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アンバーの瞳  作者: 尹茅
story:2 色燦々
16/27

橙色

大変長らくお待たせいたしました……!



「今日も君なんだね」


 音もなく引かれた椅子とともに降ってきた、凪いだ湖のように静かな声に奈津はつと顔を上げた。

 慣れた様子で貸出用の端末に手を伸ばすのは、最近では見慣れてきたひとりの男子生徒。向けられてきた視線に、奈津はかるく頭を下げる。


「それ、好きなの?」


 席に着くなり投げられた質問に一瞬、何を言われたか分からなかった。瞳を瞬いた奈津に、最高学年を示す深緑のネクタイをきっちりと纏った先輩は奈津の手にした文庫本の作者を挙げた。

 それはまだ若手の作家の作品で、知名度もあまり高くないもの。加えて奈津が読んでいたものは、名前も知られていないような彼のデビュー作だった。

 図書室という場所柄、無言で頷いた奈津に彼は心底嬉しそうに目尻を緩めた。


「俺も持ってるんだ」


 言いつつ学生鞄から取り出すのは、同じ装丁の同じ本。それは何度も読み込まれたのか、水彩画が彩る装丁は少しだけよれているのが見えた。


「……この本を知ってる人、初めて会いました」

「言葉の選び方が好きなんだ。丁寧で繊細で」


 彼の本を見る目線には、本を慈しむ者に特有のあたたかい色が籠められている。まったく同じ理由でその作家を好んでいた奈津は、今度こそ驚きに見開いた。


 それが、奈津が原直人という存在をはっきりと認識した最初の出来事だった。










「今日もいるの」

「……先輩こそ」


 お互い部活動に入っているわけでもなく、バイトに勤しんでいるわけでもない。そんなふたりが委員会活動に傾ける時間が多くなるのは必然で。

 放課後ともなると、図書室の利用者はそう多くはない。ふたりの間に交わされる会話が増えるのに、大して時間はかからなかった。


「新刊、読みました」

「俺も」


 ぽつぽつと端的に交わされるそれらは、素っ気ないと言えるほど短い言葉の切れ端。けれどひとつひとつの言葉にこめられた色がだんだんと親しみを帯びたものになっていっていることに、きっとお互い気がついていた。

 奈津は放課後の図書室の、オレンジの光が射し込む時間帯が好きだった。柔らかな光を浴びながら本を読むのは、一日のうちのなによりの楽しみでもあった。


 その日、当番であったふたりは書架の整理をしていた。奈津たちの高校の司書はどうやらかなり杜撰な配置をしているらしく、背表紙のラベルが意味を為さない状況にあるのはお互い知っていたから。

 その状態が嫌だと言った直人の言葉は至極当然で、その通りだとこうして書架の整理を始めていた。


「名前順ですらないってひどいよね」

「同じ作者の本ですら揃っていませんし」


 時たま軽口を叩きながら図書を正しい場所へ戻してゆく直人に、配置の違う図書を抜き出す作業を続ける奈津。ふたりしかいない図書室には、本を置く音や足音などの小さな音でもよく響いた。

 本を抱えて書架の間を歩き回っていた奈津は、ふと一冊の本の背表紙が目に留まった。流麗なレタリングで踊るそのタイトルは奈津にとって懐かしいものだった。


 抜き出して表紙を見てみると、思った通り奈津の知っている一冊だった。七羽の蝶が舞うその本は児童文庫ながらも精巧につくりこまれているファンタジーで、高校生の今でも充分に楽しめると断言できる。

 少しだけ。自分に言い聞かせて頁を開いた奈津は、すぐに物語の中へと引き込まれた。息をもつかせぬ怒濤の展開が続いたと思うと、ふっと立ち止まってこちら(読者)を振り返る。

 凛とした姿勢を貫きながらもくるくると表情を変える主人公を幻視して、奈津はほうと息をついた。


「桐生」


 びくっと猫のように身体を跳ねさせた奈津。勢いよく振り返ると、本棚の角から現れた直人が呆れたような半目で奈津を見ていた。


「……せん、ぱい」


 ひとりだけサボっていたことに罪悪感を感じてぎこちなく名を呼ぶと、すたすたと歩いてきた直人はひょいと身を屈めて奈津の持つ本の表紙を覗いた。


「これ、確か児童文庫だったよね。面白いの?」

「私は今でも、面白く読めます」


 読んだことはなくても、どういうものかは知っていたらしい。しげしげと眺める直人に本を差し出すと、受け取った直人はすぐに開いて目を落とした。二、三行に目を滑らせると引き込まれるものがあったのか、本棚に軽く背中を預けると、本格的に読む姿勢に入ったようだった。

 俯いたことで額にかかる髪先に、頁を捲る長い指先に。すべてが柔らかい橙色に包まれた直人に──、柄にもなく見惚れた。


「……桐生、どうしたの」


 不意に上がった直人の視線が奈津を捉える。まるで夢から覚めたかのように、奈津は目を瞬いた。


「あ……いえ、なんでもないです。邪魔でしたか」

「そんなことはないけど」


 少し照れたように頬をかく直人は、読んでいた本を閉じると再び表紙に目を落とす。そこにいくらかの興味の色が含まれているのを見つけて、奈津は自然、嬉しくなった。


「意外と面白いものだね。今度借りてみる、ありがとう」


 ぽん、と額に本を載せられる。慌てて載せられた本をてのひらで押さえると、唇の両端を上げて微笑を浮かべた直人はくるりと踵を返した。


 その背中を見送りながら、心臓がおおきく波打ったことに動揺した。

 今までこんな風に誰かの行動で、自分が乱されることなんて経験したことがなかったから。良くも悪くも周りに興味がなくて、ひとりで淡々と過ごすことが多かった奈津には、恋愛感情というものと縁がなかった。

 けれど知識は持っている。基本的に読む本を選ばない奈津は恋愛小説だって、数え切れないほどに読んできた。だから恋愛感情を表現する言葉の数々は知っている。

 

 そして奈津は自分がいま、それに近い状態にあることを自覚した。

 恋。口のなかでその甘い言葉を転がして、奈津は直人の背を追いかけた。


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