栗色
なにがなんだか、分からない。
どうして自分が死角になっている階段の裏の薄暗い壁際に追い込まれているのかとか、どうして体の両脇には逃げ道を阻むように腕が突かれているのか、という疑問を非常に動揺している今、奈津は解決出来ないでいた。
奈津を壁際に追いやり、腕の中に閉じ込めている張本人である朔夜の端正な顔立ちが、確かな怒りを孕んで上からじっと奈津を見下ろしている。
「奈津さん」
低い囁きが奈津の耳朶を打つ。
ついさっきまで一時限目の授業を受けていたのに、チャイムが鳴り休み時間に入って一息ついた瞬間には朔夜に腕を取られて。苦笑して手を振った宮代青葉や、驚きの表情を浮かべるクラスメイト、教材を手に廊下を進む教師なんかをすごい勢いで通り過ぎ、気がついたら人目につかないこの場所へ連れ込まれていた。
「俺、怒ってるんだけど」
朔夜は静かにそう告げるも、今の奈津にはさっぱり心当たりはない。色んな意味で激しい鼓動を刻む心臓を意識の外に追いやって記憶を探って、確かにひとつだけ、心当たりを見つけだす。
「こ、の間の、席替えのことか? あれは私も悪かったと思って……」
おそるおそる出した声は震えて尻すぼみになり、朔夜に最後まで届いたかどうかも分からない。けれど圧力の増した朔夜の存在が、その答えは不正解だと告げていた。
「それも勿論怒ってるよ。でも今はそれより腹が立って仕方ない」
すうっと目を細めて奈津を見下ろすアンバーの瞳の中で、燃える金色が煌めいている。
あれより怒らせるようなことをしただろうかと必死に頭を巡らせるも、ここ最近は件の席替えの件もあって朔夜と会話すら交わした記憶は無い。困惑したままに朔夜を見上げると、至近距離には苦しそうに眉を寄せた朔夜の顔立ちがあった。
「……柊、どうして怒ってる」
奈津の問いに、更に不機嫌なオーラを倍増させた朔夜はにっこりときれいに微笑んだけれど、その眼は全く笑っていなかった。
「ひいら、」
「朔夜」
唐突に出てきた名前に、訳が分からず眉を寄せる。そんな奈津を見て、朔夜はもう一度、急かすように自身の名を口にした。
「呼んで、奈津さん。俺の名前」
壁から離された片手はするりと奈津の頬に寄せられ、柔らかく撫でられる。俯き影になった朔夜の前髪の隙間からは、縋るような眼差しが覗いた。
それに促されるように、奈津はそっと唇を開く。
「さく、や……」
桜を溶かし込んだように淡く色づく唇から紡がれるのは、甘さの乗った小さな声。朔夜は満足気に目を細め、奈津の頬に添えた手で流れる髪を梳いた。
「もう一回」
「……朔夜」
もっともっとと、強請るように奈津の髪を指に絡めて緩く引く。
「どうして、青葉の名前を呼んだの」
落とされた声は、ざらりとした耳ざわりながら決して不快な類のものではなかった。むしろ背筋が疼く甘ささえ含む低い声に、奈津は無意識のうちにぶるりと身体を震わせる。
「……宮代が言ったんだ。お前の前では自分のことは名前で呼べって」
見上げる朔夜の顔は、先程までのどこか艶めいた雰囲気は何処にも見えない。心底驚いたとでも言うように目を丸くする朔夜を、奈津は眉を寄せて睨みあげた。
「それより、こんな所まで連れて来て何の用なんだ」
しばらくそのまま硬直しているかと思った朔夜は、唐突にばっと片手で顔を隠す。そんな意外すぎる反応に呆気に取られてまじまじと見つめていると、隠しきれていない耳の先まで赤く染まっているようだった。
「さ、朔夜……?」
「うわっ、もう……! 最悪、カッコ悪すぎる俺……」
奈津が声をかけたと同時にその場に力無くしゃがみ込み、自棄になったように頭をぐしゃぐしゃとかき乱す。明るい場所では栗色に輝くその髪は、この暗がりでは焦げ茶に見える。そんな下らないことを考えながら、初めて長身の朔夜の頭を見下ろしていた奈津。
乱されてふわふわと揺れる髪に触れてみたい、なんて。
しゃがみ込んだままぶつぶつと何事かを呟いている朔夜は俯いていて奈津を見ていない。奈津は唐突に沸いた自身の欲求を抑えきれずに、そうっと手を伸ばした。
控えめに伸ばされたその掌が、触れる瞬間。
一通り自分の中で方がついたのか、ため息をついて視線を上げた朔夜とばっちり目が合った。
「……奈津さん?」
「……っ!!」
伸ばしかけた手を思いっきり引いた奈津も、きっと先程の朔夜のように赤くなっているに違いない。困惑したように下から奈津を見上げる普段とは違う朔夜の目線に、更に自分の体温が上昇していくのを感じる。
朔夜はしばらく奈津を無言のまま見上げ、はたと何かに思い当たったのかその頬がふわりと緩んだ。
「どうしたの」
わざとらしく小首を傾げる朔夜は、奈津が何に惹かれていたのか絶対に気がついている。
「な、何でも、ない。 それより、用件は」
ふいと視線を逸らしてそう訊ねると、朔夜は苦々しそうに顔を歪めた。
「青葉に騙された」
「宮代に? 何時だ」
「朝だよ。奈津さんも協力してたじゃない。こうやって青葉なんかに抱きつかれるのを許してさ」
溜息をついて立ち上がった朔夜は、思わぬ言葉に目を丸くする奈津に腕を回してすっぽりと囲い込んだ。慌てて後ずさるも、奈津の後ろには冷たい壁しかない。逃げ場を塞がれた奈津は一応は逃げようと身を捩ってみるものの、何故だか余計朔夜に身体を押しつけるようになってしまい、仕方なく抜け出すことを諦めた。
毎度毎度この男は身勝手すぎるのだ。
そうやって抵抗していた奈津がやがて大人しくなったのを見て、朔夜は小さく笑い声を洩らす。
「ねえ奈津さん。無理矢理だったら、誰にでもこーゆーことさせるの?」
「そんな訳ないだろう。放せ」
「嫌。青葉はよくて俺は駄目とかだったら許さないよ」
朔夜の栗色の髪が、動きに合わせてふわりと揺れた。
ギ、ギリギリ一ヶ月以内……!
学校も始まって忙しくなってきたのでこれから更新の頻度が開きそうです、頑張りますけども!




