真紅
「貴女、自分は朔夜に釣り合っているとでも思ってるの?」
真紅に染まった厚い唇が艶めかしく動く。
人気の無い裏庭。体育館の陰に連れて来られた奈津は香織と名乗る女のそれをじっと見つめ、少し考えてから小首を傾げた。
「釣り合うって、何の話だ?」
「は?」
奈津が全く物怖じしないのが予想外だったのか、女は戸惑ったようにマスカラがたっぷり塗られた睫毛をばさばさ開閉させた。そして我に返ったように、眼光鋭く奈津を睨む。
「あっ、貴女ね、私は先輩よ!? 敬いなさいよ! それに、知らないとは言わせないわ。貴女のせいで最近、朔夜が遊んでくれないんだから!」
「敬う要素が見つからない。それに、柊に迷惑しているのは私だ」
自分のスタイルを誇示するように腕を組んで胸を反らした香織に、呆れた視線を向ける。朔夜に絡まれるようになってからというもの、このパターンが非常に多い。不機嫌に眉を寄せ、冷たく言い放つ奈津に香織は今度こそぽかん、と口を開いた。
もう立ち去ってもいいだろうか。
奈津がそんなことを考えていると、ぶるぶる肩を震わせた香織は勢い込んで奈津の両肩を掴む。
「なんなのよ、それ! 私が朔夜に相手にされないからいい気味って言いたい訳!?」
「そんなこと、思ってもいな──、っ痛!」
ぎり、と込められた力に。女のよく手入れされた爪が肩に食い込む感触に。奈津は顔を歪めた。
「私が貴女に劣っていると? そう言いたいの?」
纏わりつくような声音でそう言う香織は奈津の肩に爪を食い込ませ、苦痛に歪む顔を見て愉悦の表情を浮かべた。
「少しばかり、調子に乗っているんじゃなくて?」
にい、と唇を笑みの形に歪ませた女が、ぬらりと指を滑らせて奈津の頤に手をかける。
「──あれ、桐生?」
唐突に、その声はかけられた。
声の主は、奈津にとっては余りにも予想外の人物で。
「あ……せん、ぱい。お久しぶりです」
視線の先には、優しげな風貌の男子生徒。
咄嗟に出た奈津のあまりにも場違いな挨拶に、香織は興が削がれたように鼻を鳴らして奈津から離れた。
「くれぐれも、私と朔夜の邪魔をしないでちょうだい」
それだけ言って色の抜けた髪を翻して去る香織に、奈津は何と返していいのか全く持って分からなくて。それよりも、目の前にいる人物に気を取られていた。
「どうしたの、桐生。大丈夫?」
「……はい。最近よくあるんで」
さらさらの黒髪に線の細い身体。柔和な顔立ちを持つその人の名は、原直人と言う。
その人物こそ、奈津の報われない片想いの相手、その本人で。
「最近、か。柊だっけ。その人と付き合ってるの?」
「まさか。有り得ないです。……先輩は、何故こんな所へ?」
ずぐ、と鈍い痛みを訴える胸に、奈津は蓋をした。無理矢理押し込めた感情は、奈津の表情を覆い隠して能面のように冷たく無機質なものへと変えていく。
「彼女の迎えに。バスケ部なんだ」
それに気がつかずに目尻をほんのり染め、照れたようにはにかむ直人に心の底から表情をつくっていてよかったと安堵した。
じゃあ早く迎えに行ってくださいと答えた自分の声が酷く遠く感じる。
水の底に沈んだように、手を振って歩き去る直人が、周りの音が、視界が、全てが昏く閉ざされて。
気がついたら、裏庭には一人きりだった。
ざり、と土を踏む音に、振り返るつもりなんてなかった。
自分の無様な姿なんて、見せたくなかった。
今の自分は酷く脆いことを、知っていたから。
「……何でお前がここにいる、柊」
「そりゃ、奈津さんがここにいるから」
暗い水の底にいたような自分に朔夜の声が真っ直ぐに届いたことに、奈津は気づかないフリをした。
おどけたような声音でそう言う朔夜は、奈津の正面に回るとぐいと手を引いて身体を壁際に寄せる。
何のつもりだと顔を上げると、涙で滲んだ視界の中で朔夜は困ったように眉を下げて笑って奈津の頭にぽんと手を置いた。
それをはねのける余裕は、今の奈津には無い。
「……お前、いつもの勢いはどうした」
「流石に今堂々とつけ込んだら、奈津さんに嫌われちゃうもの。今は側にいるだけ」
だからもっと、俺に弱いところ見せてよ。そう言ってするりと髪に指を滑らせる。
本当にこの男は賢い。今朔夜に迫られたら、奈津は朔夜に堕ちてしまうだろう。けれどそうして堕ちた自分自身を奈津はきっと許せない。
「本当に、卑怯だ」
呆れたように呟けば、髪を滑った手のひらが包み込むように奈津のそれに絡められる。思わず固くなって朔夜を見上げると、朔夜は吃驚するほど優しい目つきで奈津を見つめていた。
「うん。奈津さんだけが知ってる」
酷く甘い声でそう囁いて。何処かあやすように絡められた大きな指先に、奈津はそっと力を抜いて目を閉じた。
香織を密かに気に入っている。




