泥棒ネズミと眼鏡のレンズ
「誰だっ!! 俺の眼鏡のレンズを盗んでいったのは誰だぁああ!!」
なんともついてない。そう思いながら、間黒はレンズの入っていない眼鏡を手に取った。
「くっそう、最近コンタクト調子悪いんだよ。返してくれよー」
空言に近い叫び声を上げ、失われたレンズを捜し歩く。
だが、一向に見つかる気配がない。ひとまずコンタクトレンズをはめてみるが、やはり見つからない。
アルバイトの時間が刻一刻と迫る。仕方なくコンタクトで外に飛び出す。
ぴったりと張り付く紺色のジーンズ、汗まみれで思わず脱ぎたくなる灰色のトレーナーを我慢し、うっとうしい前髪を振り乱して玄関を開ける。
漆黒の闇夜に降りしきる雨。その雨をよけながらガレージに向かう。
が、さらにそこに待ち構えていたのは、車がないという絶望的事実。
「母さんかよ、まったく、どうすりゃいいんだ」
きっと母親が勝手に買い物か何かに行くために乗って行ったに違いない。
合羽を着て自転車で行くか。そう思った時、ちょうど母親が車で戻ってきた。
「あら、どこか出かけるの?」
無神経な言葉とともに車から降りてくる母親に、間黒の怒りは頂点に達する。
「母さん、今からバイト! 何で勝手に車借りて行くんだよ!」
半分怒りにまかせて母親を半分押しのける格好で車に飛び乗る。
ぶんどった鍵を鍵穴に差し込みエンジンをかける。なんとかアルバイトの時間には間に合いそうだ。
しかし、どうして今日に限って。まったく、こんな不幸になった環境を呪ってやる。
ブレーキを踏む足が重い。暗い世界に一人きり、赤信号の待ちぼうけ。
アルバイトから帰ると、間黒は疲れ果てたのか、部屋に入った瞬間床に倒れこんだ。
睡魔に襲われ、一歩も歩けない。夕食はアルバイトの途中に食べた。風呂は……明日の朝入ろう。
コンタクトレンズだけ外して手が伸ばせる距離にある本棚の片隅に置くと、そのまま力が抜けてしまった。
今日はいいことがなかったのだ。アルバイト先でもミスした挙句変な客の相手させられるし、店長から大量の仕事押しつけらるし。
せめて今日の夢の中だけは……
気が付くと、目の前には木張りの天井に、古臭い照明が一つ。
わずかに揺れる照明からぶら下がる紐を見ながら、一瞬ここはどこだろうと考える。
少しだけ首を倒すと、見覚えがある机に見覚えがある本棚。
「ああ、自分の部屋か」
ぼそりとつぶやくと、間黒は重い体をゆっくりと起こす。
小説でも書こうか。そう思って机に向かうと、眼鏡のフレームのそばに厚い透明のガラス板が見えた。
「あ、これは……」
そういえば、眼鏡のレンズを無くしていたのだった。何故こんなところにあるのに、気が付かなかったのだろうか。
いや待て。フレームの近くは探したはず。じゃあ一体……
そんなことを考えていると、机の片隅からネズミが数匹やってきた。
しかし、よく見るとなんだかアニメで見るようなネズミだ。何ともかわいらしい。
が、そんなことを考えていると、なんとネズミはフレームの近くにあったレンズをもってそのままどこかに立ち去ろうとしていた。
「ちょ、ま、待てよネズミ!」
そう言って手を伸ばす間黒をあざ笑うかのように三匹のネズミは逃走していく。
「今日は伊達眼鏡にしときな、伊達男」
そんな意味不明なフレーズを残し、ネズミたちは去って行った。
「くっそう!ネズミ、貴様らぁ~」
間黒は自分を完全に舐なめているネズミに怒り狂い低い声で呟くと、ネズミたちが逃げて行った先を追った。
真っ暗な空間、そこに懐中電灯の光を照らすと、さっきのネズミたちの姿があった。
さらに奥を見ると、そこにはぜいぜいと苦しそうに息をしている母ネズミが。
「母ちゃん、もう少し集めたら、暖かくなるからね」
ぼそぼそ聞こえる声から聞き取れたのは、そんな声だった。
そっと懐中電灯を消すと、かすかに見える光。ネズミたちが去った後にもう一度懐中電灯を照らすと、母ネズミの上に、レンズが載せられていた。
どうやら、レンズを集めたのは太陽光で母親を温めるためだったようだ。
「ネ、ネズミー! 俺はこんな母親想いなネズミを見たことないぜ!」
思わず熱いものが込み上げる間黒。
しかし、次の瞬間、戸棚にあった殺虫スプレーを取り出し、穴に吹きかける。
「だが、仕方ないんだ。俺にはメガネが必要なんだ。可哀想だとは思っている。あぁ、人間はなんて……」
そして、何故か机の中にあったピンセットを使い、そっと母ネズミの上に載っているレンズを取り出した。
よし、これで眼鏡が完成する。そう思った時、ひどい脱力感が間黒を襲った。
「鼠王、ついに人間に一矢報いる時が来ましたね」
奥から声が聞こえる。
さっきのネズミの声にも聞こえる。一体何事だろう。
「やつら、私たちのことを害獣と蔑み、私たちの同族を殺し続けた。これは許されることではない! さぁ、愚かな人間共に鉄槌を!」
「鼠王! 鼠王! 鼠王!」
何だ? 鼠王? 一体何が始まるのだ?
「まずは、そこに倒れている人間の目を、見せしめに潰すのだ!」
「さすれば、ほかの人間どももわれらに恐れおののくことだろう!」
あれ、倒れている人間って、俺か?
だが、動くことができない。
ゆっくりと目を開く。ぼやけた視界に入ったのは、何か灰色の生き物がきれいに整列している姿。
「さあ、いざ、反撃の時!」
そう聞こえると、整えられた列は一斉にくるりと回った。黒っぽい視線が、こちらをにらみつける。
ゆっくりと、列を乱さずにやってくる大群。逃げようにも逃げられない状況。
きらりと光る、槍のような細い棒。そして、一瞬その光が空に舞う。
その瞬間、無数の棒が、間黒の目を襲う。
これまでか。間黒は思わず目を閉じて祈った。
目を開くと、机の上にうつぶせていたことに気が付いた。
さっきのは夢だったのだろうか。重たい体を起こす。
もしかしたら、さっきの殺虫剤が原因なのだろうか。そう思い、調子の悪かった安物のコンタクトレンズをケースから取り出し、そっと机に置く。
しばらく見ていると、さっきのネズミたちがいそいそとコンタクトレンズを持って行っていた。
こうしてみていると、ネズミもかわいいものだな。
そう思っていると、ネズミたちが入って行った穴からなにやら焦げたにおいがする。
何だろう、と思った時、中からネズミが二匹出てきた。
片方が一度穴に戻り、穴からもう一匹のネズミを引きずり出す。
「まだ、まだ母ちゃんが!」
「やめろ、戻るな!」
そう言っているようにも聞こえる。
やがて引っ張られていた一匹も諦めたのか、残り二匹と一緒に向こう側へと走っていった。
それを見届けると、間黒は穴の中を覗いた。
「……っ! 目が痛いな」
中は煙が充満しており、詳しい様子がわからない。
間黒は都合よく手元にあった懐中電灯を照らす。
そこには赤い光。やはり、中で火がついているようだ。
しかし、いったいどうしてこんなところで火が。電気コードのようなものは通ってないし、火が出るようなものはないはずだ。
だが、その前のことを思い出し、この問題は解決した。
集めていたレンズが光を集め、それが黒いところに集中しすぎることにより、火を起こしたのだ。
おそらく、中にはほこりやいつ間にか入った紙屑などがあったのだろう。
間黒は同情すると同時に、ネズミに対する憎悪が湧き出した。
燃える穴の中。おそらく母ネズミは無事ではないだろう。それを見て、間黒は気味の悪い笑みを浮かべる。
しかし、早く消火しなければ火の手が家全体に回りかねない。
さてどうやって消すか。と、目に飛び込んだのは、テーブルに置かれた飲みかけのコーヒー。
このくらいの火ならこれで十分だろう。間黒は穴に向かってコーヒーをぶっかけた。
ジュッ、という音を立てて激しく煙が立ち上る。
煙が収まった頃を見計らい、懐中電灯を穴に照らして中を覗くと、火はきれいに消えていた。
「これで……なんとか……火事には……なら……な……」
不意に謎の安心感が生まれ、間黒は意識を失った。
――ちゃん!
耳元で声が聞こえる。
――いちゃん! いつまで寝てるの?
どこかで聞いたような声。少し目を開けると、一気に眩しい光が差し込んでくる。
目の前に映るさかさまの人影は、どこかで見たような二次元の嫁に見えた。が、それが妹だとわかると、自分の思考回路に嫌気がさした。
「ん……ああ、おはよう。てか何故そこにいる?」
「朝ごはん呼んでも来ないからだよ。ほら、さっさと起きる!」
仕方なく体を起こす。意外とスムーズに起きられたのが、妙な感じがした。
「さっさと行くよ。はい、眼鏡」
右手に触れる冷たい感触。それを優しくつかむと、フレームを開き、目にかけた。
先ほどまでのぼやけた視界が、急にくっきりと映る。妹のむくれた顔が、目の前に現れた。
「……って、ちょっと待て。たしか俺の眼鏡、レンズがなかったはずだが、この眼鏡はどうしたのだ?」
妹に尋ねると、むくれ顔がいきなりぽかんとした顔に変わる。
「え、フレームにレンズはめただけだけど?」
「いや、そのレンズはどこにあったのだ?」
「ああ、それ、私が外しておいたの」
一瞬、視線と全身の筋肉が固まる。
「……はぁ?」
間黒は思わず部屋中に響くほどの大声で叫んでしまった。
「何でこんなくだらないことするんだよ! 眼鏡なくて大変だったんだぞ!」
煮えくり返りそうなはらわたを吐き出す勢いで怒鳴り続けると、妹は何故かクスリと笑い始めた。
「だって、昨日は四月一日、エイプリルフールでしょ? だからちょっといたずらを、と思って」
とんでもない動機に、どうすればいいのか一瞬ぽかんとする。
「……妹よ、お前はエイプリルフールを壮大に勘違いしている。いや、ある意味お前がエイプリルフールだな」
「な、なによそれ! どうでもいいけど、早く食べないとお母さん、朝ごはん片付けちゃうよ?」
そういうと、妹はさっさと部屋から出て行ってしまった。
「まったく、何だよそれ」
そう思いながら、ふとネズミたちのことを思いだした。
妙にリアルだったが、やっぱりあれは夢だったのか。そもそも、ネズミがしゃべる訳ないしな。
しかし、レンズを勝手に外しているところを考えると、きっとあの母ネズミが巨大化した姿が妹に違いない、などと勝手に想像した。
立ち上がって部屋から出ようとしたとき、机の方から物音が気がした。
振り返ると、一瞬影が動いたような気がした。
「まさか、な」
レンズを盗って行くのはともかく、火事だけは勘弁な。そう思い、間黒は部屋を後にした。
「鼠王、次は誰に夢を見させましょうか」
「まあ、焦ることはないさ。こうやってゆっくり一人ひとり夢を見せて行けば、いつか人間はネズミに恐怖することになるだろう」
間黒さんの実体験に、妙な要素を加えてみました。
ちなみに間黒さんは実際にエイプリルフールにレンズを妹に隠されたそうです。