深緑
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「どうしよう……」
ぽつり、そう呟いた奈津は読みかけの文庫本へ、べたりと顔を埋めた。
放課後の暇つぶしにと図書室へ来てページを捲ってはみるものの。内容は全く頭に入らず、文字の書かれた紙の上をひたすら目が滑っていくだけ。
ぐるぐる悩む奈津の頭の中には、奈津を散々振り回してきた身勝手な男、朔夜が初めて見せた拒絶の姿勢が焼き付いて離れない。
直ぐに元通りになると思っていたなんて、甘かったのだろうか。
次の日になれば、いつものように飄々とした態度で奈津に声をかけてくると思っていた。思っていたのに、その日1日、朔夜は奈津に声をかけるどころか目も合わせなかった。
それ以来、奈津は朔夜と目を合わせていない。
朔夜のあの金色がきらめくアンバーの瞳に拒絶の色が浮かべられたら、奈津はきっともうどうしていいか分からないだろう。
……今も、どうしたらいいかなんて分からないのだけれど。
こんな風に悩んでいる自分自身がなんだかひどくみじめに見えて、奈津はそれを振り切るようにぱん、と勢いよく文庫本を畳む。
途端、くすくすと響く笑い声。
声の主に視線を上げると、そこには予想外の人物が立っていた。
「桐生、随分荒れてるみたいだね」
穏やかに凪いだ瞳を細めて苦笑する原直人に、奈津の頬には恥ずかしさからの赤みがさした。
「先輩っ、受験は……!」
「推薦とったんだ」
季節は冬。
三年生は受験のはずじゃ、と声を上げかける奈津に笑顔でさらりと告げる直人。それを聞いてこの人は頭が良かったんだと今更ながらに思い至り、素直に成る程と頷いた。
にこにこ笑いながら歩み寄ってきた直人は、流れるような動作で奈津の隣へ腰掛ける。
「どうしたの。何か悩み事?」
「えっと、その」
直人に朔夜のことを話すのは何だか気まずくて、視線を周りの棚に所狭しと詰まる本の背表紙へと滑らせる。それでも口元に微笑みを浮かべて答えを待っている直人に、渋々重い口を開いた。
「少し、考え事していて」
うろうろと視線を迷わせながら濁した答えを返す奈津は、直人の眼に自分がどう映っているかに気を回す余裕がない。珍しく歯切れの悪い奈津の返事に首を傾げた直人は、思案するように顎に手を当てた。
「ふうん? 珍しいね、桐生がそんなに迷ってるの」
「やっぱり、そう思いますよね」
直人の言うとおりだと息を詰まらせた奈津は、きまり悪げに手の中の文庫本を弄ぶ。基本的にはっきりものを言うたちの奈津なのに、答えを濁す珍しい姿に直人はもう一度首を傾げた。
「桐生はどうしたいの」
柔らかな風のように穏やかに耳を擽る直人の声に顔を上げると、きっちりと締められた直人のネクタイが目に入った。第一ボタンの上まで律儀に上げられたそれは三年生を示す深緑色。奈津たち二年は群青、一年は臙脂となっているネクタイ。
それは奈津たちの学校内で、カップル同士で交換すると別れないというジンクスがある。
ぼんやりとそんなことに思考を巡らせていた奈津は、吸い込まれてしまいそうな直人の黒い瞳に覗き込まれてぱちぱちと瞬きとした。
「あ……、分かんないんです。自分がどうしたいのか」
奈津の曖昧な答えに顎に手を当てたまま頷いた直人はそれならさ、と明るい声を上げた。
「目一杯考えればいいよ。桐生が納得するまで。どうしたいのか、分かるまで。それもひとつの手だしね」
そう言って目尻を下げて朗らかに笑う。自然に奈津の頭に手を置いた直人は艶やかな濡羽色の髪を柔らかく撫でた。
「ね? 本当に迷って迷ってどうしようもなくなったら、俺が助けになるよ」
以前の奈津なら、こんな所を直人に見せたりなんてしなかった。何事もそつなつこなす完璧な直人の前では、奈津も同じように、少しでも直人に見てもらえるように、完璧でありたかったから。
なのに、今は。
何かあったら何時でも連絡して、と腰を上げかけた直人の深緑のネクタイが、ふと奈津の目に留まる。
「三年生は、もうすぐ卒業なんですよね」
「……そうだね。これから自由登校になるだろうし。またね」
先輩は居なくなる。もうこうやって気軽には会えなくなる。言外に告げる声を知ってか知らずか奈津の視線を追って自身のネクタイへと目を落とした直人は落ち着いた光沢を放つそれを撫で、ひとつ手を振って図書室から出て行った。
静かになった図書室。奈津は手の中の文庫本を弄び、再び自身の思考の中へと沈んで行く。近づいてくる卒業や、胸の内に淡く抱えていた直人への想い、隣にいるのに酷く遠く感じる朔夜の存在。
それらが全部ごちゃ混ぜになって、一番先に出た答えに奈津は自分が信じられなかった。不意に出た、奈津が今一番、真っ先に思い浮かぶこと。
それはきらきらと色を変えるアンバーの瞳を持つ、柊朔夜の存在だった。
「……っ、どうしよう……」
どうでもよかった筈なのに。急速に奈津の心に近づき入り込んできた掴み所のない存在は、いつの間にかしっかりと奈津の中に根を張っていた。
直人の卒業よりも、朔夜との溝の方を重大に受け止めている自分がいる。
それに気がついてしまった奈津は、どうしたらいいのかと再び開いた文庫本へと顔を埋めた。