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反転

作者: ぬぬぬ

 生粋の引きこもりを自称するわけじゃないけど私は引きこもりだ。

小学校の途中で引きこもり、中学校は入学のみの登校はゼロ、素晴らしきかなマイホームにて引きこもりの毎日を送っている。

引きこもった理由は諸説様々、まあ有体に言ってしまえば面倒臭くなったのだ。

学校に通って人間関係という荒波にもまれて日々小さな悩みを抱えさせられる、そんな毎日に嫌気が差してしまったのだ。

いやはや全く、小学校という恐らく小さな社会ですらそんなことになってしまうのだから、きっと社会人ってのはもっともっと大変で、毎日悩みばかりが膨らんで、ほとほと溜息すら出ない毎日なのだろう。

そこまで悲観したわけじゃないけど、兎にも角にも私は引きこもった。

どういった過程があったのか、もしくはどういった幸か不幸か、知らぬ間に中学生になっていた私は入学式さえも不登校で引きこもりを徹底したのだけど、そんな私を訪ねてくるのが弓ちゃんだった。

弓ちゃんは記憶にはないけど風に聞いた話だと幼稚園からの付き合いで、小学校、まだ普通に登校していた頃は一番お喋りに興じる仲だった。小学校低学年ならまだしも高学年になってもおかっぱを頑なに貫く頑固者、きりりとした眉の割合に弱気で体格さながらの脆弱さを醸す、何だか変てこな女の子だった。

これは思い出せる弓ちゃんとの会話、その一場面だ。

「あのさー、弓ちゃんって好きな男子とかいるの?」

「……え? え、えっと……い、いないよ」

「名は体を表すの模範解答みたいだね。え、誰なの?」

「えっ? い、いや、いないって。私は、ほら、別に……ね? あ、とこちゃんは? いるの?」

「神妙すぎる路線変更はともあれ、その気持ち、叶うといいね」

「えっ、えっ、いや……いや、いやいやいや…………」

 弓ちゃんの顔は真っ赤で頭のてっぺんからは湯気が上りそうだった。クラスメイトの誰ともお喋りすれば大小関わらず悩みを抱える私が唯一、気楽に話せる仲だった。

なんかこう、気持ちがざわつかないのだ。

例えば私は、こんな発言に気持ちをざわつかせる。

「朝戸君っていいけど、ちょっと空気読めないよね」

「とこちゃんって、弓ちゃんと仲がいいの?」

「もう宿題ばっかりでうんざりだよ」

 ああ、ああ、そういうのが嫌なのだ。

他愛のない世間話であることは分かっている。およそ上辺だけの何となくの発言だってのは十分理解している。

でも、でも私はそういう発言が嫌なのだ。

どうしても気持ちをざわつかせてしまうのだ。

もちろん私の発言も私自身をざわつかせる類であることは分かっている。私の弓ちゃんに対する発言だって、弓ちゃんが相手だからこそ言えることであって、対象が私だったならきっとざわつくだろうなっていうのは分かっている。

それでも、どうしようもないのだ。

私はどうしたってそういった発言を受け入れられなくて、もはや拒絶したくて、そりゃ引きこもるしかないって状況に陥ってしまったのだ。

で、そういったあれこれは置いておくとして、なんと私は反転した。

気付いた切っ掛けはただただ単純な痛みだった。

 相変わらずの引きこもり生活、一日を終えてベッドに寝転がってすやーっと眠って、いきなり背中に衝撃が走った。

「いたあ!」

 寝ぼけ眼なのに痛みで全力発声、それほどの痛みだった。

背中から全身に走った衝撃は相当なもので、ついつい全力で痛みを声に出したのだけど、鮮明なほどの目覚めから得られた視界は奇怪なものだった。

ベッドが視線の先にあった。

あんまり意識したことはなかったけどベッドから天井までの距離はおよそ二メートルくらい、その間隔にベッドがあった。

つまり私は天井からベッドを見下ろしていた。

「……ん? んん?」

 後頭部に感じる痛みさえ曖昧になるほど困惑した。

天井からベッドを見下ろしている? それって私が天井に張り付いているってこと? どうして? 家が真っ逆さまになった?

疑問は勢いよく吹き込んだ風船みたいに膨らんだものの、八分くらい経てばいくら愚鈍な私でも状況を認識できた。

私が反転したのだ。

疑問の中の一点が正しく、私が天井に張り付いたのだ。

で、逆さになった私の生活に変化は生まれなかった。

そもそも引きこもっていたのだ。家から出ないことを徹底していたのだ。反転したってそれは変わらないし、床が上下反転しようとも、生活に変化は生まれなかった。

まあ、もちろん不便ではあったけども。

何しろ床が天井になっちゃったのだ。今まで天井にしていた領域が床になったのだから、その苦労は艱難辛苦って言葉が似合うだろう。

まず問題となるのは反転したのが私だけってことだった。生きる上での最低条件、食事をしようって思ってもご飯はテーブルの上にある。反転している私は天井から食事を試みるのだけど、背伸びをしたって皿まで手が届かない。

いくら引きこもっていたって最低限の女子力は欠かせない。一日一回はお風呂、或いはシャワーを浴びたいのだけど、天井を歩いて浴室まで辿り着いても湯船には浸かれない、シャワーを浴びるのさえ苦労する。

ベッドで寝たいっていう最低限度の願望さえ叶わない。掛け布団にぐるぐる巻きになって天井で寝る有様だ。

ああもう、ああもう、不便極まりない。

どうして私は反転しちゃったのさ!

悪態をついて現状に不満を発露させ、もう嫌だ! と思っても私の反転は変わらない。けれども慣れってのは遺憾で、同時に寛大だ。

反転にさえ、私は慣れるのだ。

逆さになっても食事はできる。飲み下すのに力を要するけど、飲み込んでしまえば反転するようで、食物はすっと胃に落ちていく。水分も同様で、ストローを用いれば飲み下すことができる。

ささやかな女子力もシャワーで何とかなる。ノズルを天井に向けて強めに湯を出せば解決だ。

眠りに関しても同様、掛け布団で簀巻きになれば暖かく眠りを享受できる。掛け布団を手にするには多少の工夫、何故だか部屋にある孫の手を四苦八苦させる必要はあるけど、慣れれば何てことはない。

反転したところで私は引きこもりを続けられるのだ。

いや、反転したからこそ私は引きこもりを続けざるを得ないのだ。

何故なら、天井がなければ私はどうなるのか? そこが予測できないからだ。

例えば気ままに外出したならば、私はどうなるのか? 天井がなければ、そこには空しかない。

私は空に落ちていくのだろうか。

それってつまり、死ぬってこと? さすがに反転したまま落ち続けて宇宙にまで達すれば私は死ぬだろう。そういう死があるのかは定かじゃないけど、試してみたいとは露にも思わない。

私は死にたいわけじゃない。

ただ引きこもっていたいだけなのだ。いつまで続くのかは分からないけど、引きこもって心のざわめきを生じさせたくないだけなのだ。

なのに、弓ちゃんが私を誘う。

「……は? はあ!?」

 ある日、引きこもりの私を訪ねてきた弓ちゃんは反転している私と直面して驚きの声を上げた。

如何ともし難いと思いつつ、なるほどなと思った。

「……え、え、とこちゃん、天井に……え? え?」

 天井に立つ私と玄関口に立つ弓ちゃんの視線は不思議なほど直線で、お互いの身長差を殊更に意識させた。

「どうしちゃったの!?」

 それはこっちが聞きたいよ、という言葉を飲み込んだのは秘密だ。

それを聞いちゃったら、私に生じた反転が意味不明なもので、私自身でさえ認識不能なもので、弓ちゃんに殊更な混乱を生じさせるのが肌に感じられた。

私は弓ちゃんと気軽に付き合いたいのだ。

小学校低学年からの付き合いを大切にしたいのだ。それを崩すような事柄はなるべく排除したいのだ。

それなのに弓ちゃんと会ってしまったのは、失敗だったろうか?

会わなければ、直面しなければ、電話やメールでコミュニケーションを継続させていれば、私と弓ちゃんの関係に変化は生じなかった。

なのに、会ってしまった。

なんで会ってしまったんだろう。

引きこもりの生活を続ける上で弓ちゃんが私を訪ねることは多くあった。およそ三日に一度、弓ちゃんは私を訪ねてきた。

「……学校には、来ないの?」

「ん、行かないねー」

「えっと……どうして?」

「さあ、どうしてだろうねー。何となく嫌だからかな」

「……そうなんだ」

「そうだね」

「…………私は、寂しいよ。来てほしいと、思ってる」

「ん、ありがとー」

 私の適当さに腹が立つ。

弓ちゃんは似合わないほど眉をしかめていた。本当に苛立たしそうだった。それなのに私は諸々の葛藤を、小さすぎる悩みを吐露するでもなく引きこもりを貫いた。

その罪悪感が反転した私と弓ちゃんを対面させた?

分からない。

私は私が分からない。

でも、反転した私と弓ちゃんは出会ってしまった。

その出会いが全てを解決させたのは、恐らく偶然だったんだと思う。

「あのさ。一つだけ疑問があって、私は家を出たらどうなるんだろう」

 弓ちゃんは殊更に悲痛な表情を浮かべた。

「空に落ちるのかな。それとも、ある時点で更に反転して、地面に下りるのかな?」

 どっちにしろ、私が家から出るという、ただそれだけの実行で生死を左右する何事かが訪れるのだと思っていた。

 別に落ちたかったわけじゃない。死にたかったわけじゃない。ただ単純に、反転している私を受け入れている、もしくは拒絶している弓ちゃんに答えを示したかったのだろう。

結果は、ないがしろになった。

何もかもを試してもいいと思えるほど私は何もかもを諦めていたし、どうなったって構わないと諦観していた。

だから私は何度目か、訪ねてきた弓ちゃんの目の前で窓を開け、そこから外に飛び出した。

引きこもりの私が家から飛び出したのだ。

結果、どうなったか?

どうにもならなかった。

私は私に訪れた反転をそのままに空へと投げ出された。ああ、やっぱり落ちるんだなと諦めながら空へ落ち、どこまで行くんだろうと考えたけど、弓ちゃんによって考えは遮断された。

「駄目だよ!」

 窓から飛び出した私の両手を握り締めた弓ちゃんの体温は決して忘れない。

空へ落ちる私の両手を握り締めた弓ちゃんの体温は忘れられない。

温かい感触によって落ちる感覚は遮断された。すっと体温が引き、落ちる感覚は弓ちゃんによって打ち消された。

弓ちゃんも窓から飛び出し、落ちる私を頑なにつなぎとめたからだ。

およそ体重ってのは重要だと思う。重すぎれば体に負荷を生じさせるし、軽すぎても負荷を生じさせる。

そういった意味合いで私と弓ちゃんはベストだった。

落ちる私と引き留める弓ちゃん。

私たちの体重は均衡していた。

故に私は落ちず、弓ちゃんも落ちなかった。

私と弓ちゃんはお互いの限界を知らしめるほど両手を握り締めながら、双方に落ちるでもなく拮抗した。

窓の外で浮いたのだ。

私は空に引っ張られ、弓ちゃんは地面に引っ張られた。

相互作用で、絡め合わせた両手がぎしぎしと痛みを訴えるほど拮抗した中で、私と弓ちゃんは浮いた。

もうほとんど、奇跡だったんだと思う。

で、結果、このようなやり取りが行われた。

「駄目! 駄目だよ! とこちゃん、行かないで!」

「とは言っても、どうしたって落ちちゃうんだよ」

「じゃあ、落ちないで!」

「え、いや、そう言われても……」

「落ちないで! お願いだから! これからも一緒にいたいから!」

「ん、んん、私も同じ気持ちなんだけど、こればっかりは…………」

 どうしたって落ちていくんだから、どうしようもない。

そう思った私の目の前で繰り広げられたのは、弓ちゃんの心が痛くなる表情だった。

涙が溢れ、きりっとした眉が八の字になり、痛いほど握り締められた両手で、どうしたって裏切れない切実さだった。

途端、すっと落ち着いたのは出来心だったろうか。

あれ、これは落ちれないな、私ってば弓ちゃんをほったらかしにして落ちるって、そんな選択肢はどこをどう探してもないなって想いだったのだろうか。

気付けば衝撃に身を委ねていた。

「いった!」

 余りの衝撃にそう口走ってしまうほど痛い思いをした。

何しろ弓ちゃんでさえ言ったのだ。

「痛い! 背中が!」

 なんと倒置法、意外に余裕があるんじゃないかと勘繰る弓ちゃんに私は覆いかぶさった。

反転が解けたのだ。

私は重力に従って落ち、弓ちゃんをクッションにそこはかとない痛みを感じた。

重力+私の重みを受けた弓ちゃんの身は慮るしかない。

 二人して同じ方向に落ちて、双方の痛みの訴えの後、けらけらと笑った。私は泣いていたし、もちろん弓ちゃんも泣いていた。

 なんで泣いたのかは定かない。

で、私は今も不登校を続けている。引きこもりも真っ最中で、どれだけ急かされても学校には行かないし、行こうって気持ちにもなれない。

そんな私を弓ちゃんが訪ねてくる。

「おはよ」

 くっきりとした眉で明るく接してくる弓ちゃんを、私はどうしたって裏切れない。

「ん、おはよ」

 反転しなくなった私は、心持ち視線の行く末を反転させて応じる。

 せめてもの抵抗と思ってもらって致し方ない。

たかが奇跡、されど奇跡、あの時に生じた反転は私と弓ちゃんだけの秘密で、高校生になっても変わらないし、私の引きこもりも変わらない。

 ただのそれだけの話だけど、私が地面を踏み締めて立っているのは弓ちゃんのお陰ってことを、密やかに自慢したい。

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