出す歌詞に、奏でられる曲に、俺は癒され、救われた…


 「…私の親は医師と、看護師なの」高校受験を間近に控えたある日、百合は言った。ちなみに俺たちはこの時、学校から一緒に帰るところであった。この頃、俺たちは学校の行き帰りを共にするようになっていた。卒業間近ということもあり、もう俺に構う者は中学には一人もいなかった。

「…優秀だな。父親が医者で、母親が看護師?」俺はそういった。

「ううん。母が医者で、父が看護師なの」彼女が、訂正する。

「…変わっているな。男の看護師?」俺が驚くと、彼女は

「まあね。昔は男の看護師なんて、ほぼいなかった。私も父以外、一人も知らないもの。でも、最近はまだごくわずかだけど、父と母の働く病院にも何人かいるみたい。男の看護師」と言った。

「百合も医者になるのか」俺は尋ねる。

「うーん。そりゃあなれたらいいけど、難しいよなあ、やっぱり」そう言って、彼女は笑う。

「なるとしたら、看護師かな。父と同じ。正は?将来のこととか、何か考えている?」と今度は、彼女が俺に尋ねる。

「…いや、まだ全然。」俺は答える。

 正直このときは、目先の高校受験のことで頭がいっぱいで、高校を卒業した後のことなど、考えもしなかった。というより俺はそれまで生きてきた中で一度も、将来何になりたいとか、将来の夢とかいうものを、考えたこともなかった。一日一日、今日という日を生きていくのに精一杯であった。

「でも…」と、俺はつぶやく。

「看護師も、悪くないかもしれない…」


 高校はそれぞれ別のところに進学した。そのため、百合とは疎遠になってしまった。

 高校時代も決して愉快とは言えなかったが、中学よりはましであった。必死で勉強して、俺はついに、奨学金で大学に進学し、親元を離れた。彼女と、百合と同じ看護師になるために…

 俺はただ、彼女の笑顔が見たかった。彼女のそばに、いたかった。彼女と、言葉を交わしたかった。それがかなわないならせめて、彼女と同じ世界にいたかった。同じ道を、歩みたかった。だから看護師を目指し、看護師になった。全ては、彼女への思い故に…

 俺は彼女に出会うまで、自分はずっと孤独だ、と思っていた。本当に、俺は孤独であったのか?俺は孤独の真の意味を、知っていたのか?

 百合に、彼女に出会って、俺は初めて人の優しさ、温かさを知った。愛を、知った。彼女に出会ってから、愛を知ってから、俺は本当の孤独とはどういうことなのかを知った。俺は、孤独だった。俺は、寂しかった。彼女を、彼女への愛を、知って以来…


 俺が看護師になって、三年目。まさかこんな形で、彼女と再会することになるとは思わなかった。彼女は結婚して、三歳になる子どももいて、姓は堀田、堀田百合となっていた。看護師と、病気の子供の母親としての、再会となるとは。看護師同士としての再会を予想していたが、どうも彼女は学生結婚、しかもできちゃった婚で、大学は中退してしまったらしい…

 それでも俺は、嬉しかった。自ら彼女の子供の受け持ちになることを希望し、晴れてそうなった。彼女の子は遥人といって、とても可愛かった。俺によく懐いてくれた。俺もまるで自分の、本当の息子のように感じた。

 百合は、いい母親だった。ずっと一人で、入院中している息子に付き添って面倒を見ていた。不安や悩み、苦しみも多いだろうに、愚痴一つこぼさなかった。いつも明るく、笑顔で振る舞っていた。俺達看護師や、医師をはじめとする医療スタッフにも、気配りを欠かさなかった。


「…どう?看護師としての、仕事は?」ある時、百合が俺に尋ねた。

「…辛いなんてものじゃない」と、暗い顔で俺は答える。

「それは、やりがいを感じる時もあるよ。でも、それ以上に苦しく、辛いことが山ほどある…病気が完治して、元気に退院していく子供はほんの一握りだ。慢性の病で、入退院を繰り返す子供、徐々に徐々に弱っていく子供、思いがけない事故や病で、あっという間に逝ってしまう子供…その子供の姿を見て、ひたすら悲嘆にくれる、親兄弟。ここで働けば働くほど、己の無力さや、この世の残酷さ、不条理さが嫌というほど分かってきて、幻滅する。このままあと何十年、この無情の世界で、生き続けるのかと思うと…いっそのこと、中学の時に苛めっ子達に水の張ったバケツに顔を押さえつけられたとき、溺死していた方が良かったのでは、とも思う」そう、俺は顔をしかめ、首を振る。

 「自殺したいってわけじゃない」百合の顔が曇るのを見て、俺は慌てて言った。

「生きたいという願い虚しく、志半ばで死にゆく子供達を尻目に、自分で終わらせることなど、出来るわけがないだろう…自殺は、愚かな、甘ったれの臆病者がするものだ。俺は、そのような臆病者ではない」

「…そうね…」百合が、息を吐きながら静かに答える。

「あなたが、かつての苛めっ子達よりもずっと勇敢だということは、この私が一番よく知っている。あなたは、どれほどひどい目に遭っても決して、逃げようとはしなかった…人の勇気というものは…怖くて絶叫マシンや自転車、下りのエスカレーターに乗れない、ということなどで、評価されるものではない」百合の言葉の終わりの方で、俺は眉を吊り上げる。彼女は知らんふりだ。それから不意にこちらを見つめ、寂しげにほほ笑んだ。彼女のその笑顔を、俺は決して忘れはしない。永久に。

 子供の病気の原因が、いくら検査してもさっぱり分からないこと、治療していても

ちっともよくならないこと、母親である百合の態度が「できすぎている」ことなどから、代理ミュンヒハウゼン症候群を疑う声も上がった。だが俺はその声に耳を貸さなかった。彼女が、百合が、代理ミュンヒハウゼン症候群であるはずがない。彼女は、息子にそのようなことをする人じゃない…

 けれどもあの日、俺は見てしまった。百合が息子に、下剤を飲ませようとしているところを。そして全てを、知ってしまった。彼女の、悲しい真実を…


 「どうして、こんなことを」俺はこれ以上ないほどの暗い声で言った。俺には彼女を、責めることはできなかった。ただ酷く、悲しかった。自分が酷く、情けなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい…!許して…正、お願い…」

「…謝るのは俺じゃなくて、息子に対してだろう?」抑揚のない声で、俺は言う。

「…つら、かったの…子育てが、結婚生活が…夫は毎日遅く帰ってきて、子育てを手伝おうとはしなかった。休みの日も、なにもしてくれないの。しかも、やれ飯がまずいだの、部屋が汚いだの、子供の泣き声がうるさいだの私に、文句を言うの。文句を言うくらいなら手伝って言うと、私を殴るの。そして自分の母親―私にとっては姑に、言いつけるの。私がろくに家事も、子育てもできない、いい加減な嫁だって。姑も息子の言うことを真に受けて、私を酷く責めるの…」そう、百合はすすり泣きながら語り始めた。

「実家にも、頼れなかった。元々両親は不仲で、顔を合わせると喧嘩ばかりするから、お互いできるだけ家にいないようにと、仕事で二人とも忙しくしていて、いつもピリピリしていて、私に対しても冷たかった。あの家に、私の居場所は、なかった。だから、いつも寂しくて、寂しくて…あの人に、夫に、抱かれたの。学生時代にできちゃった結婚して、大学も中退してしまったことに両親は失望して、情けない、みっともないと言って私を、見捨てたの…」彼女は、さらに続ける。

「遥人が病気になれば、入院すれば、あの家から離れられる、夫や姑から、逃れられる…そう、思ったの。遥人が入院してからも、少しでも退院の日を遅らせよう、長引かせようと…だから、だから…」泣きじゃくりながら、そう彼女は俺に告白した。

「お願い、正、お願い…!もう二度としないから、だから、だから…他の看護師さんに、師長さんに、医師に、言いつけないで…!お願い…」彼女は、そう懇願する。

「…俺の口からは、何も言わない。でも、明日の朝、師長が来たら自分の口で、言うんだな、百合。自分が、今までしてきたことを…今なら、まだ間に合う。病院内で事が収まるはずだ。万が一警察が入って、裁判になったら有罪は免れんかもしれんが、多分情状酌量で執行猶予がつくはずだ。だから…自分がしたことと、きちんと向き合うんだ、百合…」

「正…」

「…百合、ごめんな…今まで、助けてあげられなくて。背負っていた苦しみに、気づいてあげられなくて…」そう言って、激しい自己嫌悪に陥りながら、俺は彼女のもとを離れた。

 その日、俺は深夜勤務であった。その夜、百合は息子とともに病室で、自殺した…

 どうして、どうして!俺は彼女達を、救えなかった。百合を、遥人を、助けてやれなかった…何故俺は気が付かなかったのだろう。彼女の背負ってきた苦しみ、悲しみに。彼女が抱えていた心の闇に。気づいていたはずだ。彼女の態度が、どこか不自然であったことに。遥人のもとに、母親である百合以外、家族が誰も姿を見せていないことに。父親や祖父母が一度も息子や孫の見舞いに訪れていないことに。同僚の何人かは、代理ミュンヒハウゼン症候群を疑っていたというのに、俺はその言葉に耳を貸さなかった。もっと早く、気づいていれば、もっと早く、適切な介入を行っていれば、こんな、こんなことには…

 俺のせいだ。俺が、二人を殺した。初めて俺に関心を、友情を示してくれた人を、俺を助けてくれた人を、俺が初めて心を開いて、好きになった人を、初めて恋した人を、この世で、最も愛する人を…彼女と、その子供を、俺は…

 絶望のあまり、心ここにあらずといった体で病棟の廊下を歩いていると、こんなポスターが目に飛び込んだ。

「人間を救うのは、人間だ」

 「うわあああっ!」まだ病棟で、ナース服を着ていたにもかかわらず、俺は発狂した。

「何が、人間を救うのは人間だ!何が医療だ!何が看護だ!医療は、看護は百合を、遥人を、救えなかった。人間は人間を、救うことはできなかった。俺は二人を救えなかった。俺は誰も救えなかった。兄も、百合も、遥人も…誰一人、助けることができなかった…!」


 俺は密かに、霊安室を訪れていた。百合の、彼女の遺体がそこにあった。死してなお、彼女は美しかった。

 静かに彼女の頬に触れ、唇に口づけした。そして、そっとその身体を、抱きしめた。

 初めて彼女の身体に、触れることが出来た。抱くことが出来た。彼女が生きているときに、そうしたかった。だがそれは決して、叶わなかった。彼女が死んで初めて、逝って初めて、そうすることが出来た… 彼女が逝ってしまったという悲しみの中に、寂しさの中に、切なさの中に、悔しさの中に、憤りの中に、絶望の中に、彼女の身体に触れる喜びがあった。彼女を抱きながら、俺は慟哭した…

 俺は悲しくて、嬉しくて、悔しくて、気持ちよくて、虚しくて、幸せで…苦しかった。


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 檀から須藤についての話を聴いて以来、千紗季の須藤を見る目が変わった。これまで須藤のことは気にしないように、意識しないようにと過ごしてきたのに、打って変わって彼のことを、意識するようになった。意識することで、これまでとは違った須藤正士の姿が見えてきた。

 須藤の見た目が、決して悪くはないことに、千紗季は気づいた。いつも仏頂面だが、顔のつくりはまあまあだし、シュッとしている。声もいい。低音で、どこか甘い響きがある。その声と、シュッとした容姿とがあいまって、独特の色気を醸し出している。

 嫌味、皮肉、冷淡な態度は相変わらずだが、彼が決して本心から、そうしている訳ではないと千紗季は考えるようになった。その言葉、態度の裏に、彼の優しさや孤独、悲しみ、ひねくれたユーモアを彼女は感じ取った。

そうして一体どういう訳だか、千紗季は須藤正士に対して次第に心惹かれるようになった。彼の姿を見たり、声を聞いたりするだけで赤面したり、挙動不審になったりした。どうやら、千紗季は須藤正士に、恋してしまったらしい!

 とうとう、終業後に千紗季は須藤を呼びつけて、思いを告白してしまった。

「はあ?」これが千紗季に告白された須藤の、第一声であった。

「お、お前、最近おかしいと思っていたけど、ほんとにおかしくなったんじゃないのか。なに、恋愛妄想?一度病院で見てもらった方がいい…いや、おかしいのは俺の方か?俺の妄想かこれは?」

「いえ、どっちもおかしくありません。私は、本気です…好きなんです。あなたのことが。別に付き合ってくれとは言いません。ただ…このまま、何も言わないでいるというのも、なんか落ち着かなくて…」

「…何故、俺なんだ。もっと若くていい男が、いくらでもいるだろう。こんな、俺なんか…意地が悪くて、強情で、心無く冷たい…」

「心が、無い?私はそうは思いません、先輩。あなたは、あなたの眼は…人を愛したことのある眼です。辛い、痛み悲しみを抱えて、傷ついた人の眼です。人を、深く愛したことがあるのでしょう?痛みを、悲しみを、知っているのでしょう?あなたは、他の皆が言うような人じゃない。繊細で、傷つきやすくて、純粋で。弱くて強くて…心を閉ざして冷たさを装っているけど、本当は情熱的で温かくて、優しくて…あなたは、そういう人です。あなたが、好きです。正士先輩…」彼の瞳を、まっすぐに見つめ、千紗季は言った。

「…俺は、君より、11…」須藤はいたたまれず、彼女から目をそらす。

「はあ?十一も年が離れている?それが何だっていうんです?11歳年の離れたカップルなんて、この世にごまんといますよ…」


「あ、あんた、マジで須藤先輩に告白したわけ?」藤井佳織が驚き、あきれ返って叫ぶ。

「何で、よりにもよって、須藤正士に…もっと若くて、イケメンで、なおかつ性格も頭もいい男が、この病院にはごまんといるのに…どうして、彼のどこが…」

「須藤先輩も同じことを言った」と千紗季。

「彼は、いい人よ。萌奈。皆が言うような、意地悪で冷淡な人じゃない…少なくとも」ゆっくりと、彼女は続ける。

「∞worldを愛する時点で、彼はいい人よ…」


「それであなたは、どうしたの?」檀看護部長兼副院長が、須藤に尋ねる。千紗季の告白から数週間後、須藤は檀に千紗季から告白されたことを打ち明けていた。

「…何も…彼女に、変なこと教えましたね。看護部長」

「別に。たいしたことは話してないよ。白血病の兄弟がいて、骨髄の型が合わなくてあなたがドナーになれなかったこととか、幼少期に虐待を受けていたこととか、あの堀田さんが初恋の君だったことなんかは…」檀は平然と言う。

「ど、どうして、それを、知っているのですか…?」須藤は大きく息を飲み、ひどく狼狽した。

「何故って、兄弟のくだりは就職試験の面接の時に話していたじゃない。自分はドナーとして兄を救えなかったけど、看護師として兄のような病気の子供を救いたいって」

「そ、そうでしたっけ…」

「虐待のことはあなた言わなかったけど、私くらい長く看護師をやっていると、色々な子供や大人をみるから。虐待を受けている子どもや、過去に虐待を受けたことのある大人も、たくさんみた。あなたの行動や態度、人間関係のあり方から虐待を受けて育ったんじゃないかと思ったけど、図星だったようね。」

「初恋の君のことは…?彼女とは中学時代の同級生だったとしか、言いませんでしたけど…?」

「あら、そんなことは一目瞭然だったけど?あなたが堀田さんに恋していたことは、誰の目にも明らかだった」そう言って、檀は高らかに笑う。

「…」須藤は、何も言えなかった。

「で、これからどうするの?馬場さんと、付き合うの?」噂好きのおせっかいオバサンのように、面白そうに檀は須藤に尋ねる。

「まさか!」全力で須藤は否定する。

「あら、彼女のことが嫌い?」

「…いや、そうじゃなくて…」須藤の、顔が、わずかに赤らむ。

「…まさか!まさかまさか!」檀は叫ぶ。

「初恋の君のことが未だ忘れられない、とかいうんじゃないでしょうね?彼女のために、もう誰も愛さない、誰とも付き合わない、生涯独り身を貫き通す、とか?」須藤は、押し黙ったままだ。

「え、図星?そんな。まだ彼女に恋している?一生、彼女を愛し続けて、他の誰のことも愛さず、彼女の思い出と、自分の後悔の中で孤独に生きるつもり?」

檀のするどい言葉に、須藤は、

「…俺はもう、人を愛してはいけないのではないかと…人から愛されては、幸せになっては、いけないのではないかと…人間に人間は救えない。人間は人間を、傷つけるだけだ。俺は誰からも救われなかった。誰も、救うことができなかった。俺は人を傷つけることしかできなかった。こんな俺には、人を愛する資格など、愛される資格など、幸せになる資格など、無い…誰かに傷つけられることも、誰かを傷つけることもなく、誰とも交わらず、一人で生きていく。今まで幸せなど味わったこともないのだから、これからだって知らずとも生きていける」と答えた。

「…悲しいことを言う。人に救われたことも、幸せを感じたこともあったでしょうに…」檀のその言葉に、須藤は黙り込んだ…彼は思い出していた。人に、救われたことを。幸せを、感じた時を。彼は遠い過去に、思いを馳せていた…


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「なあ、百合」中学時代のある日、須藤は百合に問いかけた。

「人には、人間というものには皆、感情というものがあるのか?俺と同じように皆、心というものを持っているのか?俺には、信じられない。俺は、人の心というものがわからない、感じられない。人は皆、心の無い化け物に思える。人間という人間は皆、俺と同じ、感じる心を持っているなんて…だったら何故、皆俺にあんな酷いことを平気でするんだ?」

「それは…」百合は、口ごもる。

「…でも、お前は」須藤は、つぶやいた。

「お前は、他の連中とは違う。お前からは、感情というものが伝わる。お前には心がある。お前は、感じる心を持っている、そう思える…」

「お前は、俺と同じだな」

百合は須藤のことを、分かろうとしていた。理解しようとしていた。寄り添い、心を重ね、分かり合おうとしていた。そんな彼女に、須藤は救われ、癒された。たとえ自分の全てを理解されなくても、構わなかった。肉体的に結ばれることがなくても、彼女の気持ちの全てを手に入れることができなくても―無論それに越したことはないが―そうでなくても、構わなかった。彼女の姿を、笑顔を見ているだけで、わずかに言葉を交わすだけで、彼女を想うだけで、彼は幸せであったのだ…


須藤は、ボランティアでカンボジアに来ていた。大学2年の春休みである。炎天下の中、1人のカンボジア人の幼い少女が、彼に抱っこをせがむ。

「モエ(1)ピー(2)バーイ(3)!モエ(1)ピー(2)バーイ(3)!」

「バーイ(3)」のところで彼は飛び上がる少女を軽々と高く持ち上げる。そして、彼女の脇を抱えて、ぐるぐると回した…2人の笑顔が、はじけていた…

その、カンボジアでのある夜。明日は観光でプレラビヒアという世界遺産に行こうという前夜であった。ボランティア活動の全てはこれで終わり、打ち上げと称し、皆でナイトマーケットというところの居酒屋で飲んでいた。飲み食いを終え、皆、夜のショッピングへと、繰り出したのだが。

「…そこ3人は、もう帰りなさい」とリーダーに言われ、須藤を含む酔っ払い3人はバイクタクシーで宿へ戻ることとなった。実際この3人は、とくに須藤ともう1人は、酷く酔っ払っていた。須藤は元々酔い易い質である上に、その居酒屋のアルコールは強く、更に乾季のカンボジアの猛暑、脱水状態でアルコールを飲んだ結果、彼はビールジョッキたった2杯でこのざまである。

バイクタクシーに揺られ、酔っ払い3人組は宿へと向かう。

「あー楽しいなあ」

「ねー」

「…言っとくけど、私もかなり酔っ払っているからね?この2人のおかげで何とか持ってるように見えるけど。宿着いても、2人の面倒まで看れないよ?」

「しっかし丸井さん(このボランティア活動のリーダー)って偉大だよなあ。前は正直、リーダーとしてどうかと思っていたけど」

「まあね…あいつのこの活動のモチベーションは実際チャーイ(カンボジアの少女)だけど…でも周りをよく見て、冷静に真剣に、リーダーとしてこの活動のことを考えている。情に流されるってとこがないよね、男だから。女だとどうしても…」

「なんで男は情が入らないの?そこが分からない」

「…そこはねえ…」

 …と、この3人に帰れと適切な指示を出したリーダー丸井について語りながら、その他よく分からんこと(酔っていて記憶が曖昧)を言い合いながら、彼らは帰ったのであった。これは須藤にとって、幸福な記憶であった。

 ちなみに「自分もかなり酔っているから面倒見きれない」と言った彼女は結局、宿に着いた後須藤ともう1人を介抱したのであった。自身も酔っていて、須藤と、もう1人の部屋(2階と3階)を往復し、階段でつまずきながらも、

「はい、水。ちゃんとこの1本(2リットル)今夜一晩で飲むんだよ?あと、酔いが回るから今日はシャワー浴びちゃダメ。明日の朝入りな。明日プレラビヒアで、2日酔いなんて承知しないからね?」とこのように。おかげで須藤達二2人が、2日酔いになることはなかった…


 「ねえ、記録終わった?」須藤大学3年の後期、成人看護学慢性期実習の最終日。

昼休みに同じ慢性の実習をしている他グループの者が、須藤にこう話しかけてきた。

「ああ。もうレポートは終わって、あとはSOAPをちょっと修正するだけ」彼はそう答える。

「さすが。相変わらず早いねえ…またチョコちょうだいよ」冗談交じりに、その彼女が言う。急性期実習の時も、彼女とは一緒であったのだが。その時須藤は看護記録の提出締め切りが16時であったものを、13時半で提出。なんだかまだ記録やレポートに追われている他のメンバーに申し訳なくて、彼らを元気づけるために、彼は皆にチョコレート菓子を買って配ったのだった…その時のことを、彼女は言っているのだ。

「…今回は、やらんぞ。前回はレポートが手書きで、皆一緒のゼミ室に固まっていたけど、今回のレポートはパソコンで、皆情報処理とかにバラけているから…」

 とか何とか言いつつ、結局須藤はまたも早々に看護記録・レポートを終わらせて―今回は受け持ち患者が二人(通常三週間の実習中、1人の学生が受け持つ患者は1人なのだが、3週間のうちにその患者が退院してしまったりすると、2人目を受け持つことになる)で、看護記録も2人分、しかもインシデント・レポートまでもあったにもかかわらず―チョコレート菓子を買って皆に配る羽目に(?)なった。まあ、はっきり言って須藤の自己満足である。元々、彼は不器用ながらも人の世話を焼くことが好きで、おせっかいな質である。人に何か与えられるよりも与える方が、尽くされるよりも尽くす方が、彼は好きなのだ。例の彼女はまさか彼が本当に今回もそうするとは思わず、お礼に別のチョコレート菓子をくれた…

 ところで、3グループ(6人×3)18人で同じ実習をするのだが(実習病棟は別)、彼はその18人全員にチョコレート菓子をあげた訳ではない。例の催促した彼女のグループと、須藤自身のグループのメンバーには全員渡したのだが、あと1グループのメンバーうち2人には、彼が配っているときその場にいなかったことと、数が足りなくなってしまったこともあって、渡さなかった…

 さて、提出期限の16時5分前。慢性期実習中の3グループのために開放されているゼミ室はとても慌ただしかった。1つのグループのメンバー6人のうち3人が―受け持ち患者2人、看護記録2人分であったこともあって―須藤はそれでも早々に終わらせていたけど―まだ記録を提出する準備が、終わっていなかった。

 実習記録を提出する際、記録用紙を決められた順番通りに並べ、紐で閉じて提出しなければならないのだが、その作業を、終わっていない3人に対し、もう1つのグループのメンバー(彼らはもう終わったらしい)が手伝っていた。ちなみに須藤のグループのメンバーは、提出先の担当教員の研究室の中でバタバタしていた。記録を担当教員に提出し終え、インシデント・レポートを教授に提出するため、研究室でバタバタしているメンバーを置いて1人ゼミ室に戻った(教授がゼミ室にそのレポートをとりに来ることになっていた)須藤は、研究室と同じように慌ただしいその現場に、なすすべもなく立ち尽くしていた…

「須藤君ごめん、また穴あけパンチ、借りてもいい?」

「あっ、ハサミ!」…須藤は、何故俺はいつも、他グループのメンバーにハサミやら穴あけパンチやら貸しているのだろう、と思いながら

「ああ、どうぞ。もうここに置いておくよ、好きなだけ使えや」と言った。

 やっと彼らの、記録を提出する準備が出来た。須藤の穴あけパンチ、ハサミも戻ってきた。うち1人が須藤を見て、改めて

「ありがとう、色々」と言った。彼女のその言葉を聞いて、須藤はなんだか申し訳なかった…確かに、彼女にもハサミやら穴あけパンチやらは貸したかもしれないが、記録を紐で閉じるのはただ見ていただけだったし、何より彼女にはチョコレートを、渡していない!受け持ち患者2人分の、記録に追われていた―ひょっとすると昼食も抜きで記録をしていた―彼女にこそ、あげるべきではなかったか―

「あ、ああ。いや、ごめん」須藤は答えた。

「チョコ、やらんで…」



 「…今まで1人で生きてきたが、人と交わるのも、悪くないかもしれない」と、息を吐き、須藤は部屋から退出しようとした。

「幸せになりなさい、須藤君。あなたは、まだ若い。これからいくらでも、やり直せる…」そう言って、檀は須藤を見送った。

「そうか」檀のもとを離れた須藤は1人、つぶやいた。

「俺、笑えたんだ」


 「付き合ってほしいところがある」ある日の仕事終わり。須藤は、千紗季にそっと告げる。

「あまり派手な格好で来るなよ…墓参りだからな」千紗季は、黙ってうなずいた。

 その日、2人は須藤の車に乗り、とある墓地へ向かった。須藤は喪服でこそなかったが、全身黒のスーツで―普段から彼は全身黒ずくめの服装であることが多いが―身を固めていた。途中で花屋に寄り、百合の花束を購入する。花束を抱え、2人は墓地に向かう。

 ある墓石の前で須藤は立ち止まり、抱えていた百合の花束を墓前に捧げ、跪いた。千紗季も彼に倣い、黙って手を合わせた。

 そこは堀田百合、旧姓江原百合と息子の遥人の墓であった。千紗季がふと隣を見ると、須藤が、涙を流していた…

 「…いい人、ですね…」そんな彼の姿を見て、彼女は言った。

「誰が?」

「あなたが。とても深く、愛していたのですね。その人のことを…」

「ああ…彼女が息子に対してしたことは、許されざることだったが…彼女の優しさは本物

だった。俺は、彼女に救われた。それは紛れもない真実だ。彼女を想っている時、俺は、幸せだった…」千紗季の言葉に須藤は、息を吐きながらつぶやく。

「あなたは今まで、誰にも明かそうとはしなかった。その人への、想いを。あなたの1番、いいところを…」

「1番、いいところ?」怪訝な顔で、須藤は千紗季に問う。

 千紗季は、

「誰かのことを、愛することができる、というところです。自分以外の人を愛することができる、というのは人間が持つ、最大のストレングス(強み)ではありませんか?」と、答えてから

「今まで、誤解していました。あなたのことを。皆、あなたのことを冷酷非情な、誰のことも愛することのできない人だと思っていた。でも、違う…どうして、今日、私をここに、連れてきたのですか?」と、須藤に問う。

 須藤は立ち上がり、涙で濡れた瞳で千紗季を見つめた。

「ずっと…誰からも理解されなくてもいい、そう思っていた。俺の気持ちなど、誰にも理解することなどできない、そう思い込んでいた。特に、彼女がいなくなってからは、一層心を閉ざしていた。でも、知ってしまった。お前の、存在を…お前は、彼女とは違う。彼女よりもずっと若いし、未熟で人の世の闇を、汚れを、知らない…気が強く、タフで、前向きで明るい。だが、お前も…たとえ100%分からなくても、俺のことを、分かろうとしている、俺を、見てくれている…俺のことを、俺の心を、癒してくれる…彼女への想いは決して消えることはないが、俺は、お前のことも…彼女と、同じように…同じくらいに…」千紗季は、須藤に近づき、彼に触れようとした…

 「…こんな…俺で…いいのか…?」彼女をそっと抱き寄せ、彼は言う。彼女は彼を強く、強く抱きしめた。それが答えだった。

 「…どんなに」

「どんなに皆から誤解されて、嫌われていても、私はあなたが、本当はいい人だということを、知っているから。あなたの1番いいところを、知っているから。だから、だから…」千紗季も、涙を浮かべて言う。

「だから、あなたはあなたらしく、まっすぐ生きればいいんです」

 こうして、2人は付き合うことになった。


 付き合うようになったとはいっても須藤は職場で、いや、人前全般で千紗季に対する態度を変えることはなかった。いつでも冷たく、つれなかった。2人の間で何か変わったことといったら、時折千紗季が須藤のアパートを訪れるようになったことだけであった。

 外でデートをする、といったことはほぼなかった。ごくまれにスーパーに買い物に行くことはあったが、それ以外は基本、内に引きこもっていた。須藤の部屋で共に料理(本格的に作った物もあれば、ありあわせの物、外で買ってきただけの物もあった)して食べて洗い物して、シャワーを浴びて…寝るだけであった。

 それでも千紗季は、幸せであったらしい。

「…それでね、彼は意外に、とっても優しくてね、この間もベッドの中で…ああっ、お願い佳織、あきれないで聞いていてよ」

「…知らない!」友人のこんなのろけ話に、あきれ返って藤井佳織は言う。

「全く…こっちはただでさえ貴重な夜勤の休憩時間だっていうのに…」二人は、電話で話しているのであった…


 口の悪い須藤が優しいのは、はっきり言ってベッドの中だけであった。彼はかなりのテクニシャンで、いつも千紗季を昇天させた。

 それ以外は、いつだってよそよそしい態度を崩さなかった。外でデートするなどもってのほか、千紗季が自分の両親に須藤を紹介しようとした時もかたくなに拒んだ。彼は誰にも、自分が千紗季と付き合っていることを知られたくないようであった。千紗季は、須藤にとって自分は恋人などではなくて、ただの肉体だけの関係にすぎぬのか、と思うことも、よくあった。

 須藤自身は、といえば千紗季のことを、憎からず思っていた。だが、決して恋人とは認めようとはしなかった。彼の心の中の最も美しい場所には未だ初恋の君、百合がいたのである。

 須藤は千紗季に、自分が白血病の兄の救世主兄弟として産まれたこと、けれども兄は救えず、両親からお前など産むんじゃなかった、と虐待されて育ってきたこと、学校でも常に苛められ続けてきたこと、初恋の君百合への想いを、決して明かそうとはしな

かった。だが時折彼は、ひょっとして千紗季は自分のことを、全て分かっているのではないか、と思うことがあった。


 「…結婚は、しない。子供も、いらん」ある時、床の中で千紗季が須藤に結婚観について尋ねると、このような答えが返ってきた。

「え…?子供、好きじゃないの?」千紗季が、聞き返す。

「他人の子供は、な。だが、自分の子供は…自分の子供は…」彼は、自分の唇を噛みしめる。

「だから、千紗…もし、結婚したくなったら…子供が、欲しくなったら…いつでも俺から離れて、他の男と…」そう言いつつ、須藤は優しく彼女の頭を撫で、耳を食む。彼は時折そのようなことを言っては千紗季に、自分ではなく他の男に心を向けるよう促した。だが、須藤に心底惚れている、千紗季がそれを聞き入れるはずもない。

「…ひどい…!」と言いつつ女の方もまた、彼に身を任せた…

そういうわけで、須藤は避妊を怠らなかったのであるが。


 二人が情を交わすようになったのは、須藤34、千紗季23の夏のことである。それから2年と半年近くの月日が流れ、千紗季は26、須藤はじきに37になろうとしていた。

 千紗季の身の異変にいち早く気付いたのは須藤であった。ある日、勤務の合間に千紗季を人気の無いところへ呼び出して…そこの壁際で彼女に、文字通り『壁ドン』した。

「…単刀直入に、訊く…最終月経は、いつだ…?」

「はああ?」須藤の物言いに千紗季は顔を赤らめ、怒りの声を上げる。

「自分の身体のことだろう?最後に来たのは、いつだ?…妊娠したのか、と訊いているんだ!…いつ気づいた?産科にはもう行ったのか?何週だ?」押し殺したような、しかし尖った声で、須藤は問い詰める。いつも冷めている彼が、ここまで取り乱す姿は珍しい。

 「ああ…」須藤の剣幕に千紗季は怯え、しかしやがて観念したように言う。

「…もしやと思って、(検査薬で)陽性が出たのは、先々週、産科を受診したのは、先週です…(妊娠)9週、でした…今週で、10週になります…」

「そうか…」須藤はうめく。

「あと2週間、だな…堕すなら」妊娠12週を超えてしまうと、中絶術が面倒になる。

「なん…!」千紗季の抗議の声に、須藤は

「冗談だ」と言い、それからまったく彼らしくないことをした。笑みを浮かべたのだ。

「あ…」気が緩んだのであろう、千紗季がその場に崩れ落ちる。

 「千紗!」須藤は慌ててその場を離れ、彼女を介抱すべく女性看護師を探しに行った。

「ちょっと!」たまたま通りかかった同僚の女性看護師を、須藤は呼び止める。

「…千紗が貧血で倒れた。すぐに職員の医務室に連れて行ってやってくれ」

「分かりました」その同僚は答える。

「…千紗?」そう、彼は動転のあまり、苗字ではなく彼女の名を、呼び捨てで呼んでいたのだ…

 それから間もなくして千紗季は上司に妊娠の旨を報告した。

 

 手術室の看護師長は、勤続30年以上のベテラン男性看護師であった。

「…馬場さんの腹の子の父親は、お前だろう?」ある時、食堂でその彼にそうすっぱぬかれ、須藤はすすっていた味噌汁を思いきりふき出した。

「な、何故、それを…!」須藤が赤面し、ひどく狼狽する。

「何故って、2人のことはとっくに手術室中が知っているぞ。気づいてないのは、当の本人達だけさ」師長が、あっけからんと言う。

「同じ職場内の不倫カップルが、自分達はひた隠しにしているつもりでも、実はそのことは、職場中に知れ渡っているのと同じ理屈さ。何も露骨にアピールしなくてもいいけどさ、別に不倫じゃないんだからもう少し堂々としていればいいものを、お前ら、こそこそしているから逆に怪しまれるんだよ」

「…」須藤は、何も言えない。

「…こうなったからにはもちろん、彼女と結婚するんだろ?」と、師長。須藤は依然、沈黙を貫いている。

「…須藤」押し黙ったままの彼に対し、師長が再び口を開く。

「お前は必死に、隠しているつもりらしいが…なんでそんなに隠そうとするのか、俺には分からんが…お前が、本当はいい男だということは、案外皆気づいているぞ」そう言って須藤の肩を叩き、師長は彼のそばを離れる。あとに残された須藤は、雷に打たれたような表情を浮かべ、ただ愕然として師長の後姿を見送った…


 あれは、2か月ほど前のことであった。2人は初めて一緒に休暇をとり、1泊2日で湯の山へと旅立った。そこで彼らは旅のほとんどを、客室半露天風呂付きの旅館の部屋で過ごしていた。

 そこで2人は、一晩中睦み合っていたのである。

 「ああ…」須藤が、床の中でうめく。もう何回、愛を交わし合ったであろうか。それでも…

「ああ、千紗…頼む、もう一度…もう一度だけ…」なおも、千紗季の身体を求めずにはいられない。彼女もまた男の欲求を受け入れ、2人は互いの身を、ひたすらに貪り合った…

 おそらく、その時に出来た子である。そう言えばその夜、須藤の夢の中に猫が、出てきたような…


 千紗季の妊娠が発覚して以来、須藤はアンビバレンスな感情に歳悩まれていた。

(果たして、こんな俺が父親になど、なれるのだろうか。彼女の良い夫に、なれるというのだろうか。ああ…)夜、1人部屋で須藤は大いに葛藤していた。

 (いっそのこと)と、彼は思う。

(結婚などせずに子供の認知だけして、彼女にはシングルマザーになってもらって、俺は同居せずに子供の養育費払って、時々会う、みたいな関係になった方が、お互いに幸せかもしれない。ああ、でもそれも何だか無責任なような気もするし。11も年下の女の子孕ませといて、その子と結婚もしないで子供だけ1人で産ませ育てさせるなんて、そりゃないよな…いくら養育費は払うとはいっても。無責任すぎる。ああ、千紗…)彼はこのように、あれこれと悩みながら、ベッドの中で身悶えていた…

 その翌朝。須藤が目覚めると寝間着もベッドも、汗でぐっしょり濡れていた。

(おかしい。今は真冬なのに…)この時、年末である。年明けの1月に、彼は37の誕生日を迎える。ふと思い立ち両脇をまさぐってみると、そこにはしこりがあった。

(…まさか…?)

 そして年明け。自身の誕生日に、彼は千紗季にプロポーズすることとなる。


 プロポーズから半年後、妊娠8か月となり千紗季は産休に入ろうとしていた。産休前最後の勤務が終わり明日、須藤と千紗季は、正式に籍を入れることになっていた。

 だが、運命とは残酷なものである。入籍前日、須藤担当のオペが無事に終わり、患者をICU(集中治療室)に送り届けた帰り。同僚の看護師が、切羽詰まった様子で彼に話しかける。

「ああ、須藤さん…!馬場さんが自宅に帰る途中の駅のホームから、酔っ払いか何かに突き落とされて、それで…今、救急外来からこちら(オペ室)に移るところです」

「何だって?」須藤は血相を変えて叫ぶ。千紗季は、我が子は無事なのか。先程のオペのことなど、とうに吹っ飛んでいた。

 間もなく、千紗季がオペ室に運ばれ、緊急手術を受けた。手術が終了して、ICUに運ばれてきたときには満身創痍で意識もなく、多くにチューブにつながれていた。

 「千紗…!」須藤が駆け寄り、彼女の腹に触れる。しかし、そこにもはや生命はないことは明らかだった。

「ああ…」彼は、暗澹たるため息をつく。

(今はせめて)須藤は思う。

(今となってはせめて、せめて彼女、千紗さえ生き延びてくれれば…) 

 千紗季の両親も駆け付け、娘の状態を見て泣き崩れた。医師、看護師らは必至で彼女の救命措置にあたっていた。須藤はただベッドサイドで呆然と、彼女を見つめていることしかできなかった…

 やがて意識を取り戻したのか、千紗季は薄目を開けた。酸素マスクの下から、ほとんど聞き取れないくらいの、か細い声を出す。

「正士」

「正士…お願い、助けて…」須藤正士は千紗季のすぐそばにいたが、彼女のうつろな瞳に、果たして彼の姿は映っていたのであろうか。

「助けて、お願い、お願い…でしょう?」

 『…でしょう?』のところで彼女が何を言いたかったのかは結局、聞き取れずじまいであった。それからほどなくして、馬場千紗季は息を引き取った。

 娘と、生まれてくるはずであった孫までをも喪った、千紗季の両親の嘆きは大変なものであった。二人とも娘が息を引き取った瞬間、その場に崩れ落ちむせび泣いた。一方、未来の妻と我が子を喪ってしまった須藤はと言えば、その絶望のあまりの深さ故に、かえって何の感情も湧かず、無表情のままその場に立ち尽くした…


 「これでまた、一人きりだな」須藤は元々、あまり酒を飲む方ではなかったが、千紗季の死後は毎日、自宅で安い酒を飲むようになった。酔わなければ、やっていられなかった。

 職場は、もうとうに辞めていた。千紗季とのことはもう病院中に広まっており、周りから同情の眼で見られるのに耐えられなかったのである。檀副院長がいれば、続けていたかもしれない。だがあいにく彼女は昨年、突然のクモ膜下出血で帰らぬ人となっていた。

 「心弱くなったもんだな…俺も。百合の時は、酒には手を出さなかったのに。周りからどう思われようか、構わなかったのに…同情されるのが何より嫌いなんだよな、俺。可愛そうに、って人から哀れに思われるくらいなら、いっそのこと嫌われたり、憎まれていた方が楽なんだよな…」須藤は、乾いた声で笑う。

 「このままじゃ、アルコール依存まっしぐらだ。とにかく、酒に溺れるのは明日の、百日で辞めよう」明日は、千紗季の百日の法要であった。

 法要が行われる寺で、須藤の姿を見た千紗季の母親はぎょっとした。

「せ、正士さん?あなた、大丈夫…?」大丈夫ではなかった。彼の顔は土気色で、幾日も何も食べておらず、げっそりと痩せ、やつれ果てていたのである。

 それでも何とかその後は酒を断ち、食事も少しずつ摂るようになった。新しい職場も見つけた。しかし、須藤の身体は新たな問題に蝕まれていた…


 「リンパ節のしこり。寝汗…盗汗、か。倦怠感。三十八度以上の発熱。そして…」リンパ節のしこりは両脇のみならず、左脚の付け根にも出来ていた。須藤は見つめていた体温計を置き、ベッドから立ち上がって洗面所へと向かう。そこには体重計があった。

「半年で十パーセント以上の体重減少、か…」昨年末からもう、十キロ近く体重が減っていた。

「…体重が減ったのは、彼女が死んで以来ろくに食っていなかったせいかもしれんが。でも」何がおかしいわけでもないのに、須藤は一人笑いする。

「間違いない。悪性リンパ腫だ」


 悪性リンパ腫は、抗がん剤がよく効く。早くから化学療法を始めれば、完治は十分に期待できる。しかし小児病棟時代から、いや学生時代から須藤は、化学療法を行う患者を嫌というほど看てきた。彼らの姿を間近に見て、その治療がいかに辛いものかはもう分かり過ぎるほど分かっていた。もはやこの世にさしたる未練もないのに、そのような辛い治療をしてまで生きながらえるのはごめんだった。それでもとにかく、治療しなかった場合の自分の寿命を訊きに行こうと、ようやく重い腰を上げて彼は病院へ向かった。

 「…治療すれば、寛解、完治の可能性も十分、あるのですよ…!」病院の診察室。治療を拒む須藤に対し、医師が叫ぶ。

「分かっています。でも化療を始めれば、辛い副作用に苦しむ日々が待っている。吐き気、嘔吐、便秘、食欲不振。骨髄抑制(全身の血球が作られなくなること)による貧血、易出血、易感染。脱毛に全身倦怠感、腫瘍崩壊症候群…せめて愛する家族がいれば、これらのことにも耐えて、生き延びようという気にもなるのでしょうけれども…もはや死んでも誰も悲しむ者などいない、天涯孤独の身。国民の税金(=保険料)と自分の、今まで歯を食いしばって稼いできた金を、辛い思いをしてまでこれ以上、自分が生き延びるために使いたくはない…」淡々とした表情でそう語る、須藤の頑なな決心に医師はもう、何も言えなかった…

 その病院からの、帰り道。須藤はガラスに映る自分を見つけた。病みやつれ、痩せ衰えた彼は、あいも変わらず全身、黒づくめであった。職場では白衣やスクラブだが、プライベートでは、彼はいつも黒を着る。

 いつから黒ばかり身に着けるようになったのだろう。ずっと昔、まだ子供の時分から黒い服ばかり着ていたような気もする。彼はファッションにはとんと無頓着である。

 (それとも)と、彼は思う。

(彼女を…百合を、亡くした時からかもしれん。黒は、彼女に対する喪の、証なのか

もな…)

 病院から自宅に帰ってきた須藤は、崩れ落ちるようにベッドへと倒れ込む。

 「ああ…」一人、彼はつぶやく。

「生まれたときから、この汚れた世に幻滅して死にたい、死にたい、とずっと願ってきたというのに…もう、この世に何の、未練もないと思っていたのに…いざ死を宣告されると、どうして…死にたくない、まだ生きたい、生きていたいと、思ってしまうのだろう…!」枕に顔を埋め、須藤は慟哭する。

「死ぬのは、嫌だ…ああ…百合…千紗…」



 桜の花が散るころ、ある病院の緩和ケア病棟に、一人の男が入院してきた。

 その男の表情はとても暗く、その瞳には深い悲しみと愁いを讃えていた。本当に孤独の身らしく、彼の個室には家族も友人も見舞いには来なかった。常に病室に閉じこもりきりで、他の患者やスタッフとも言葉を交わすことはなく、いつもベッドに横になっているか、持ってきた本を読みふけっているかであった。

 「おはようございます。ご気分はいかがですか」朝、その男の病室を、看護師が検温のため訪室する。

「ああ…」窓の外を眺めつつ、心ここにあらず、といった体で男は力なく答える。

「血圧測りますね。朝食は召し上がれましたか?」若い看護師の声掛けに、男はふと笑みを漏らす。

「まさかこうして、自分が看護される身になるとはな。つい一年前まで自分が働いていた病院で…ここにきて、何年になる?」

「私ですか?まだ、2年めです」いつもは無口な患者に不意に話しかけられ、看護師はどきまぎして答える。答えつつ、彼女は

(なんてあの人によく似ているのだろう)と思った。

(その、どこか悟りきった、超然とした態度と言い…品のある物腰と言い…家族も誰も、見舞いに来ないところと言い…余命を、宣告されていることと言い…ここに来ている人は皆そうだけれども…違うのはちゃんと朝起きていて、読書するところくらいか…?ああでも、何よりもよく似ているのは、その眼、その…ひどく寂しそうな、その眼…)

 「そうか。じゃあ、俺のことは知らんよな…」男は、ひどく悲しげな笑みを浮かべながらつぶやく。

「この話は知っているか。去年、この病院に勤める1人の若いナースが、妊娠8か月となり産休を迎えた。産休前最後の勤務が終わり、自宅に向かう途中、そのナースは駅のホームから転落し、電車にひかれ重傷を負った。腹の中の赤ん坊は即死、彼女も勤め先の病院に、つまりここに運ばれたが、間もなく死亡した…」

「え、ええ。何となくは。噂で…確か、その人の相手もここの看護師だったとか…」

「その相手の男が、俺よ」そう、この男こそ、須藤正士その人である。

 須藤の告白に看護師は驚きつつ、けれども何かを悟ったかのように

「ああ!そう、そういうことだったのね…やっと分かった」と言った。

「何だ?」と、須藤。看護師は少し躊躇していたが、やがて意を決し、話し出した。

 「あなたは…須藤さんは、私が知っている人によく似ているんです。その人は、うわべは陽気に振る舞っていたけど、その眼はとても悲しげで、寂しそうだった。あなたと、同じ眼をしていた」

「死を目前に控えた人間は、皆そのようなものではないか」看護師の言葉に、須藤が口を挟む。

「ええ。私も最初、そう思っていました。でも、それだけじゃない。気を悪くしたら謝ります。でもあなたは、とても暗く、悲しい過去を抱えている。人を深く、深く愛し、そのために深く傷ついたことがある。そうでしょう?あなたは愛する人と、生まれてくるはずだった我が子を、一度に亡くした…その、私が知っていた人も昔、愛する人を子宮外妊娠で、生まれてくるはずだった我が子と共に、喪ったことがある…」

「子宮外妊娠…それで母子共に亡くなるなら、おそらく卵管妊娠で多量出血だな。それだと、生まれてくるはずの子の性別は分からなかっただろうな…俺は、知っていた。俺達の子供は、男だった」須藤は、そこで一度息をついた。しばしの沈黙。やがて、須藤が再び口を開く。

「…その人の不幸は、それだけか?俺は、それ以前にももっと、不幸を味わったことがある」かなり、皮肉めいた口調であった。

 その言葉に、まだ若い看護師は、ついむきになって反論する。

「ええ、ええ!もちろん、それだけじゃありませんでしたよ!その人の不幸は…あの人は、あまり多くを語ってはくれなかったけど…辛い時を経て、でもその女と出会って、やっと幸せになれるところだったんです。でも、その女は、あのようなことに…それで彼は、元々妄想的なところがあったけれども、さらに精神を崩壊させて、発狂して…それで、精神病院に運ばれたんです。その上そこで、エイズだということまで発覚して…」

「…検温に、時間がかかり過ぎている。早く終わらせた方がいい」須藤がそこで、彼女の言葉を遮る。看護師は我に返り、慌てて口を閉じた。

「まだ疼痛の程度について、訊いてないな?…今はそれほどでもない。痛くなったら、また頼む…また、その時にゆっくり話そう。ここに来て以来他人とろくに口をきいていなかったが、こうして人と交わるのも悪くない…君の名は?団野さんか」

 団野看護師は須藤に、黙っておじきをして、たまっている業務を片付けるため急いでその場を離れた…

 この時を境に、二人は互いに言葉を交わすようになった。


 「…数年前の事件の判決が、ようやく出たそうだな。覚えているか?看護学生の、友人殺し。無期懲役だそうだ…俺の母校の学生だ。後輩だった…」新聞を見ながら、須藤は団野に話しかける。須藤は随分と衰弱していた。それでもまだ、こうして新聞を読んだり、人と言葉を交わす体力は残っていた。

「ええ…私の、先輩でした」団野も答える。

「そうか…被害者も気の毒だが、俺はむしろ加害者の学生に、同情を禁じずにえない。彼女の母親は精神障害者で、娘を顧みることが出来なかった。彼女はネグレクト(育児放棄)の、被虐待児だったわけだ。俺と、同じだ…俺もあと一歩道を踏み外せば、人を殺めていたかもしれない」須藤は、しみじみと語る。

「…世間は彼女を極悪人のように言っていたが、俺は決して、そうは思わんよ。彼女はただ、人から愛されたかっただけだ。被害者とは親友であったという。おそらく彼女は、その親友を愛しすぎたんだろう。愛が重すぎて憎しみに代わることは、神代の昔からよくある話だ。あわれな娘だ…母親の方も散々、叩かれていたな。自分には育てられないと分かっていたくせに子供を産んで、挙句の果てに殺人者にしてしまうとは何事かと…俺は、母親の気持ちも痛いほど分かる。おこがましいかもしれんが。俺も子供が出来たとき、自分はよい父親になれないと分かっていながら、彼女に産んでほしかった。自分の、血を分けた我が子が、見たかった。父親でさえそうなのだ。ましてその身に生命を宿した、母親は…」彼は遠い眼をしていた。おそらく、過去を振り返っていたのであろう。

 「私は…その人を知っていました」団野が、ふいに口を開く。

「二年上の、サークルの先輩でした。私は、その人のことは良く知らなかったけど…けれども、とてもそんなことを、人殺しをするような人には見えなかった。普通の、看護学生でした。もっとも、普通の人、普通に見える人こそが人を殺すのかもしれませんが」そこで一度言葉を切り、ややためらってから団野は次の言葉を続けた。

 「私は、その人のお母さんも知っていました。精神実習の、受け持ち患者だったんです。そのことは、実習がすべて終わってから聞きました。若くして発症した統合失調症患者の常で、精神的に幼かったけれども、とても思いやりのある優しい人でした…言われてみれば、その先輩に少し似ていたかもしれません。顔だけではありません。もっと奥の、深いところです。一見正反対のようでいて、実は根っこのところは同じ…それに…あの人にも、須藤さんにも、よく似ています」

 「どこが?」須藤が、怪訝な顔で問う。

「辛く、悲しく、痛む傷跡を隠しほほ笑む優しさ、強さを持っているところです…それが、彼らの最大のストレングス…看護師ならその言葉の意味はご存知でしょう…強み、です」優しく、須藤の手に自身の手を重ね、なおも彼女は一言一言、噛みしめるように言葉を続ける。

「…彼らは、誰よりも繊細で、純粋で…優しすぎるんです。だからこそ傷つくことを恐れ、他人に心を閉ざし、冷たく振る舞ってしまう。そんな彼らを嫌い、憎む人も大勢いるで

しょう。でも、たとえほんの一部であっても、その存在に救われ、彼らがいなければこの世はどんなにかつまらないものになっていたであろうと思う人だっています…私が、そのうちの一人です」

 団野の言葉に須藤は胸を突かれ、はっと息をのむ。それでもにじむ涙をごまかそうと、彼は意地悪く言う。

「…どうせ、君も俺のことを、可哀そうな人間だと思っているのだろう?」

「そんな…!」団野が、抗議の声を上げる。

「違うか?38という若さでこんな病気になって、見舞いに来る家族も友人も、恋人もいない。どうせ俺が死んだところで、涙を流す者は誰もいないであろうよ。きっとこの病棟中の人間が、俺のことをさぞ不幸な人間と思っているのだろう」そう言って、須藤は団野を見下すように鼻を鳴らす。それから自虐的な笑みを浮かべ、再び口を開く。

「確かに、俺は不幸だ…実の親からは愛されず、学校では苛められ…味方をしてくれた人は、この世に生まれてから15年間で、たった1人だった…その人も、その10年後に我が子共々、人生に絶望して生命を断った。看護師になってからも、問題を起こして…人に辛く当たっては嫌われ、常に孤立していた。生まれ育った家族とはとうに縁を切り、友人は、学生時代にはそこそこいたが、社会人になってからは作ろうという努力もしなかった。俺はあんまりもてる方じゃないんだが、それでも物好きな女は何人かいてね。そういった女達とは、俺も男だ、肉体関係は持ったが心までは決して開かなかった。こうして結婚もせず、子供も持たず…それでもようやく、俺を理解してくれる人、俺のそばにいてくれる人、俺と結婚までして、子供まで産んでくれる人という人に、巡り合えたかと思ったら…あんな、無残な形で、奪われてしまうとは…!挙句の果てには、こんな病気になって…なあ?」と、皮肉交じりに語り、乾いた、悲痛な笑い声をあげる。

「…それは、違います!」いてもたってもいられず、団野は反論する。

「確かに…確かに、あなたは人よりも多くの痛みを、悲しみを、孤独を味わった。でも…私はあなたが、不幸だとは思いません。あなたは、愛を知っている。たった一つでもいい、愛するものを見つけて、そのものへの愛の蜜に溺れ歓び傷つき、そして孤独の盃を飲み干す方が、愛も孤独も知らずに生きるより幸せなんです…同じです…あの人達も…!彼らは、人を愛しすぎた。だからより多く傷つけ、傷ついた。人を愛しすぎた分、その孤独もより一層深まった。それでも私は、彼らが不幸だったとは思いません。幸せだったんです。人を深く、深く愛することが出来て。幸せ、だったんです…!」感情が高ぶるあまり、もう、彼女は泣いていた。

 昔、須藤は似たようなことを他の誰かから聞いたことがあるような気がした。いや、聞いていた。彼は団野の濡れた瞳を、食い入るように見つめた。

「す…須藤さん。そんなに見つめられたら、恥ずかし…」そう言って、団野は目をそらそうとする。

「俺から目をそらすな」須藤が静かな、けれども有無を言わせぬ声で言う。

 須藤の濡れた、感情を内に秘めた瞳の奥に団野は、彼が自分ではない、愛しい人を見つめているのだと分かった。

(ああ…あの人と、同じ…彼も私の奥に、私ではない人をいつも、見つめていた…)

「彼女と同じ目をしている。オーン…スニョラル…ボーン…(បងស្រឡាញ់អូន)」

 須藤は団野がそのクメール語(カンボジア語)を知らぬと思っていたのかもしれない。だが彼女は、その言葉の意味を知っていた。

「愛している」

登場人物紹介

須藤正士すどうせいじ

 本作の主人公。看護師。本来は繊細で心優しい性格だが、過去のある事件がきっかけで他人に心を閉ざした冷酷な人物となる。


馬場千紗季ばばちさき

 本作のヒロインで、須藤の後輩看護師。最初は他人にひたすら厳しい須藤を苦手としていたが、後に彼の恋人となる。須藤よりも11歳年下。


檀明子だんあきこ

 須藤、千紗季らの勤める病院の副院長兼看護部長。かつては小児科の看護師長であり、須藤の過去を知る数少ない人物。千紗季の母校で小児看護学の教授をしていたことがある。


あかつき

 千紗季が看護大学1年の時の実習担当看護師。彼女に須藤の悪評を教えた最初の人物。


藤井佳織ふじいかおり

 千紗季の同期で友人。NICU(新生児集中治療室)勤務の看護師。


江原(後に堀田)百合(えばら(ほった)ゆり)

 須藤とは中学の同級生にして、彼の初恋の君。


堀田遥人ほったはると

 百合の息子。


団野だんの

 緩和ケア病棟勤務の看護師。


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