黒曜
「ねえ朔夜ぁ、遊ばない?」
ぐいと手を引き、身体を押しつけてくる女からむわりと香る人工的な甘ったるい匂いが、朔夜は苦手だった。
「……ね? いいでしょう?」
ぐるぐる派手に巻かれた髪、メリハリのある豊満な躰を朔夜に押しつけ、紅の引かれた真っ赤な唇が妖艶に笑む。伸ばした腕を朔夜の首に絡めてキスしようと力を込める女を、朔夜は女の腰に腕を回すことによって制止した。
「いやだな、香織さんには主将がいるじゃない。俺が怒られちゃう」
「やーよ。今、喧嘩してるんだもの」
冗談めかして耳元で甘く囁けば、香織と言う女は満更でも無さそうにわざとらしくむくれて見せた。それでも熱心に誘ってくる女の目の奥に朔夜を見下した光を捉えて、内心で冷たく笑う。
「じゃあ尚更。殴られるのは趣味じゃないんだ。またね、香織さん」
かきあげられた髪から覗く額に軽くキスを落として腕を解く。歩きながらひらりと手を振ると、残された女は不満そうに口を尖らせていたけれど、機嫌は悪くなっていないようだった。
廊下の角を曲がり、女の姿が見えなくなってからブレザーを脱いでばさりと大きく払う。
微かに香るのは、先程の女の甘ったるい香水の匂い。抱きつかれたから匂いが移ったのか、薄いけれども確かに香るそれに朔夜は顔を顰めて溜息をつき、帰ろうと教室へと足を向けた。
「お、朔夜。この間は本当ありがとな! 助かった!」
「ん、その調子だと上手く行ってるんだ? 良かったね」
廊下ですれ違った、先日彼女との喧嘩の仲裁を頼んできた男子生徒と言葉を交わして、ふと彼の恋人の顔を思い出す。
朔夜の言葉に頬を染めて俯きながら、打算と妥協、朔夜への好意の色を浮かばせた女の子。……あの子、お前の事本当は好きじゃないよ、なんて言ったら彼はどんな顔をするのだろうか。
朔夜が人の感情に無駄に敏いのは昔からだった。
なんでこの人、あの人のこと嫌っているのに仲良くしてるんだろうとか、ああこの子はアイツのことが好きなんだなとか、なぜだか朔夜には、手に取るように分かったのだ。
笑顔を絶やさない方がいいとか、適度に冗談を言って笑わせられると男女受けがいいとか、そんな事に気付くのも容易くて。
剥き出しの他人の感情は朔夜をじわじわ変えていく。
お互いに好意を持ってる男女の仲をそれとなく取り持ったり、にっこり笑って女子ウケを上げたり。たまには馬鹿をやって男子の株を上げるのも忘れない。
結果として出来上がったのは人当たりのいい人気者、“柊朔夜”の仮面を被った“俺”だった。
たまに酷く、息苦しくなる。
誰もいない教室に、笑わなくていいことに安堵して。朔夜はひとり、自分の席についてごつりと額を机に落とした。
「……柊か?」
不意にかけられた声に、思わず身体が跳ねる。
がたっ、と大きな音を立てた朔夜に、声の主は呆れたように視線を向けた。
桐生奈津。周りのクラスメイトと違ってただ一人、朔夜の本質に気づいた女の子。
「奈津さん、まだ残ってたの」
朔夜の言葉に頷いて、さっさと自分の席へ向かうその姿に目を丸くする。帰りに姿が見えなかったから、すぐに帰ってしまったのだと思っていたのだ。自分の席に用があったのか、朔夜に背を向けて何事かをしている奈津の小さな背中をぼんやり眺める。
だからその時、その言葉が口から出たのは全くの無意識だった。
「…………なつさん、好き」
ぽろりと転がった、紛れもない本心からの言葉に動揺したのは朔夜の方で。慌てて顔を押さえて頬にのぼる熱を隠そうとしたけれど、みるみる赤くなる頬を誤魔化しきる事なんて出来ない。
動揺する朔夜を見たことがなかった奈津の、大きな瞳が驚いたように僅かに開かれた。
「うっわ……」
余りの恥ずかしさに机に突っ伏す。視界を閉ざすと同時に、じわりと言いようのない不安が這い出したのに気がついた。
奈津の顔を見て、感情を知るのが、怖い。
奈津に対してまでもそう思っている自分に、嫌気が差す。
近づいてきた奈津の足音が、朔夜の前で止まる。
そのまま何も言わない奈津に恐る恐る顔を上げると、行き当たるのは黒曜石の瞳。その瞳に浮かんだ感情には打算も態とらしい好意も無くて、ただ真っ直ぐに朔夜を射抜いた。
──ああ、奈津はこういう人だった。
「……柊でも、照れることがあるのか」
しげしげと興味深そうに朔夜の赤みの残る顔を覗き込む奈津に、“俺”は心からの笑みを浮かべて。
艶やかな長い髪を緩く引いて机越しに顔を近づけると、ふわりとやわらかなシャンプーの香りが鼻を掠める。
「奈津さんのこと、本気だからね」
奈津の唇の上でそう囁く。
少しでも動いたら、唇が触れてしまう距離。
目に見えて固まる奈津が可愛くて可愛くて。朔夜は喉の奥で小さく笑って、ぺろりとその桜のような唇を舐めた。
「~~~っ!?」
ぶわりと赤くなった奈津から顔を離して、上機嫌でごちそうさまと囁いた。
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